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ミモネとの出会いは実に印象的だった。
当時セファイドは二十二歳、王位に就いて5年目だった。すでにいくつかの戦争に勝利しており、周辺諸国をじわじわと統治下に収めているところだった。また内政においては国内の組織を見直し、王宮内の人員を整理していた。
まさにオドナスが大国となる前夜の、足場固めをしている時期である。
その頃、セファイドは頻繁に市街地へ足を運んでいた。砂漠の交易路が延びていくのに伴って豊かになる王都の様子を、直に見ておきたかったのである。道路や水路の拡張工事も進められており、実際に街は日々整備されていた。
とはいえ、単に息抜きをしたいというのが若い国王の本音であった。戦争のない時こそ政務はたくさん控えていて、解決しなければならない問題が山積していた。また国王の権限を強化するために王宮の人事を刷新し、結果、あらゆる決裁が国王の元へ回ってくるので、本当に寝る暇もないほど多忙な日々を送っていた。
「備品購入の決裁まで俺がしなければならないなんて、どう考えても異常だ。早くちゃんとした組織を構築しないとな」
苦い麦酒をあおりながらそうぼやくセファイドを、シャルナグはいささか呆れて見返す。
「分かってるんなら、さっさと帰って仕事をしろ仕事を。業務が滞って仕方がないと内務大臣が嘆いているらしいぞ。おまえがすぐにいなくなるから」
「印章はエンバスに預けてきた。急ぎの書類は何とかするだろうよ」
「そう簡単に国王印なんか押せるか! 分かってないなあおまえは、下の者の苦労を」
毒づいてはいるものの、シャルナグもまた同じように杯の麦酒を飲み干した。
二人がいるのは王都の市街地にある『ねずの木』という酒場だった。仕切りのない広い店舗に十個足らずのテーブルが置かれ、三十人ほどの客が入っている。夕刻である今の時間帯を考えると、みな仕事帰りの男たちなのだろう。思い思いに酒と料理を楽しみ、賑やかに会話をしている。
大通りから路地へ入った、どちらかといえば目立たない店構えの酒場ではあったが、そのぶん地元の固定客で混雑する人気店のようだった。客同士はみな顔馴染みらしく、隣のテーブルとも親しげに言葉を交わしている。
そんな中で二人の若者の姿は多少異色と言えた。質素な身なりで一般市民に紛れているとはいえ、腰に携えた護身用の長剣は庶民の持ち物ではない。
「嫌なら別に付き合わなくてもいいんだぞ? いちいち休暇を取ってるんだろ?」
「エンバス殿に頼まれてる。おまえから決して目を離すなと」
「そんなことだろうと思った……お、旨そうだ」
国王を縛りつけておけない以上その行動を監視させるしかないと、古株の侍従長は判断したらしい。王軍の大隊長でありセファイドの友人でもあるシャルナグは、まさに目付役にうってつけだろう。
その配慮に少々憮然としつつも、セファイドは運ばれてきた牛臓物の煮込料理に目を輝かせた。王宮ではまず食べられない庶民の味だ。他に鶏肉に香辛料をまぶして焼いたものと、野菜の酢漬けが今夜のつまみだった。
素朴なその味を堪能しながら、彼は料理を運んで来た女を目で追った。
「ほら見ろよシャルナグ、美人だ。場末の酒場には勿体ない」
その言葉通り、給仕係は綺麗な若い女だった。
歳の頃は二十歳くらいだろうか。品よく整った顔立ちは妖艶というよりも可憐で、大きな瞳が印象的だった。真っ直ぐな長い髪を無造作に纏め、皿の乗った盆を抱えてテーブルの間を忙しく行き来している。
今は袖の短い仕事着に木綿の前掛け姿だが、きちんと化粧をして高価な衣装に身を包めば、後宮にいてもおかしくないほどの美女であった。
シャルナグも感心したように眺めながら、
「確かにな。おまえ、彼女目当てでここに来たのか?」
「まさか。たまたまだよ」
その女と女将が二人で給仕を受け持ち、店主は厨房で調理に専念している。女は客たちへ酒や料理を運び、注文を聞いて、大きな声で店主に伝えていた。その身のこなしは実に溌剌としていて、結構な重労働にも関わらず笑顔を絶やさなかった。男ばかりの店内で、彼女の周囲だけはパッと華やいで見える。
ここで口説いて連れて帰るつもりではないだろうな、と気を揉むシャルナグの前で、セファイドは旨そうに料理を口に運んでいる。
国王としての才能には文句のつけようもないが、倫理観には今ひとつ信頼を置けない友人である。
臨時の目付役の心配をよそに、セファイドは賑やかな酒場の雰囲気を楽しんでいた。執務室に籠っていては分からない、王都の活気を肌で感じる。
