<4>
目を覚まして感じたのは、猛烈な喉の渇きだった。
口の中に砂が詰まっているのではと思えるほど、唇から喉元までの粘膜が渇ききっている。それから、ひどい頭痛。首筋から背中の方まで痛い。
セファイドは低い呻き声を上げて、瞼を擦った。こんな最悪な目覚めは生まれて初めてかもしれなかった。
何だこれは、何でこんなに気分が悪いんだ――彼は訳が分からず、目を開けて辺りを見回した。首を少し動かすだけで、筋肉がぎしぎしと軋むようだ。
「起きた?」
いきなり女の顔が頭上から覗き込んできて、セファイドは反射的に飛び起きた。
一瞬遅れて、鈍器で殴られたような痛みと眩暈が頭蓋を襲う。
「いっ……」
「ほら、水飲んで」
顔をしかめたセファイドに、女――ミモネは水の入った大ぶりの杯を差し出す。その中身を怪しむ余裕もなく、彼は受け取ってごくごくと飲んだ。
彼の傍らにしゃがみ込んだミモネは、面白そうにその様子を眺めた。
「二日酔いするの、初めて?」
「二日酔い?」
「辛いでしょう? この苦しみを知って人は大人になるもんよ」
何を言ってるんだこの女は、と思いながらも、セファイドはもう1杯水を求めて飲み干した。喉が少し楽になった。
明るい部屋だった。正面に見える大きな窓から、眩しい日差しが柔らかく降り注いでいる。もう朝になっているようだ。
それほど広くはない。簡単な戸棚と机と椅子、それから壁際に小さな寝台と鏡台が並んでいた。きちんと片付いた、ごく簡素な寝室といった印象だ。板張りの床には絨毯の類は敷かれておらず、セファイドはそこに寝かされていた。
とはいえ身体の下には薄いが毛布が敷かれていて、軽い綿の布団が掛けられている。急ごしらえの寝床といったところだった。
その時になって初めて、彼は自分がなぜか半裸になっていることに気づいた。辛うじて下着は穿いているものの、上に着ていたはずの衣服は何も身に着けていない。当然、剣もない。
軽く混乱した彼は思わず、
「おっ、俺は昨夜おまえに何かしたのか……?」
と尋ねてしまって、ミモネに露骨に嫌な顔をされた。
「あんなに泥酔してたら何もできやしないでしょ? だから私の部屋に泊めてあげたのよ」
「泥酔……」
「覚えてないんだ。あなた、私に負けて潰れたのよ」
その言葉で、セファイドの脳裏にいきなり記憶が蘇ってきた。
想像以上に喉を刺したきついアルコール、それを平然と干していく女。負けじと飲み続けて、酔いが回った感覚はまったくなかったのに、突然全身の力が抜け、意識が暗転――そこまでだ。
鈍痛の収まらないこめかみを押さえてうなだれるセファイドに、ミモネは勝ち誇った笑顔を向けた。
「とりあえず、無事に目が覚めてよかったわ。あなたのお友達、あの身体の大きいお兄さんが代金を工面してくるまで、あなたは人質ね」
物騒な宣告を下す彼女は、少し眠そうだった。大きな目が充血している。
あまり眠っていないのか、と思ったが、彼が尋ねる前にミモネは立ち上がった。
「服はそこ。干しといたからもう乾いてると思う。洗顔はそこの手桶を使って。着替えたら下に来てね。朝ごはん食べさせてあげるわ」
ミモネの部屋は、『ねずの木』の二階にあった。
一階の店舗裏には店主と女将の夫婦が住み、空き部屋になっている二階部分に店子として入っているのだった。部屋に台所がない代わりに、店の厨房を使ってもいいことになっているらしく、ミモネは大きな竈にせっせと火を起こしていた。
朝の陽光が差し込む酒場は、どこか殺風景だった。客の姿の消えた明るい店内は空虚に見える。閉店後にきちんと掃除はされているものの、壁や床に染み込んだアルコールの臭いだけが、夜の賑わいの余韻を伝えていた。
ミモネの用意した朝食は、塩漬肉を乗せた米粥と野菜の煮物、半熟に茹でた卵だった。どれも昨夜の残り物を上手に再利用した料理である。それらに、薬草の匂いのきつい真っ黒な茶が添えられている。
「これ、二日酔いにすっごくよく効くから」
ミモネは鼻をつまんでいっきに茶を飲み干した。
セファイドはしばしその不気味な黒い液体を見詰めていたが、どうやら毒ではなさそうなので同じように飲んでみた。思った通り、眉間に皺の寄る味だった。
