表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幕間劇『追想』  作者: 橘 塔子
第二話 恋文 ~ 将軍夫人の幸福な一生
14/25

<6>

 シャルナグが妻の死を知ったのは、王都に凱旋したその日のことだ。


 新しい将軍の持ち帰った勝利に王都は沸き返り、ほとんど数を減らすことなく約八ヶ月ぶりに帰還した王軍の師団を迎える人々が沿道に押し寄せた。

 シャルナグは激戦と長旅の疲れも見せず、隊列の先頭で手を振り歓声に応えていた。熱狂する群衆の中に、彼の目は自然と妻の姿を探す。いつも彼女は大通りまで出てきて、夫の帰還を迎えるのだ。

 しかしどれほど目を凝らそうと、シドニアの姿は見つからなかった。また病を得て寝込んでいるのではと、彼は不安になった。


 その足で王宮に入り、国王に形式的な戦勝報告を済ませて謁見室を出たシャルナグを、彼の屋敷を取り仕切る家令が待っていた。家令の暗く強張った表情を見て、なぜ一介の使用人が王宮への出入りを許されたのかと尋ねる前に、彼はとてつもなく悪い予感を覚えた。

 そこで初めて、彼はシドニアが五ヶ月も前に死んだことを聞かされたのだった。


「旦那様が出立なさってから奥様は急に体調を崩されて、ずっと伏せっておいででした。微熱が続き食欲が落ち、ご容態は急変こそしなかったものの、数ヶ月をかけて徐々に悪化されていったのです。医師も薬師も手の施しようがなく――花が萎れて枯れるように、最期は本当に安らかなご様子でした」


 苦しげに眉をひそめながら、それでも努めて淡々と伝えるべきことを報告する家令に、シャルナグは何も答えることができなかった。

 家令は続けて報告する。死因は特定の病気ではなく身体の寿命だったのではないかと医師は見立てていること、葬儀はまだ執り行っていないが遺体はすでに荼毘に付したこと、そして――帰還するまで彼にその死を伏せておくよう指示したのは国王であること。


 シャルナグは何も言葉を発せず、勢いよく踵を返して、今出てきたばかりの謁見室へ取って返した。家令が慌てて追い縋ろうとしたが、それを許さないほどの殺気が全身から噴き出していた。

 彼が戻って来るのを予見していたのか、セファイドは側近たちをすべて下がらせ、たった一人でその場に残っていた。


「なぜ知らせなかった!?」


 戦場での雄叫びのような声でそう言って、シャルナグはセファイドに詰め寄った。衝撃がまず怒りに変わり、それをぶつける相手を選んでいるほど冷静ではいられなかった。


「シドニアが死んだことを知っていて、なぜ今まで黙っていたんだ!?」


 黒獅子のごとき形相で胸倉に掴みかかってくる彼を、セファイドは冷ややかに見返した。


「彼女がそう望んだからだ」

「何だと……」

「もし知らせていれば、おまえは戻って来たのか? 戦いを投げ出し将軍の職務を放棄して、王都に帰って来られたのか?」


 友人でもあり主でもある男の厳しい質問に、シャルナグは絶句する。憤りに塗り潰されていた頭が急速に冷めていき、相手の襟元を握った手が震えた。


「どうなんだ? え? 答えろよ」

「……いや……帰らなかった……」

「ほら、この手を離せ」


 セファイドがぐいと押しやると、シャルナグはそのまま数歩後退して項垂れた。先ほどまでの激高が嘘のような、今にも崩れ落ちそうな弱々しい風情だ。


 そう、たぶん自分は帰って来なかっただろうと、彼は思う。そのような選択ができようはずもない。今まさに感じている思いを抱えたまま戦いを続けただろう。指揮官の動揺は兵士たちにも伝わる。そんな状態で果たして勝利を収められたか――彼自身も生き残れたかどうか。

 シャルナグは左脇腹を押さえた。二ヶ月も前の負傷だが、未だに痛む。それでも生きて帰って来られたのは、シドニアが待っていると信じていたからだ。

 私が守ってあげる――出立の前夜、最期の別れになった夜の彼女の言葉は、現実になったのだ。


 無言で立ち尽くすシャルナグに、セファイドは溜息をついた。上着の内側から白い封筒を取り出して、彼へ差し出す。

 丁寧に封がされたそれには、宛名としてシャルナグの名が記されている。見慣れた、懐かしい筆跡で。


「シドニアから預かった。亡くなる四日前だ」


 セファイドは呆然とするシャルナグの手を取って封筒を握らせ、いくぶん優しく続けた。


「帰って読め。祝勝会には出なくていい」





 降嫁させたとはいえ王妃の身分を持つシドニアをセファイドが見舞った時、彼女はすでに床から起き上がれない状態になっていた。

 もっと早く来たかったのだが、と寝台の傍らで詫びるセファイドに、シドニアは弱々しい笑みを向けた。その眼窩は落ち窪み頬は扱けて、骸骨と見紛うばかりに痩せ衰えている。顔色はもはや白蝋のようだった。枕で波打つ黒髪だけが豊かだったが、それも乾燥して艶を失っている。


「夫には知らせないで下さい……」


 シドニアは吐息と変わらないくらいの小さな声で呟いた。


「あの人の気持ちを乱したくない……お願いします」

「分かった、約束する」


 セファイドが肯くと、彼女は安堵の表情を浮かべて目を閉じた。


 中央神殿の神官たちが、これまで何度か病床の彼女の元を訪れていた。快癒の祈祷を行う名目だったが、実際は国王の指示を受けて、彼らの中の医師が彼女を診察するためである。

