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窓から流れ込んでくる生暖かい夜風が、蝋燭の炎をゆらゆらと揺らしている。
アルサイ湖に最も近いこの王宮の夜は、たいてい涼しく過ごしやすいのだが、今夜は少し蒸し暑いようだった。風通しが悪ければ寝苦しい夜になったかもしれない。
それでなくてもこの場所は、いつも奇妙な熱気に満ちているのだ。人によってはその熱気を嫌う者もいるだろう。
しかし私は、ここの空気を割と気に入っていた――情欲と打算が複雑に混ざり合ったこの空気が。
オドナス王宮の中、後宮の一室である。
贅沢に並べられた燭台にはすべて炎の灯った蝋燭が乗せられて、明るく室内を照らしている。絨毯や壁掛けは高価な絹製、調度品も真新しい。部屋の片隅に置かれた香炉からは花の香りのする薄い煙が立ち上っていた。
オドナス一の歌姫と称される私を今宵呼んだのは、ここの主人であった。
黒に銀糸の刺繍を施した衣装を身に纏い、私は丁寧に頭を下げる。鷹揚な笑みを浮かべて応える彼は、対照的に緩い部屋着姿だった。
王宮に出入りするようになって初めて分かったのだが、身分の高い人間ほど普段の服装は簡素だ。考えてみれば主人が自分の家で正装する必要はないはずで、着飾らなければならないのは仕える側の人間なのだった。
幅の広い長椅子に腰掛けた彼の隣には、だから、豪奢に着飾った若い女が座っている。まだ十七、八歳と思われる、綺麗な顔立ちの女だ。
「お招きありがとうございます、陛下。何をお聴かせいたしましょうか」
「うん、今夜はこれの希望に合わせてやってくれ」
彼は手にした杯を傾けながら、隣の女を見やる。
女は半分ほど空いた彼の杯に白い酒を注ぎ足した。まだぎこちない、初々しい動作である。
彼女は、最近入ったばかりの新しい妾妃だった。王宮出入りの商人の娘であったのを彼が見初め、例によって妻の一人にと望んだのだ。
彼が女の元を訪れるのは、今夜が初めてのはずだった。
「王都で評判の詩人があなたの声に恋焦がれて、先月あなたに捧げる詩を書いたと伺いましたわ、キルケ様。それにやはり著名な作曲家が曲をつけて、ええと確か……」
女はある詩人と作曲家の名前を出し、私はにっこりして肯いた。
「よくご存知ですね。ええその通りです」
「その歌が聴きとうございますわ」
彼女の依頼は純粋な好奇心から出たもののようだった。
潤んだような黒い瞳の美女ではあるが、いかんせんまだ若い。煌びやかな衣装や装飾品で飾るというより、飾られているように見えた。
この先ここでどれだけ洗練されていくか、だわね――私は少し冷めた目で新入りの愛妾を眺める。堂々と自分の希望を口に出せるあたり、長続きする素質はあると思う。
「かしこまりました」
私が一礼すると、女は嬉しそうに笑って彼を見た。彼もまた微笑んで彼女の肩を抱き寄せる。
彼は後宮に新しい女を迎えるにあたり、決して強要はしないのだという。本人や周囲に圧力をかけるようなことはせず、あくまでも自由意思に任せる。だからこの女にしても、親である商人の将来を多少考えたにせよ、望んでここへ来たのだろう。
飽きられないように頑張りなさいよ、と心の中で激励して、私は彼らから少し距離を取った。
伴奏をつけず、やがて私がゆったりと歌い始めると、彼も妾妃も脇に控えた侍女たちまでもが聴き入った。
世間の人から、高音は鈴の音に、低音は弦楽器に例えられるほど、私の声の音域は広い。その幅広さを十二分に生かした難易度の高い曲だった。私に捧げられただけあって、王都広しといえど私以外には歌いこなせないだろうと思われた。