ここの客たちは、おそらくほとんどが水路工事に携わる労働者だろう。仕事を終えて仲間と酒を酌み交わすだけの余裕が、彼らの懐にはできている証拠だ。テーブルに目を落とせば、つまみに供される食材の中には、交易路を通って他国からもたらされた物も多い。流通が滞ることなく末端まで流れているようだ。酒の方はまだ少し質が悪いようなので、職人の育成を急がねばなるまい。
自分の努力と戦いが人々の暮らしの中に結実しているのを確認し、セファイドは満足げに微笑むのだった。
2人はそれぞれ麦酒を三杯ずつ片付けた。酒豪の彼らにとって満足できる量とはとても言えなかったが、酔っ払って王宮に帰るわけにはいかない。
そろそろ引き上げようかという頃合いになった時、酒場の一角で騒ぎが持ち上がった。
いささか飲みすぎたらしい酔客の一人が、先ほどの給仕の尻を撫でたのだ。
「相変わらず可愛いねえ、ミモネちゃんよう」
四十歳絡みのその客は、真っ赤になった顔の筋肉をだらしなく緩め、皿を下げに来た女の臀部を掴むように触った。目はとろんと霞んでいる。
「どうだい、この後、俺と飲み直さねえか?」
「やだもう飲みすぎよ、マテンさんてば」
給仕の女――ミモネは軽く身を捩ってその手を払った。慣れているらしく客に対して笑顔は消さないが、素っ気なく拒絶する。
「連れねえこと言うなよう。俺が何年この店に通ってると思ってるんだ?」
マテンと呼ばれた酔客は、ミモネの腕を強引に引っ張って身体を抱き寄せようとした。
「はいはい、分かりましたからやめて下さいね。あまりしつこくすると、出入禁止になっちゃうわよ」
「そのキツイところがそそるねえ……ほら、小父さんが可愛がってやるからよ」
おいおいその辺にしとけよ、と同じテーブルの三人の連れが窘めるのを無視して、マテンはミモネの細い腰に手を回して縋りつく。ミモネもそろそろ本気で嫌がり始めた。
「ちょ……もうっ!」
「おまえも男が欲しくなってきた頃だろ。へへ……テクスが死んでから二年になるんだもんなあ。早いとこ解禁しねえと、黴が生えちまうぞ」
下卑た物言いに、ミモネの表情がすっと強張った。
彼女の尻を再び触る前に、しかし、マテンは呻き声を上げた。ミモネの腰を抱いていた腕を、恐ろしい力で掴んだ者がいたからだ。
「……いい加減にしておけよ、見苦しいぞ」
よく通る声でそう言いながら、酔漢の腕を引き離したのは、顔立ちのくっきりと整った長身の若者だった。誰あろう、セファイドである。
彼はマテンの腕を軽く捻り上げ、反対の手で素早くミモネを引き寄せた。
「な、何しやがる? いてててて……」
椅子に座ったまま上半身をテーブルに押し付けられる体勢になって、マテンは悲鳴を上げた。
食器類がガチャンと派手な音を立て、店内の客の視線が集まってくる。
連れの客が止めることもできずに唖然と見守る中で、セファイドはあっさりと掴んだ腕を解放した。
「この野郎……」
肩を押さえて赤い顔をしかめるマテンには目もくれず、セファイドはミモネに向き直った。
至近距離で見る彼女は実に美しい目鼻立ちをしていた。戸惑いに見開かれた瞳の大きな両眼が、また可愛らしい。
「大丈夫か?」
優しく問いかける彼に、ミモネは何か答えようと唇を震わせた。
だがその声が発せられる前に、ガタンという乱暴な音が彼らの耳朶を打った。静かになってしまった店内で、セファイドはゆっくりと振り返る。
マテンが椅子を蹴り倒し、立ち上がったところだった。焦点の定まらない目つきは、しかしギラついている。先ほどまでの好色さが消え失せて、酒で弱まった理性が怒りだけに支配されていた。
その手に大ぶりなナイフが握られているのを認めて、セファイドの眉がわずかにひそめられた。テーブルの上にあった肉料理の切り分け用だろう。
「調子こいてんじゃねえぞコラ! 若造が!」
うまく呂律の回っていない舌でそう喚く。さすがに剣呑な空気を感じた周囲の連れが止めに入ったが、彼はナイフを振り回して仲間を威嚇した。
セファイドは小さく息をついて、ミモネを自分の傍からどかせた。その手はまだ腰の剣には掛かっていない。
「おい」
ずっと黙って成り行きを見ていたシャルナグが背後から声を掛けた。戦場において百戦錬磨のセファイドが、もちろん素人の酔漢に負けるとは思っていない。だがこんな場所で乱闘騒ぎを起こすのは非常にまずい。
心配するな、と友人に答え、彼は血迷った男を見詰める。薄い笑みさえ浮かべて。
「やるのなら相手になるが、明日から仕事ができなくなっても文句は言うなよ」
この荒事好きめ――シャルナグは頭を抱えた。いくら美女の前とはいえ、いい格好をしすぎだ!
