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幕間劇『追想』  作者: 橘 塔子
第三話 初恋 ~ 蜜月の果て
17/25

<3>

 セファイドは当然のことながらひどく不機嫌な声で、


「助けに入った客にまで水をかけておいて、謝罪もなしか」


 と、腕組みをしてミモネを見下ろす。

 ミモネは頭ひとつ分上にある彼の顔を、怯むことなく正面から見返した。


「お礼は言うわ――ありがとう。でもね、あなたのは完全にお節介よ」

「何だと」

「あなたが手を出さなければ、穏便に済ませられたのに。ああいうお客はたくさんいるんだから、適当にあしらって機嫌よく帰ってもらうのがいちばんなの」


 彼女は黒曜石のような瞳の両眼を細めて、セファイドと、その向こうのシャルナグを順番に睨めつけた。

 二人とも鍛えられて引き締まった体躯をしているが、労働者のように武骨ではない。身に着けた衣服も質素に見えて仕立てのよいものだ。それに、腰に携えた長い剣。


「王軍の将校さんか、それとも貴族のお血筋かしら? この店に来るのはいいけど、庶民の酒の飲み方くらいは勉強しておいてよね――お坊ちゃん方」


 ミモネはにっこりと笑って嫌味を吐いた。どこの姫君かと思うほど愛らしい美貌だけに落差が激しく、その毒は言われた者の胸に矢のように突き刺さる。セファイドとて例外ではなく、一瞬言葉が返せなかった。

 彼女が厨房から雑巾を取って来て、さっさと床を拭き始めたところでようやく我に返り、


「お……おまえのような小娘に、酒の飲み方を講釈される筋合いはない!」


 と、多少動揺して言い返す。ミモネは、まだいたの? という面倒臭そうな表情で頭を掻いた。


「小娘だけど、十五の年から酒場で働いてるんだから、たぶんあなたよりは飲めるわよ」

「ふん、偉そうに。とにかく謝れ。客への礼儀も知らんのか」

「あのね、結構忙しいの、私」


 ミモネは手桶で雑巾を絞って、立ち上がった。口元には笑みを刻んだままだ。


「けど、喧嘩売ってんのなら買ってあげる。それとも口説いてるつもり?」

「誰がおまえのような乱暴な女を口説くか」

「あっそう、よかったわ。私も貴族と軍人は大嫌い」


 その物言いは、特に鋭かった。静かな怒りの籠った迫力があった。


「じゃあ、私と勝負してみる?」


 綺麗に澄んだ黒い瞳は、好戦的に、少し打算的に、戸惑うセファイドを映していた。





 ミモネは飲み比べをしないかと提案してきた。

 店でいちばん強い蒸留酒を、水で割らずにお互いどこまで飲めるか、サシで勝負してみないかと。


「あなたが勝ったら、床に跪いて謝ってあげるわよ」


 なぜか偉そうにそう宣言する彼女に、セファイドは冷笑を浴びせた。


「いいだろう。だが、俺が勝ったら……まあ勝つに決まっているが、もう謝らなくていい」

「あんなに謝れ謝れ言ってたくせに、めんどくさいわね」

「代わりに、おまえのその生意気な唇をもらう――皆の前で、俺に口づけをしろ」


 突きつけられたとんでもない条件に、ミモネは呆れたように天井を仰いだ。


「……あなた、女に不自由はしてないって感じだけど」

「まあな」

「だから自分の意のままにならない女が気に食わないのね。分かったわ」


 彼女は前掛けで手を拭きつつ厨房に戻り、店主と何やら話をし始めた。

 その間に、シャルナグがセファイドにつかつかと近寄ってきて、乱暴に肩を掴んだ。


「こんなところで何を始めるつもりなんだ!? 自分の立場が分かってるのか? ほんとにもう……勘弁してくれよ!」


 精一杯声を潜めながら、だが最後の方は泣き言に近かった。セファイドが女にやり込められる様が珍しくて、いい気味だくらいに思って見物していたシャルナグも、そう呑気に構えていられなくなったのだ。曲がりなりにも目付役である。


「こんなことがエンバス殿の耳に入ったら……」

「おまえが黙っていればバレないさ。俺があんな女に負けるわけがないだろ」


 セファイドは平然としているが、その実、物凄く意固地になっている。こうなったらもう何を言っても無駄だと思い知っているシャルナグは、騒ぎが大きくなったらとにかく友人を殴り倒してでも連れ帰ろうと決心した。