 だが彼らもまたオドナスの医師と同じく、険しい顔で首を振るばかりだった。

 すべての臓器が機能不全を起こしています。寿命としか言いようがなく、我々にも一時的な延命処置しかできません――神官の報告を思い出すまでもなく、セファイドにもシドニアの死期が迫っていることははっきりと分かった。


 この臭い――侍女たちが部屋に精一杯花を飾り、香を焚き、窓から風を入れても消えない不吉な臭いが、彼女の全身から漂っている。

 セファイドが戦場で何度も嗅いだこれは、死臭だ。


「……私……醜くなったでしょう……?」


 瞼は閉じられたまま、干乾びて色を失った唇が言葉を紡いだ。


「そんなことはないよ」

「お優しいんですね……でもいいんです。この姿は、たぶん、あの人には見せずに済みそうだから……」


 部屋の隅に控えた侍女たちが、堪えきれずに嗚咽を漏らした。

 奴が戻るまで頑張れ、とはセファイドには言えなかった。

 シドニアの枯れ木のような手が上がって、寝台の脇の小机を指す。


「あの引出しに……手紙が入っています。主人が無事に帰ってきたら……もちろん帰って来るに決まっていますけれども、お渡し頂けませんか?」


 わななくその手を、セファイドはそっと握った。


「責任を持って預かろう。安心しなさい」

「ありがとうございます……」


 シドニアは薄く目を開けて礼を言った。


「シャルナグは幸せ者だな……愛する女にこれほど想われて」

「いいえ……幸せなのは私の方だわ……」


 語尾は溶けるように消えた。

 そのまま彼女は再び目を閉じ、深い眠りに落ちたようで、それ以上会話を続けることはできなかった。

 やつれ切ったその顔は、幸福そうな微笑みを浮かべていた。




『あなたは私と同じくらい幸せでしたか? 私の想いは伝わっていましたか?

 私はあまり自分の気持ちを口に出さなかったから、それだけがちょっと気がかりです。

 シャルナグ、私は心からあなたを愛しています。あなたの優しいところ、強いところ、正直なところ、それから少し可愛いところ、すべてを愛おしく思っています。自分の身体の一部のように、今もあなたの鼓動と体温を身近に感じています。

 あなたに出会って、真っ直ぐに愛されて、私は初めてもっと長く生きていたいと思いました。あなたの傍で年を取りたいと願ったの。

 その願いが叶わず、こんなふうにお別れしなくてはならないのは辛いけれど、私は満足しています。他の人に比べると少し短い人生だとしても、一生分に余るほどあなたに愛してもらったんだもの。

 本当に幸せな五年間でした。

 だからね、あなたにはこれからも幸せな一生を送ってほしいと望んでいるの。

 今はどんなに悲しんでも憤ってもいいから、その気持ちがいつか癒えたら、また誰かを愛して下さいね』

 




 シドニアの漬けた今年のマルメロ酒は、ちょうど飲み頃に仕上がっていた。

 琥珀色の液体は静謐に熟成され、彼の帰りを待っていた。八ヶ月前は硬く新鮮だった果実が、今はその香りと味をすべて蒸留酒に移して、瓶の底に沈んでいる。

 彼女は今年、この酒をいつもの五倍も作っていた。まるで自分の死期を悟っていたように――。


 最初で最後の妻からの恋文は、彼女の遺言になった。

 シャルナグは手紙を読み終え、マルメロ酒を陶器の杯に注いだ。甘い香りが解放されて、部屋の中にゆっくりと広がってゆく。 

 夫婦の寝室は綺麗に片付けられていた。五ヶ月もの間誰にも使われることのなかった広い寝台には皺ひとつなく、清潔に整っている。その光景はそこにいるべき人間の不在をいかにも強調していて、彼の胸を冷たい風が吹きぬけた。


 「……悔やんではいないんだよ」


 シャルナグは杯をじっと見つめて呟く。


「私も幸せだった……あなたを妻にできて本当によかった。だから……」


 この先に、今以上の幸福などありえない。


 また誰かを愛してほしいと、彼女はそう記していたが、そんな日がやって来るとは今のシャルナグには到底思えない。時を経てマルメロ酒の熟成が進んでゆくように、悲しみと喪失感も日々深まるに違いなかった。

 見開かれた目から涙が溢れ出し、日に焼けた頬を伝って顎まで滴り落ちる。それは後から後から止めどなく流れ、身体の中心に空いてしまった穴にヒリヒリと沁みた。

 槍で刺された傷など比較にならないほどの激痛だった。体力ではなく、命そのものを削り取るような禍々しい痛みだ。


 その痛みに耐えきれず、彼は、声を上げて泣き崩れた。





『大丈夫、あなたは必ず前を向いて歩けます。また笑える日がきっと来ます。私があなたに出会ってそうできたように。

 人間は変わっていくものなのだから。

 私と結婚してくれてありがとう。愛してくれてありがとう。

 あなたは最高の伴侶でした』

 

                                        -第二話 了-

第二話『シドニア編』はこれにて完結です。ここまでお読み下さりありがとうございました。


ちょっと切ない感じのラストになってしまいましたが、全体的には仲良し夫婦のほのぼのした話に仕上げたつもりです。

まあ、嘆いてますけど、彼この四年後には若い歌姫にプロポーズしてますしね……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=766020737&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