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幕間劇『追想』  作者: 橘 塔子
第三話 初恋 ~ 蜜月の果て
20/25

<6>

 ようやく店内の混雑が落ち着き、ミモネは額の汗を拭いながらセファイドのテーブルに顔を出した。


「意外な取り合わせねえ」


 彼女が目を丸くしたのも無理はない。彼らが一緒に飲んでいるのはさっきから視界の隅に入っていたが、いつの間にやらマテンはテーブルに顔を伏せて居眠りを始めていた。


「いらっしゃい、セト。今夜は一人なのね」


 そう言って微笑みかけるミモネは、それが営業用の笑顔であったとしても朗らかに美しく、セファイドは素直に見蕩れてしまった。美女ならば後宮で飽きるほど見ている彼が、ほとんど化粧っ気のない顔と乱れた髪の給仕女から目を逸らせなかった。


「追加のご注文は?」

「酒はもういい。また……酔い潰れてしまうとまずいからな」

「そしたらまた泊めてあげるわ」

「今夜はおまえに会いに来たんだ」


 セファイドは真っ直ぐにミモネを見詰める。

 ミモネは少し戸惑った様子で自分の顎を掻いた。しかし、


「この前、ここに剣を忘れて」


 と、彼が付け足すと、一呼吸おいて肯いた。


「あ、そうそう、預かったまま返してなかったわね。あなたが来なかったらどうしようかと思ってて。上の……私の部屋に置いてある」


 取ってくるね、と言って身を翻す彼女の手首を、セファイドは掴んだ。細いが、筋肉のしっかりとした手首だった。


「いや、あれは重いから、俺が取りに行こう」


 妙に真面目くさって告げるセファイドを、ミモネはきょとんとして見返す。確かに金属の長剣は重いが、彼女は普段それよりも遥かに重量のある酒の木箱を運んでいる。


「何それ、その口実。私の部屋に来たいの?」


 くすくすと笑われて、セファイドは渋い表情になった。自分でも下手な言い訳だと思っていたからだ。図星を刺されても腹が立たないのは、ミモネの口調に嫌味がないせいか。

 ここでさらに食い下がるべきか、と逡巡するセファイドは、まだミモネの手首を握ったままだ。そんな彼の手を、ミモネは軽く撫でた。


「……仕事が終わってからでいい?」

「え……」

「ここに居残られると目立つから、店を閉めるまで外で待ってて。勝手口を開けておくわ」


 彼女はセファイドの耳元に顔を近づけて、小さな声で囁く。温かい吐息が彼の首筋に触れた。黒く潤んだような瞳は、笑みを含んで妖しく揺らめいている。

 背筋がぞくりとするのを、セファイドは感じた。

 ミモネはすぐに身を離し、素っ気なく手を振り解く。それから彼を見ようともせず、眠り込んでしまったマテンの身体を揺すった。





 夜半近くになり、階段を上って部屋にやって来たセファイドを、仕事着のままのミモネが迎えた。


「これ、返すわね」


 ミモネは鞘に入った長剣を差し出した。あまり使い込まれていない、新しい剣であること以外はこれといった特徴のないものだ。あくまで市中に出る時の護身用なので高価な業物でもなく、国王にとって失くして惜しい剣ではなかった。


 セファイドはそれを受け取ると、興味もなさげに壁に立てかける。

 そして無言でミモネを引き寄せて、唇を奪った。

 この前の意趣返しのような不意打ちである。ただしあの時の三倍は激しい口づけだった。乱暴なほどの勢いで唇を貪られて、ミモネは息もできず、くぐもった声を漏らした。


「ちょ……ちょっと待って……セト……待っててば……」


 ミモネはセファイドの腕の中でもがいて、何とか顔を反らした。

 そんな抵抗など意に介さず、彼は彼女の衣服を解こうと無遠慮に帯の辺りをまさぐる。ミモネは自由になった右手でごつんと彼をぶった。


「いった……何するんだ」

「待てって言ってるでしょ! がっつかないの!」


 彼女はセファイドを押しのけて、長い髪を背中に払った。

 セファイドはぶたれた側頭部を押さえながら、


「俺はおまえが欲しいんだ、ミモネ。おまえもそのつもりで俺を入れたんだろう?」


 と、堂々とした態度で言い放つ。

 ミモネは眉根を寄せて嫌そうな顔をした。


「違うとは言わないけどさ……手順ってもんがあるじゃない。私、仕事終わったばかりで汗臭いし、お風呂くらい入らせてよね。それに……」


 ほの白い顔が、わずかな朱を帯びる。長い睫毛で飾られた瞼が、恥じらうように伏せられた。


「私こういうことって凄く久し振りなの。だから……手を抜かずにちゃんとして」


 細い声でそう言った彼女は、少女のように頼りなげで不安そうで、酔っ払いを怒鳴りつける気の強い女とは別人のようで――セファイドは胸の奥を甘くくすぐられた。

 そして、有無を言わせず押し倒してやろうと考えていた自分の性急さが、少々恥ずかしくなった。


「分かった、ちゃんとするよ」


 セファイドは壊れやすい砂像を扱うように、そっとミモネを抱き締めた。


「言っておくけど、誰とでもこんなことする女じゃないからね」

「ああ」

「商売にしてるわけでもないからね」

「分かっている」


 機嫌と表情がくるくると変わって、まったく飽きない女だと思った。振り回されるのが、また面白い。

 おずおずと彼の背に手を回すミモネからは、本人は汗臭いと気にしていたのに、ふんわりと心地よい匂いがした。

 




