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幕間劇『追想』  作者: 橘 塔子
第三話 初恋 ~ 蜜月の果て
19/25

<5>

 息を切らして『ねずの木』にやって来たシャルナグは、店内の光景を見て大きく口を開けた。


「あら、昨夜のお兄さん、いらっしゃい」


 ミモネはテーブルの上に重ねられた食器類を丁寧に拭きながら、シャルナグに声を掛けた。真っ直ぐな黒髪をひとつに束ね、前掛けを着けた姿は昨夜と同じだ。

 彼女の傍らには脚立があって、彼を絶句させたのはそれに上った人物だった。


「おはよう、ようやく来たか」


 この国の主は、脚立の上で何やら作業をしているところだった。天井から吊り下がった燭台の煤を取り、蝋燭を新しいものに取り換えているようだ。その横顔は真剣で、挨拶はしたもののシャルナグの方を見ようともしない。


「な……何してるんだよおまえは?」


 呆然と尋ねるシャルナグに、ミモネが悪びれもせずに答えた。


「天井の梁にどうしても煤がたまっちゃうのよね。背の高い人がいると本当に助かるわあ」

「助かるわあって、あんた……」

「終わったぞ、ミモネ。次は?」


 セファイドが脚立を下りて、袖を捲った右腕で額を拭った。左手に汚れた雑巾を持ち、顔には黒い煤がついている。


「ああ、綺麗になったわね。そこで最後よ。ありがとう」

「そうか、手を洗わせてくれ」

「あ、そこの盥を使って……雑巾はもう捨てちゃっていいわよ」


 二人のやり取りに、シャルナグは開いた口が塞がらなかった。

 一国の王が、給仕女の指示に従って酒場の掃除をしている。しかも見たところ、彼は嫌がっているふうはない。むしろ楽しげだった。


「おまえ、おまえなあ……」


 こんなところを王宮の家臣たちには見せられない、見せたら自分が殺される――冷や汗を垂らすシャルナグを、セファイドは不思議そうに眺めた。


「どうしたんだ? 真っ蒼だぞ」

「何してるんだよ、セファイド……人の苦労も知らないで……」

「ここで名前を呼ぶな。一晩世話になったから、その礼だ。ミモネ、脚立はどこへ片付ければいい?」


 シャルナグはゆっくりと首を振った。もう何も見なかったことにしようと決心した。とにかくこの男を早く連れ帰らねば。

 彼は懐から銀貨の詰まった袋を取り出して、テーブルの上に置いた。


「約束の代金だ。店主を呼べ」


 昨日の深夜王宮へ帰った彼は、迷った挙句にエンバス侍従長に事情を話した。金は何とか準備できるとしても、国王が帰って来ない訳を誤魔化すことはできないと諦めたからだ。その時点でシャルナグは、自分の首が比喩ではなく飛ぶことを本気で覚悟した。

 先の国王の代から仕えている侍従長は、さすがに眉毛をぴくりと引き攣らせたが、取り乱すこともなく、明日の朝もう一度来なさいとだけシャルナグに言った。そして、今朝再び出仕した彼にこの金を渡したのだった。

 エンバスがどこにどんな話を通したのかは窺い知れない。国王不在の王宮は、少なくとも表面上混乱した様子はなかった。


 ミモネに呼ばれて、店主が店舗裏の住居から出てきた。

 店主は昨夜と同じく遠慮気味に、だがしっかりと銀貨の袋を受け取って、中身を確認した。


「はい、確かに……どうもありがとうございました」

「領収証をくれ」

「はい、ただ今」


 帳面を取りに店主がいそいそと奥へ戻って行くと、ミモネはセファイドとシャルナグに軽く頭を下げた。


「今後もどうぞご贔屓にね、お二人さん」

「よく言えるな、そういうことが。客から金を巻き上げておいて……」

「セト」


 抗議するシャルナグを無視して、彼女はセファイドに向かい合った。


「よく考えたら、昨夜の勝負はあまり公平じゃなかったわ」

「そうか?」

「だって、私は素面だったけどあなたは先に麦酒を何杯か飲んでたでしょ。それに、あのお酒はとても質が悪いの。飲み慣れてない人には不利よ」


 ミモネの表情は清廉だった。金払いのいい上客を捕まえようというような下心は感じさせない。世慣れてはいるが、基本的にズルの嫌いな女らしかった。

 セファイドは苦笑した。


「負けは負けだ。気にすることはない。それとも、金を半分返してくれるのか?」

「それも考えたけど、私もあまり余裕はないから……こうするわ」


 ミモネは彼に近寄り、その肩に手をかけると、ためらうことなく唇を重ねた。


 彼女の唇は柔らかく、セファイドは驚いたが押しのけることはできなかった。化粧や香水の匂いのしない唇は、彼にとって新鮮で心地よかった。

 唇を押し当てるだけの軽い口づけではあったが、ミモネはしばらく身体を離さなかった。飾り気がないぶん、ほのかな体温が直接伝わってくる。セファイドは思わず彼女の背中に手を回し、強く引き寄せた。

