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それからというもの、セファイドは時間ができる度にミモネの元に通うようになった。
とはいえ多忙な国王職である。夜になると必ず身体が空くとは限らず、市中に出られるのは月に二、三度ほどであった。望む時に会えるとは限らないもどかしさもあってか、逢瀬を重ねる度、彼はますますミモネに惹きつけられていった。
セファイドはいつも『ねずの木』の同じ席に座って、忙しなげに働くミモネを眺めていた。彼女は彼と目が合うとにっこりして、何気なく視線を天井に上げる。それが合図で、彼は先に店を出て裏口から2階に上がり、彼女を待つ。
閉店時間になり店の片付けが終われば、ミモネはすぐに上がってくるのが普通だったが、時には彼が待ちくたびれるほど遅くなることもあった。なかなか帰ろうとしない酔漢を角の立たないように追い出したり、酔い潰れて眠ってしまった客の介抱をするのも彼女の役目だからだ。
そんな夜は、自分でもおかしいと感じるほどセファイドは苛立ってしまう。ただでさえ貴重なミモネとの時間を奪われるのが悔しいのと、あとは単純な嫉妬である。店を閉めた後まで、客とはいえ他の男のために彼女が拘束されるのは面白くなかった。
「仕事を辞めたらどうだ」
浴室で、小さな湯船に浸かりながらセファイドは言った。
ミモネは驚いた表情でセファイドを振り返る。彼の胸に背中を預けるような姿勢で膝を折り曲げて、一緒に湯船に入っていた。湯は多めに張っているので、二人とも胸の下あたりまで温水に沈んでいる。
市中にある公共浴場では浴槽に溜めた水を直接沸かしているが、一般の家庭では陶器の湯船に沸かした湯を浅く張って沐浴するのが普通だった。
「どうしたの、急に?」
「馬鹿な酔っ払いに絡まれたりしていないかと、正直、気が気じゃない。今夜だってしつこくちょっかいを出していた男がいただろう。よっぽど止めに入ろうかと……」
「暴力沙汰は二度と起こさないでよ」
半ば真剣に心配するミモネの背中をセファイドは抱き締めて、そのうなじを弄うように唇を這わせた。
「辞めたら食べていけないわ」
「俺が面倒を見る」
「あなたの囲い者になれっていうの?」
ミモネは皮肉っぽく笑った。
「そんなつもりでは……」
「私この仕事が好きなのよ。お客さんにだって悪い人はいないから心配しないで」
「悪い人だろうがいい人だろうが、他の男がおまえに触れるのが耐えられない。おまえが他の男に微笑みかけるのも許せない」
「まったく……子供みたいに」
セファイドの腕を解いて、ミモネは彼に向かい合った。黒髪がしっとりと濡れて、湯で赤らんだ乳房にまとわりついている。扇情的な眺めではあるが、その表情はやや不機嫌そうだった。
「私は自分なりに誇りを持って働いてるんだから、口出しをしないで。だいたい、あなたに束縛されるいわれはないわ。何度か寝たくらいで恋人気取らないでよね」
口調に怒気は籠っていなかった。
あっさりとした物言いに、セファイドは却って反論できなくなった。
「セト、私はあなたがどこの誰かなのか知らない。その名前が本名かどうなのかも確かめようがないけれど、あなたが話さないことは訊かないわ。こんな都合のいい女、なかなかいないわよ」
ミモネは打って変わって甘えるように笑った。彼の胸元に頬を摺り寄せ、指先で皮膚をなぞる。
「だから、あなたも私の生き方に深入りしないで。それがお互いのためよ」
力仕事が多いせいか、ミモネの肢体は華奢でありながら引き締まっている。絡みついてくるしなやかな腕や、対照的に柔らかな胸の膨らみの感触は心地よかったが、セファイドは天井を見上げて溜息をついた。
確かに、このまま身分を隠して愛人として付き合うぶんには、これ以上なく都合のいい女だ。気の向いた時にだけ会いに行って、その身体を味わって、飽きれば去ればいい。彼女の生活にさえ干渉しなければ、何の後腐れもない。
割り切ってしまえ、どうせ一時の気の迷いだ――冷静で狡猾な理性は常にそう囁いている。にもかかわらず、なぜかもやもやと気持ちの悪い想いがセファイドの腹の辺りに滞留していた。