ついさっきまで賑やかだった酒場は、張りつめた空気に包まれていた。誰もが緊張して、けれどどこか野次馬的に高揚して、突如始まった諍いを眺めている。
マテンは相手の若者の落ち着いた様子に逆に腹を立て、それでも彼が剣を抜こうとしないのを確認してから、ナイフを胸の前で構えた。
うおお、という雄叫びとともに、意外としっかりした足取りで間合いを詰める。
セファイドにとっては、その動きは緩慢なものでしかなかった。突き出された右手をやすやすとかわし、その手首を掴む。あとはがら空きになった鳩尾に一撃をくれてやれば、完全に大人しくなるはずだった。
しかし――彼らは動きを止めた。
「頭冷しな、この酔っ払いどもっ!」
甲高い声とともに、大量の水が勢いよく浴びせられたからだ。
驚いて思わず振り向く彼らの前で、空の手桶を抱えたミモネが仁王立ちになっていた。細い眉を吊り上げ眉間に皺を刻み、険しい表情で男二人を睨み据えている。
「大の男が酔って喧嘩なんて恥ずかしくないの!? ここは楽しく飲んで食べる所よ! それができない奴はとっとと出ておいき!」
手桶一杯の水をぶっかけて乱闘を止めた女は、悪びれもせずに堂々と啖呵を切る。
あまりに意外な展開に、いやそれよりもびしょ濡れになった全身の冷たさに、セファイドは言葉を失った。
他の客たちも呆然と気を飲まれていたが、それも一瞬、すぐに弾かれたような喝采が沸き起こった。
「さっすがミモネちゃんだ!」
「そうだそうだ、喧嘩する奴は出て行け!」
「かっこいいよ、ミモネちゃん! 小父さん惚れ直したよ!」
興奮する客たちの後ろで、厨房から出てきた店主と女将が困ったように顔を見合わせている。またやらかしたな、とその表情は語っていたが、どこか誇らしげでもあった。
よろよろと後ずさって床にへたり込むマテンの前に、ミモネはしゃがんだ。
「いい? これ以上騒ぐとエニさんに言いつけるわよ」
「そっ、それだけは……女房にだけは黙っててくれよう」
「今夜はもう帰って下さいな。来月四人目の子供が生まれるんでしょ。ほら、立てる?」
先ほどまでの激高はどこへやら、仔犬のように大人しくなったマテンの背中に手を添えて、彼女は優しく言った、彼の仲間たちが飛んできて両脇を抱え、引き摺るようにして退散する。
店主に何度も頭を下げて会計を済ませる彼らを横目で見つつ、ミモネは店内に向けてぺこりと頭を下げた。
「お騒がせしてごめんなさい! これに懲りずに、皆さん、どうぞたくさん飲んでいって下さいね」
詫びながらも真昼の日差しのように明るく笑うミモネに、店内の空気が温かく緩んだ。騒ぎが完全に収まったのを誰もが理解し、客たちは再び杯を傾けて中断した会話を再開した。
いつもの騒がしくて忙しい雰囲気に戻った職場を見渡して、ミモネもまた仕事に戻った。
とりあえず自分が濡らした床を拭いて、テーブルを片付けなければならない。他の客が滑って転んだりしたら大変だ。
「……女将さん、面倒かけてすいません。雑巾を……」
「ちょっと待て」
手桶を床に置いて厨房に声を掛けるミモネの前に立ち塞がった者がいる。
頭からぼたぼたと水を滴らせたセファイドだった。