 あの女はいったい何なんだろう――セファイドは椅子の肘掛に頬杖をついて、ぼんやりと考える。


 見てくれは文句のつけようのない美人。着飾れば貴族の令嬢と見紛うばかりに磨かれるだろうに、身だしなみ程度の化粧しか施さず、気さくな笑顔を惜しげもなく酒場の客たちに振り撒いていた。媚びを売ることはないが、自分の美しさをよく知っていて、客あしらいに利用している節がある。しかし根はさっぱりした女だということは間違いない。

 濁りのない深く黒い瞳――恐れ気なく真っ直ぐに見返してくるそれは、セファイドにとってひどく珍しいものだった。

 国王たる自分に対し、ポンポンと物を言う女に興味を惹かれただけなのかとも思うが、一緒にいると心が騒ぐ。それでいて居心地はいい。


 今朝方、夜明け前にミモネと別れて王宮に戻ってきたばかりだというのに、半日も経たぬうちにもう彼女に会いたくなっているのだった。

 会って、また彼女を抱きたい。


 こういうことは久し振り、と言っていたミモネであったが、初めての交歓は実に素晴らしかった。いわゆる身体の相性がよかったのか、すんなりと肌が馴染んで、狭い寝台の上で彼らは何度も抱き合った。

 汗ばんだミモネの全身はとても敏感で、その体つきは可憐な顔立ちからは想像できないほどなまめかしかった。

 蕩けるように吸いついてくる熱い肌の手触りや、切なげに震える睫毛や、感極まった瞬間の泣くような声や――彼女の記憶が生々しくセファイドの全身に残っている。何か特別な技巧を持っていたわけでもないのに、ミモネは一晩中彼を夢中にさせた。


 だがまだ足りない。許されれば、彼は今すぐにでも彼女の元へ戻って、再びその身体を貪っただろう。


「……南方の三ヶ国が秘密裏に同盟を結んだとの情報があります。早急に国境警備軍の増員をせねばなりませんが、編成についていくつか案が……陛下?」


 将軍に呼びかけられて、セファイドは我に返った。

 王軍上層部の集まる会議の途中であった。広い会議室の円卓には三十名余りの幹部が着席し、地図を広げて意見を交わしていたが、今彼らの視線は国王に集まっていた。


「ああ、すまない、聞いていなかった」


 セファイドの返事に将軍は一瞬呆気に取られ、それから訝しげに顔を曇らせた。自分の報告が聞き流されたのが心外なのではなく、国王の集中力散漫が意外だったのである。セファイドはこれまで、少なくとも軍議の席においては意欲的だったはずだ。

 気を取り直して最初から報告をやり直す将軍の声に耳を傾けながらも、セファイドは頭の大部分でまたミモネのことを考えてしまっていた。


 振り返ってみれば、異性に対して強い恋愛感情を抱いた経験が彼にはなかった。そのようなものを感じるより先に、彼は義務として子を残さねばならなかったし、相手の女は選ぶまでもなく自動的に決まった。

 正室たる異母姉とは、夫婦というより共犯者のような関係だとセファイドは思っている。姉の協力で彼は今の地位を手に入れたのだ。おそらく一生裏切ることのできない大事な相手。

 他の四人の側室たちはみな有力貴族の娘で、政治的な意図があって妻に娶った。子を成して家族としての情愛は感じるものの、それはとても穏やかなものだ。大切に守りたいという気持ちに偽りはないが、あまりにも日常に馴染みすぎている。

 刺激を求めて気の向くまま、様々な女たちと戯れることもある。彼が望めば必ず手に入ったが、一度抱けばたいてい飽きた。少なくとも、彼の方からまた会いたいと求めることはなかった。

 ミモネに対してもそうなるだろうと、昨夜までは思っていたのだが。


 まずいぞ、とセファイドは小さく溜息をつく。

 ほんの遊びのつもりが、一晩で完全に嵌ってしまった。それも首まで。


 心ここにあらずといった国王の風情に、その場の全員が、会議室の末席に座したシャルナグまでもが気づいていた。これは何かあったな、と真面目な友人は舌打ちをした。





 軍議が終わり、執務室へ戻るセファイドが1人になったところを見計らって、シャルナグは彼を呼び止めた。


「どうしたんだよ、何があったんだ?」


 心配そうに顔を覗き込むシャルナグを、セファイドは怪訝そうに見返した。


「何がって……何がだ?」

「とぼけるな。おまえ会議中に何度同じことを訊き返した? あんなグダグダな軍議は初めてだぞ」

「そうか……それは悪かったな」


 まったく悪いと思っていないどころか、彼の言葉の意味も理解していないような口調でそう答えて、セファイドはシャルナグの前を通り過ぎた。どこか壊れてるんじゃないかと、シャルナグは本気で不安になる。

 だがほんの数歩進んだところで、彼は勢いよく振り向いた。


「そうだ、ちょうどよかった。おまえにひとつ頼みたいことがあるんだ」


 その表情と眼差しはいつもの通り生気に満ちていた。

 寝惚けていた獣がいきなり目を覚ましたようだった。

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