自分から寄り添ってきたくせに、セファイドの掌が肌の上を滑り始めると、ミモネはそっぽを向いて立ち上がった。
のぼせちゃったと言って壁に掛けた浴布を取り、濡れた身体を拭きながら浴槽から出る。
「先に行って待ってるね。するんでしょ?」
「……する」
からかうような誘うような、どこか淫靡な笑みが、薄い間仕切り布の向こうへ消えた。
ミモネはいつも優しい笑顔でセファイドの来訪を喜び、かと思えば気儘な振る舞いで彼を撥ねつけ、その後は乙女のような従順さで彼に身を任せる。快楽に対しては彼以上に貪欲さを見せるのに。
彼女の気紛れと意外性に翻弄されながらも、セファイドにはそれが計算された手練手管だとは思えなかった。
好きだとか愛してるとかいう言葉がミモネの口から出たことは、これまで一度もない。床の中ですら、そういった甘い睦言は言わない女だった。
だからなのか、とセファイドはようやく気づく。自分が抱いているような強い執着を、彼女は持っていないと薄々感じているから、これほど不快な想いに責め苛まれるのか。
どうしようもなく、あの女のすべてが欲しい。
いっそのこと自分が誰であるか明かしてしまって、あの生意気な女をひれ伏させてやろうかという嗜虐的な衝動に駆られることもある。今までの非礼を洗いざらい詫びさせて、どうかお傍に置いて下さいと言わせてやるのだ。
しかしその時に彼女が浮かべるであろう傷ついた表情を思うと、セファイドの方も同じだけ傷つくのが容易に想像できる。そして万が一、彼女が彼の正体を知っても何の驚きも示さなかったら――それこそ逆に二度と立ち直れぬほど打ちのめされてしまう気がした。
我ながら救いようがないなと、彼は湯の中で薄く嘲笑った。
白々と明け染める空の下、大通りへ続く路地を帰ってゆく男の後ろ姿を、ミモネは部屋の窓から見下ろしていた。
薄い夜着の下の素肌には、その男が残した口づけの跡が花弁のように散らばっている。四肢には気怠い疲労感が染み渡っているのに、身体の芯はまだ熱を持っていた。
しかし愛し合った男を見送る彼女の黒い両目は、情事の名残りなど微塵も感じさせず澄み切っていた――冷酷なほどに。
セファイドの姿が路地の角を曲がって消えると、ミモネはようやく窓から離れた。
鏡台の隣の本棚に近付き、一冊の本に手をかける。それは手書きの古い帳面だった。
丁寧にページを捲る指は、少し震えていた。
早朝の大通りには人の気配がなかった。立ち並ぶ商店はまだ閉まっており、どこからか鶏の声が聞こえる。アルサイ湖ではもう朝の漁が始まっているだろうが、獲れた魚が市場に運ばれて来るまでにはまだ時間がありそうだった。
王宮のある北に向かい、通りを足早に歩くセファイドの行く先に、大柄な人影が待っていた。
「……やっぱり彼女とそういうことになっていたのか」
腕組みをして彼を迎えたシャルナグは、厳つい顔をしかめて咎めるように言う。
セファイドは少し驚いて足を止めたが、そのまま目を逸らして歩き出した。
「仕事に支障は来していない。誰にもどうこう言われる筋合いはないはずだ」
「だといいんだがな」
確かに職務に穴は空けていない。だが最近の国王はどことなく腑抜けており、キレがなかった。それを知っているシャルナグは、皮肉っぽく呟いて彼に並んだ。
「通うのは構わんが、せめて護衛をつけろ。暗殺でもされたらどうする」
「国が大きくなっているこの時期に、それはないよ。俺が政敵なら、有能な国王をたっぷり働かせてオドナスを大国にして、それから奪う」
「おまえのように計算高い人間ばかりとは限らん。それにおまえ個人に恨みを抱いている奴なら、時期など選ばないぞ」
「そういう覚えはないんだがなあ」
セファイドはあくびを噛み殺した。体質的に彼は睡眠時間が短くても平気だったが、ミモネはおそらく昼まで寝ているのではないかと思い、可笑しくなった。
シャルナグはゆっくりと首を振って、
「頼まれていた件、調べたよ」
と、告げる。セファイドは表情を引き締めて有能な部下を見やった。
「それで?」
「確かに、王軍の戦死者名簿にテクスという名があった。二年前に、ガルダン渓谷で死亡している」




