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今回から第三話に入ります。
人物紹介にキャラクターを追加しましたので、そちらにもお目を通して頂けると嬉しいです。
息苦しさを感じて目を開けると、女の白い顔が見下ろしていた。
可憐な顔立ちの中で印象的な大きな瞳が、じっとこちらを凝視している。滑らかな頬は硬く強張り、薄く色づいた唇は一文字に引き結ばれていた。癖のない真っ直ぐな黒髪が、肩から滑り落ちる。
作り物めいた、どこか硬質な表情だった。自分を映す黒瞳の冷たさに、セファイドは、意識が急速に覚醒するのを感じた。
息苦しいのは、寝台で仰向けになった彼の上半身に、女が跨っているからだった。脇腹をしっかりと両腿で挟み、彼の下腹部に腰を落としている。
窓から差し込む青い月明りが、女のほっそりした裸体に陰影をつけていた。その肌がどんなに柔らかく温かいか、セファイドはよく知っている。それなのに、今、女はまるで石像のように身じろぎひとつしない。
どうした、と彼が訊く前に、女は脇に垂らしていた右手を胸の前に上げた。そこに握られたものを見て、セファイドは小さく息を飲んだ。
白い抜身の短剣が、女の右手で月光を反射させている。
当然のように、女はそれを振り上げた。
セファイドは――動かなかった。
つい数刻前まで激しく情を交わし合った相手の豹変に狼狽する気配はない。眠りから覚めた直後とは思えぬほど濁りのない眼差しで、女を正面から見据えている。
対照的に女の表情はみるみる険しくなった。憎悪が美貌に黒い影を落とし、短剣を握り締めた手は細かく震えている。
「……刺さないのか?」
彼の問いに、女は細い眉を寄せて睨み返した。
「あなたこそ、逃げないの?」
「おまえに殺されるのなら本望だよ」
女の頬に朱が上がった。明らかな怒りが花弁のような唇を震わせ、細い首や形のよい乳房までを薔薇色に染めてゆく。引き締まった腰から脇腹にかけての輪郭が、腕の筋肉の緊張に合わせてしなやかに動いている。
脅しやハッタリでこんな真似をする女ではない。彼女は本気だ――分かっていてもなお、セファイドは自分を見下ろす女に見惚れた。何と美しい眺めだろうか、と。
ああ、やはり俺はこの女に惚れている。
女は低い溜息のような声を上げて、剣を振り下ろした。
○●○●○
弦の音色が涼しい夜気を震わせていた。
無花果を縦に割ったような形の楽器から流れる艶やかな音は、人の声に似ていた。歌うように滑らかに、三つの旋律が次々に入れ替わる不思議な曲を、その楽師は奏でている。
深く甘い響きに聴き入っているのか、それとも指盤を滑る白い指の動きに見惚れているのか、セファイドは演奏が終わるまでその奏者から視線を外さなかった。
今日王宮に召し上げられたばかりの若い楽師である。北方からの旅人であるという以外、出自も経歴も分からない青年であった。将軍の推挙を受けての登用とはいえ、そのような得体の知れない異国人が国王の自室に単身招かれるとは、異例中の異例だ。
しかし、彼の奏でる楽の音を一度でも耳にすれば、なぜ彼がこの場に呼ばれたのか誰もが納得するだろう。
楽師は、昼間大勢の前で演奏したのとは趣の異なる曲を披露し、その後調律のために弦を指で弾き始めた。弓で響かせるのとはまた違った温かな音に、セファイドは我に返ったように息をついた。
「不思議な音楽だな……砂漠の曲とは違っている」
「海を越えた、別の大陸に伝わる民謡でございます」
「その大陸の話もいずれ聞いてみたいものだが、まずは少し休め。飲むか?」
分厚い敷物の上に寛いで座ったセファイドは、手元の酒を勧めた。楽師の返答を待たず、脚付きの銀盆に乗せられた蒸留酒を、手ずから二つの杯に注ぎ分ける。芳醇と形容するにはあまりにも無垢なアルコール臭が立ち上った。
楽師は楽器と弓を置き、にじり寄るようにしてセファイドの傍らに座り直す。そして、砂漠でいちばん強いと謳われるその酒が生のまま注がれた杯を、気後れしたふうもなく受け取った。
目礼してから杯に口をつける楽師を、セファイドは面白そうに見守った。
楽師は咳のひとつもせず、平然ときつい酒を飲み干す。その頬に朱が上ることはなかった。
「強いな」
感心したように呟き、セファイドが自分の杯を傾けると、
「体質です」
そう答えて楽師は淡く微笑んだ。
その表情に何を思ったものか、彼は妙に真剣な表情になって空いた杯に酒を注ぎ足した。
「そう言われると酔い潰してみたくなるぞ。今夜は付き合え」
はい、と楽師は答えたが、その珍しい色をした目がわずかに細まったのに気づいて、セファイドは苦笑した。
「……いや、先に断っておくが、俺は男には手を出さないからな。警戒しなくていい」
「左様でございますか」
「若い頃に試そうとしたが、やはり趣味に合わなかった」
彼は事実か冗談か分からないことを言って、柔らかい背凭れに身体を預けた。
酒好きの国王の私室らしく、壁際の棚には様々な種類の酒瓶が並べられている。これならいちいち女官を呼びつけなくても、補充には事欠かないだろう。長い夜になりそうだった。
「今日、リリンス様とお話をさせて頂きました」
空気を変えるように、楽師が王女の名前を口にした。父であるセファイドはその眉を少し上げた。
「昼間、陛下に拝謁した後のことです。キルケ殿とご一緒に、姫様が私の部屋を訪ねていらっしゃいまして」
「あれは好奇心が旺盛だからな……さっそくおまえに興味を持ったか」
「本当にご聡明で、朗らかな姫君でいらっしゃいますね。陛下にとても似ておいでです」
「まあ、否定はせんが」
セファイドは杯を呷って、視線を和らげた。愛娘を気に掛ける、普通の父親の顔になっている。
「あの子の生まれについては、もう聞いているか?」
楽師は肯いた。王宮に来る前、数日間滞在したシャルナグ将軍宅で、王族の血縁関係については一応の説明を受けていた。リリンスは国王が平民の女性との間に儲けた子で、その母親は後宮に入ることを拒んだまま、六年前に死亡したという。
「どちらかというと母親に似ているんだよ、リリンスは」
セファイドは杯に酒を注ぎ足して、小さな溜息をついた。懐かしんでいるようにも、悔やんでいるようにも見える、複雑な表情である。
「お美しい方だったのでしょうね」
「美人は美人だったが……何と言うか、気性の激しい女だった。何度殴られたことか。しかも拳でだぞ」
「それは……」
殴られるようなことをなさったからでは、という言葉を楽師は飲み込んだ。セファイドの女性関係の奔放さは評判で、若い頃からずいぶん好き勝手に遊んできたらしい。
リリンスの生母もそんな相手の一人だったのだろうか。
「あの子の母親は、ミモネという名前だった」
彼は、わずかな笑みを含んでそう言った。