詩は片想いの苦しさを切々と訴える内容で、いくぶん甘ったるく、実をいうとあまり気に入ってはいない。
しかし今その歌詞を、私は彼の目を見詰めながら歌った。
私が愛して止まないただ一人の男――オドナス国王セファイドは、その視線を平然と受け止めていた。
私の想いを誰よりもよく知っていて。
国王は後宮や、時には自室にまで私を招いて歌わせておきながら、私に指一本触れることはなかった。
彼にとって私はあくまでも歌姫――愛でるのはその歌声だけなのだ。
けれど、私はその役割に満足していた。これも強制されたわけではない。国王の側女に収まるよりも歌手として歌い続けることを、自分自身で選んだのだから。
激しく音程の上下する旋律を歌ううちに、腹筋が熱を持ち喉が熱くなる。
歌声はますます伸びやかに華やかに響き、全身に汗が滲んだ。熱と疲労はむしろ快感で、上気した頬が艶を帯びるのが分かる。
眺める国王の瞳にも同じような熱が宿っていた。意図的に感情を込めた私の歌声が、どれほど蠱惑的に聴く者の心をくすぐるか、私はよく知っている。
そう、これは交歓なのだ。身体は交わらなくとも官能を共有することができるのだから。
自分の恋情も欲望もすべて歌に昇華していくような気がして、身体の奥深くから喜びが湧き上がる。
私の歌声に、蒸し暑い夜気が震えた。
○●○●○
物心ついた時にはすでに、キルケは放浪していた。
旅廻りの歌謡団――それがキルケの家だった。歌手、楽師、軽業師、舞踊師、手品師、雑多な芸人たちがいて、皆彼女と同じ色の肌をしていた。元は南の大陸に住んでいたが、戦乱に追われ、国を捨てた者たちの集まりだった。
彼らは過酷な砂漠を渡り、短期間の舞台を披露しながらオアシス都市を転々とした。
決して楽な旅ではなく、大人たちは故郷を想って涙することもあったが、キルケは辛いとは思わなかった。彼女にとってはこうした放浪が暮らしであり、故郷の意味も知らなかったのだ。
キルケに父親はいない。母親は、歌謡団一の歌姫だった。
煌びやかな衣装に身を包んだ母親が舞台に現れ、楽団の演奏に合わせて歌い始めると、観客は皆その妖艶な歌声に聴き惚れた。どこの土地へ行っても彼女には惜しみない喝采と銀貨が降り注がれた。
そんな母親の姿を舞台袖で見ていた幼いキルケは、いつか自分もあんなふうに歌いたいと願うようになっていた。
もちろん貧しい旅芸人であるから、身に着けた華やかな衣装は見てくれだけの安物であったし、やたらに光る派手な装飾品の宝石は全部偽物だ。舞台で歌うだけでなく、時には土地の権力者などの屋敷へ招かれて別の収入を得ることもあった。女芸人が娼婦を兼ねるのはよくあることだ。
それでもキルケは母親に憧れ、歌を習うようになった。自分も歌謡団の歌手としてこの先ずっと旅を続けるのだと無邪気に信じていた。
その生活が終わったのは、キルケが七歳の時であった。
滞在していたとあるオアシス都市が、突如奇襲を受けたのである。その街は宝飾品の取引が盛んな場所で、それによる繁栄を快く思わない隣国の仕業であった。
混乱する街はあっという間に戦火に包まれた。彼ら歌謡団の数十人が脱出する暇もなく、大挙して押し寄せた隣国の兵士による略奪が始まった。
その時に目にした地獄をキルケは忘れられない。
燃え盛る炎の中、街は破壊され商品は奪われた。男は次々と殺され、女は根こそぎ連行されていった。
怒号と悲鳴と断末魔の声の中を、キルケは団員たちとともに必死で逃げ惑った。この街の人間ではないと言っても通用するような状況ではなかった。兵士たちは欲と血に狂っている。