 だが彼が唇から奥を求める前に、彼女はするりと腕から逃れた。


「……これで貸し借りなしね」


 ミモネは照れた様子もなく勝気な笑みを浮かべる。紅を引いたわけでもないのに艶やかな唇が、清純な雰囲気の美貌の中でそこだけなまめかしい。

 やられた、とセファイドは内心舌打ちをした。この女、俺に不意打ちを食らわせた挙句に、焦らして逃げやがった――。

 完全にからかわれたのだと理解して、彼は渋い表情を作った。しかし本心ではそれほど悔しがっていないことを自覚しているから、ますます居心地が悪い。


「変な女だ……」


 言うべきことは他にもあるような気がしたが、セファイドはぼそりとそう呟いた。

 もう文句をつける気力も失せたシャルナグは、店主から領収書を引ったくるように受け取って、どことなく名残惜しげなセファイドの襟首を掴んで店を出た。


 そんな二人の後ろ姿を、店主と女将は深々と頭を下げて見送ったが、ミモネは値踏みをするような鋭い眼差しで見据えていた。





 王宮に戻ったセファイドに、侍従長エンバスは何も言わなかった。

 彼だけではない。国王の外泊を知っているはずの重臣も側近たちも、まるで何事もなかったかのごとく平静だった。


 ただし、いつもの倍もの業務が次々と運び込まれた。

 普段なら彼の元まで上がってこないような些末な案件から、急を要していないはずの決裁まで、途切れることなく書類が執務室に回ってくる。セファイドはその日から翌日にかけて、睡眠どころか食事を摂る時間すら満足に確保できぬほど多忙になった。


 国王の執務時間の管理をするはずのエンバスは、修羅場を味わう主人の様子を冷ややかに眺めていた。やはり睡眠も食事も摂らず、黙って執務室の隅に控えている。


「悪かった! 悪かったよエンバス。勝手に出歩いて迷惑をかけた。謝るから許せ」


 侍従長の陰湿な嫌がらせに、ついにセファイドは音を上げて謝罪した。こんなことなら面と向かって罵られた方がずっとマシだった。

 エンバスは怒ったふうもなく、平素の通り穏やかに答える。


「遊びたいのならその前に三倍はお働き下さい――私が申し上げることはそれだけです」


 国王の振る舞いを公に叱責できる者などおらず、自分の不始末に対する責任は自分で引き受けるしかない。それを、セファイドは改めて思い知った。





 十日の後に、セファイドは再び『ねずの木』を訪れた。

 今回はシャルナグを連れず、単身である。前日までに必死で仕事をこなして、急ぎの案件はほぼ片付けてきた。行き先を告げずに出てきたのは誉められた振る舞いではないが、朝までに戻ればとりあえず業務に支障は出ないはずだ。


 店は相変わらず混んでいて、セファイドはいちばん奥のテーブルの隅に座り、静かに飲んでいた。忙しげに酒を運ぶミモネと何度か目が合う。彼女は、あら、という意外そうな顔をしたが、あちこちから注文が入って話ができる状態ではなさそうだった。

 代わりに、別の人物が彼の前にやって来た。


「よう、また来たのか、兄ちゃん」


 テーブルの脇に立ったのは、麦酒の杯を片手に持ったマテンだった。先日、セファイドとともに水をぶっかけられた男である。

 さすがに目つきが鋭くなるセファイドへ、


「そんな怖い顔すんなよ。こないだは悪かったなあ……酔っててあんまり覚えてねえんだけどよ、何か迷惑かけちまったみたいで」


 と、バツが悪そうに頭を掻く。今日はそれほど顔も赤くなっておらず、素面に近いようだった。

 かみさんにバレてこっぴどく怒られたよ、と笑いながらマテンはセファイドの向かいの椅子に腰を下ろした。根はいい男らしく、笑顔は人懐っこい。セファイドは警戒を解いた。


「俺もちょっとやりすぎた。すまなかったな」

「じゃ、これで手打ちな」


 マテンは杯を差し出し、セファイドも自分の杯を掲げた。


「……ミモネちゃん、いい娘だろ」


 大きな盆を両手で抱えて店内を行き来するミモネを目で追いつつ、マテンは溜息をつく。


「気立てがよくて、ビシッと筋が通ってて……しかもとびきりの別嬪さんだ。あの娘目当てにこの店に通ってる男は多いんだぜ」

「ああ……気は強いがな」

「はは、そりゃ下町育ちだから仕方ねえよ。あんたもミモネちゃんに会いにきたんだろ?」


 セファイドは答えず、曖昧に笑って誤魔化した。

 それをどう取ったのか、マテンはぐっと身を乗り出した。


「でもな、ミモネちゃんは誰にもなびかねえんだ。俺みたいな女房持ちのしょぼくれた親爺はどうでもいいとして、どんなに若い男前が口説いても落ちやしねえ。なんでか分かるか?」

「さあ?」

「死んじまった恋人を、未だに想ってるからさ――可哀想になあ」


 下心など欠片もない、まるで実の娘を見るようなしみじみとした眼差しになって、マテンは大きく息を吐いた。

 セファイドは唇を歪めた。喉に残った酒の味が、ひどく苦く感じられた。


「……その話、詳しく聞かせてもらえるか?」

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