その効果が出たのかどうか、食欲が徐々に回復してきて、他の料理はすんなりと胃に入った。どれも上品な薄味で、酔いの抜けない身体には優しかった。
無人の酒場で、昨日知り合ったばかりの女と差し向かいで朝食を摂る――国王の日常にはまずあり得ない状況だった。
自分が一晩行方不明になったことで王宮が混乱しているはずだとか、シャルナグはどこまで事実を報告しだだろうかとか、帰ったらまず誰に何を詫びるべきかとか、様々な思惑が重い頭をよぎる。しかしそういった現実的な問題よりも、なぜ自分が大人しくこの女の言うことを聞いているのか、実際はそのことが彼を無口にさせていた。
酔い潰れたのは不覚だったが、借金のカタだろうが何だろうが、無視してさっさと出て行けばいいのに、自分はこうやってテーブルについている。それが不思議だった。
「何ぼんやりしてんの? まだ頭痛い?」
ミモネが木の匙で粥を掬いながら訊く。昨夜よりはずいぶん柔らかい口調だ。
「あ……いや……昨夜は面倒をかけた」
セファイドは恐ろしく苦い茶をもう一口飲み、顔をしかめながらそう言った。
「酔い潰れた客など、その辺りに転がしておいてもよかったのに」
するとミモネはふんと鼻を鳴らした。
「飲み逃げされると困るからね。そのまま死なれても寝覚めが悪いし」
嫌味ったらしい言い方ではあったが、もしかしてこの女は一晩中自分に付き添ってくれていたのかと、セファイドはこの時になって思い至った。
泥酔者が昏睡状態に陥って、自らの吐瀉物を喉に詰まらせて窒息死する例は、ままある。だとすれば彼女が睡眠不足気味である訳も納得できた。
「……ありがとう」
セファイドは素直に礼を言った。悔しいとも情けないとも思わなかった。恩を受けたら相手が誰であれ礼を言う――自然に身についたその態度こそが、実は彼が広く臣下に慕われる理由だったのだが、本人はあまり意識していない。
ミモネは頬杖をついて、興味深げに彼を見返した。
「ふうん……態度はでかいくせに潔いのね。あなた、すごく育ちがいい感じがする。おかわりは?」
「いや、もう結構」
「そういえば名前も聞いていなかったわ」
本当に今気づいたらしく、彼女は大きな目を瞬かせた。
「もう知ってると思うけど、私はミモネ。あなたは?」
「俺は……」
セファイドは面食らった。考えてみれば、他人から面と向かって名を尋ねられたのは初めてだった。彼に会いに来る人間は、例え初対面であっても彼の名を熟知しているのが普通だ。
「俺は、セ……セトという」
さすがに本名を名乗るわけにはいかなかった。咄嗟に出たそれが偽名だと感づいたのかどうか、ミモネは少し首を傾げただけだった。
「まあ、詳しい出身は訊かないでおいてあげる」
「おまえはここに独りで住んでいるのか?」
「十五歳で両親を亡くしてから7年間ずっとね。ここの大将と女将さんが親代わりみたいなもんよ」
同い年か、とセファイドは少々意外だった。確かに口調や態度は世慣れた感じがするが、線の細いミモネの外見はもう少し若く見えた。
「何?」
「苦労してるんだな」
「やっぱりお坊ちゃんね、セト。こんなの別に珍しい話じゃないわよ。特に最近は……王軍の出兵が頻繁なせいで、戦災未亡人や孤児も増えてるしね」
彼女はこともなげに答える。淡々とした様子に、却って深い諦めのようなものを感じ、セファイドは口をつぐんだ。
オドナスは、彼が即位してから重ねてきた他国との戦争にはすべて勝利を収めており、また王都への直接攻撃を受けたこともない。それでもやはり戦争である以上、多数の死傷者を出してしまった事実は否定できなかった。
味方の屍を前に立ち竦んでしまう程度の甘い覚悟で王位に就いたわけではない。これらの戦いは国を広げ民の暮らしを豊かにし、引いては砂漠に平和をもたらすために必要だと確信していた。
それでもなお――彼は、自分の起こした戦争で肉親を亡くした者へ無関心でいられる人間ではなかった。
「変な人ねえ、急に黙ったり喋ったり」
ミモネは呆れたように肩を竦めて立ち上がった。食べ終わった食器をてきぱきと片付け始める。
「身代金……じゃなかった、昨夜の飲み代が届くまで、ちょっと手伝ってね、セト」
悪戯っぽく笑った彼女の表情は柔らかく愛らしく、しかしその両手は、水仕事のせいかひどく荒れていた。