忘れられない、とはいえ、その時感じた恐怖についての記憶は、キルケの中でひどく曖昧だ。
兵士に追い詰められ、歌謡団の仲間が、家族同然に暮らしてきた者たちが次々と斬り殺されていった光景――軽業師の喉下から噴き出す血の色や、腕を斬り落とされた歌手がどんな悲鳴を上げたかは明瞭に覚えているのに、その時自分がどう思ったかはよく思い出せないのだった。
あまりにも凄まじい恐怖を覚えたが故に、自我を守ろうとする防衛本能がそうさせているのかもしれないと、今になって彼女は思う。
だから、兵士の乗る駱駝に踏み潰されそうになったキルケを庇って飛び出した母親が、その騎手である兵士の持った槍で背中から串刺しにされた時の気持ちも、彼女はあまり覚えていない。
母親の死の光景は現実感に乏しかった。
結局、生き残った団員たちは街の住民とともに捕虜として隣国へ連れて行かれた。
数日かかるその道程で、捕虜になった女たちは夜毎に兵士の慰みものになっていたようだった。幼いキルケはさすがに免れたが、野営の天幕からは女の悲鳴とすすり泣きと、男の下卑た男の笑い声が絶えなかった。
国に到着すると、彼女らは戦利品として売られることになった。
キルケを買い取ったのは、街一番の遊郭だった。彼女はここで背中に忌まわしい焼印を押され、一切の自由が許されない奴隷となったのだ。
キルケはまず遊郭の下働きを仕込まれた。
そこには彼女の他にもたくさんの女奴隷がいて、女将がその全員を取り仕切っていた。女将の仕込みはたいへん厳しく、子供にも容赦がなく鞭を振るったので、キルケは生傷が耐えなかった。食事の量も十分とはいえず、空腹と鞭の傷の痛みで眠れない夜は、死んだ母親と離れ離れになった仲間たちのことを想って泣きじゃくった。
それでも持ち前の聡明さでキルケは仕事を覚え、数年経つうちに裏方の仕事はほとんどそつなくこなせるようになっていた。遊女たちの衣装を整えたり髪を結ったり化粧を手伝うことも覚えた。
加えて、彼女は歌が上手だった。
仕事の合間に口ずさんでいるのを女将に聞かれ、最初は叱られて鞭が飛んできたが、それでも女将の目を盗んでは遊女や同僚の前で歌うようになった。その歌声は不思議と聴く者の心を揺さぶり、少しずつ仲間内で評判になっていった。
普段は男を平気で手玉に取り、媚びて騙して金子を搾り取る遊女たちが、キルケの歌を聴いて涙を流す――その光景を見て、女将は主人に相談をした。主人の判断で、キルケは遊郭に出入りする歌手から歌の手ほどきを受けることを許された。
やがて十四歳になったキルケは、遊女として客を取らされるようになった。
初めての客は父親ほども歳の離れた男だった。少女が好みだというその男は決して乱暴ではなかったが、若すぎるキルケにとって行為は苦痛でしかなかった。
だがこんなものだろうと彼女は達観していた。教えられた通りのことをきちんとしていれば、客は満足して帰っていく。それにこの遊郭の客筋はよかったので、無体な要求をしてくる男はいなかった。『仕事』に慣れれば、鞭を振るわれる下働きよりずっとマシだ。
何よりも大好きな歌が歌える。彼女の歌だけを聴きにやって来る贔屓筋もついて、キルケは自分の境遇をそれほど辛いとは思わなかった。
歌が上手いぶん希少価値がつけられ、彼女は他の新人にくらべて数割増しの花代を取った。それでもその歌声が聴きたいという客は多く、すぐに彼女は売れっ子になっていった。
焼印を背負った身を飾り立てられ、煌びやかな鳥籠の中で歌う――彼女は自由の意味すら知らなかった。
一人称と三人称の入れ替わり、現在と過去の時系列など、読みにくい点があればご指摘下さい。模索中です……。