 そのうちに店主とミモネが揃ってやって来た。

 五十歳代半ばと思われる店主は、人の好さそうな禿頭の親爺だった。ひどく恐縮した様子で、


「うちの店の娘が失礼なことを……申し訳ありませんでした。何やらまた無茶な申し出をしてしまったようで……」


 と、乾いた手拭いを差し出す。

 それを受け取って頭をごしごしと拭きながら、セファイドは素っ気なく答えた。


「これは俺と彼女の問題だから、余計な口出しは無用に願おう」

「はあ、しかし……本気で勝負を受けるおつもりで? ミモネは本当に強いですよ?」

「あいにく、俺も同じだ」

「はあ、しかし……」

「大将の許可が出たわ! 今から飲み比べをしまーす!」


 ミモネが掌を打ち鳴らして、大声で告知をした。

 店内の客の注目が集まり、どよめきが湧き起こる。

 こういった事態には慣れているのか、客たちは席を移動して店の中央のテーブルを空けた。女将がてきぱきとテーブルの上を片付け、店主が酒瓶の入った木箱を運んで来た。


「まだ逆の条件を出してなかったわね」


 ミモネは束ねた髪を解きながら言う。艶やかな黒髪は絹糸のようで、さらさらと背中に流れた。


「私が勝ったら、今夜の飲み代は全部あなたが払うのよ。ここにいるみんなの分もね!」


 堂々とした宣言に、わあっと歓声が起こった。今夜はタダ酒だ、じゃんじゃん飲むぞ、などというダミ声が飛び交う。


「分かった。おまえも約束を忘れるなよ」

「もちろんよ。唇だろうが足の指だろうが口づけてやるわ、色男――私に勝てたらね」


 酔客たちの好奇心に満ちた視線の集中する中、二人はテーブルに向かい合って座った。

 




 何でこんなことになってしまったのか――。

 店主が遠慮がちに差し出した請求書を片手に、シャルナグは途方に暮れた。

 セファイドがあの美女を助けに入ったのは、間違いなく下心があってのことだ。乱闘になりかけた挙句に水をぶっかけられたのは、まあ、自業自得と言える。だからあのまま大人しく帰っていればよかったのだ。

 いや、羽交い絞めにしてでも連れ帰るべきだった。


「約束よ、ちゃんと払ってね」


 ミモネは女神のような微笑みを浮かべてシャルナグの顔を覗き込んだ。目元がほんのりと赤みを帯びて、やや滑舌が悪くなっているものの、ふらつきもせずにしっかりと立っている。


 対してセファイドは――テーブルに突っ伏して眠っていた。


 蒸留酒の空瓶が、床に六本転がっている。二人がそれぞれ三本ずつ空けた。その結果がこれだ。

 実際、ミモネの強さにはシャルナグも舌を巻いた。きつい蒸留酒を小さな金属製の杯に注ぎ、次々と飲み干していったのだ。その速さにセファイドはすっかり巻き込まれてしまったようで、負けじと同じように飲んでいった末に、突然昏倒してしまったというわけだ。


 せめてもう少しゆっくり飲めば、こんなにあっさりと負けはしなかったと思うが――友人の情けない姿に、シャルナグは溜息をつく。それから手元の請求書の額に、もうひとつ溜息が出た。

 多少はボラれると覚悟はしていたものの、ずいぶんな金額だった。


「親爺、いくら何でもふっかけすぎじゃないか?」

「はあ、しかし……」

「適正価格よう。最近、酒類が値上がりしてんの知らないの、お兄さん?」


 ミモネは店主の言い訳を遮って唇を尖らせた。さすがに酒臭い息だが、その表情は憎たらしいほど愛らしかった。

 シャルナグは咳払いをして、


「今は持ち合わせがない。明日必ず支払いに来るから、貸しにしておいてもらえないか」

「じゃ、何か身分を証明するもの、置いていきなさいよ」

「それは……できない」

「ははーん、あなたたち、本当に偉い人のお忍びね?」


 ミモネは背後で伸びているセファイドを振り返った。彼は気を利かせた客たちによって床に寝かされ、女将に介抱されている。眠っているだけで、命に別状はなさそうだ。


「こっちも商売だからね、ハイそうですかと帰すわけにはいかないわ」

「どうしろというんだ?」

「借金のカタに、あの人を預かります。お兄さんが明日ちゃんとお金を持ってきたら、返してあげる」


 シャルナグは目を剥いた。店主の方を振り向くと、親爺は申し訳なさそうに頭を下げている。従業員を咎める気はなさそうだ。気が弱そうに見えて、案外したたかな商売人なのかもしれない。


「そんな無茶苦茶な……」

「でっかい兄ちゃん、ご馳走さん!」

「今夜はいろいろ面白かったよ! 旨い酒だったぜ」


 客たちが口々に言い、シャルナグの背中を親しげに叩く。もう夜が更けており、明日も仕事のある者たちは帰宅する時間だ。騒ぎはこの辺で本当にお開きになるようだった。


 気持ちよさそうに寝息を立てるセファイドの横顔を、シャルナグは恨みの籠った眼差しで見て、三度目の溜息をついた。

 賊に拉致されたのなら、躊躇なく剣を抜いて腕尽くで奪還しただろう。しかし相手は市井の人々で、悪意があるわけではない。あるわけではないと信じたい。


 シャルナグはちょっと泣きそうになった。

作者も酒好きですが、こいつらみたいにアホなことはしませんよ。

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