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「今日、キルケが遊びに来たのよ」
帰宅したシャルナグの着替えを手伝いながら、シドニアはそう話しかけた。
腰から外された長剣はずしりと重い。飾りではない、実際に人間の血を吸ってきた武器の重さだ。
「いつ見ても綺麗な方ね。それにとっても明るくて、話しているとこっちまで元気になるみたい」
「あなたと気が合うと思った――強い人だよ、彼女は」
歌姫の出自と、その壮絶な苦難を知るシャルナグは、心からの感嘆を込めて答える。
「歌を聴かせてもらったのかい?」
「少しだけ。今日はほとんどお喋りをして過ごしたわ」
シドニアがシャルナグの部屋着の襟元を整えると、彼はその手を取って指先を鼻に近付けた。
「……何だかいい匂いがする」
「マルメロ酒を漬けたの。あなたが西方から帰ってくる時には、きっと飲み頃になっていると思うわよ」
明日からしばらくの間、シャルナグは王軍を率いて西方遠征に出るのだった。彼が将軍になって初めての大きな戦争で、この戦いに勝利すれば西の大国アートディアスとの関係も相当に有利になるはずだった。
長く王都を離れるのは初めてではない。だが、漠然とした不安が彼の胸にはあった。
「留守中、気をつけてな。戸締りはしっかりするように」
こんな月並みな言葉しか出てこない自分を歯痒く思うシャルナグに、シドニアは微笑みかけた。
「家のことは心配しないで。あなたはしっかりお勤めを果たして来て下さい――これを」
彼女は懐中から黒い紐のようなものを取り出した。自分の髪の房を切り取って編んだ、細い鎖だ。この国で女性から男性に贈られる御守だった。
「出兵の度にもらっていたら、あなたの綺麗な髪がなくなってしまうよ」
何度となく贈られたそれに、シャルナグは切なげな笑みを浮かべた。髪の毛の御守は、願いが叶い相手が無事に戻って来ると、アルハ神殿で燃やしてしまうのが普通だった。
「構わないわ、また伸びるもの」
自分の髪を撫でる夫の左手首に、シドニアは鎖をしっかりと結んだ。
「ご武運をお祈りしています。必ずここへ帰ってきて」
寂しいとか不安だとかいう言葉が彼女の口から出たことは一度もない。夫を信用しているからなのだろうが、おそらく幼い頃からそんな思いを他人に悟られないよう努めてきたのではないかとシャルナグは不憫になる。常に大切に扱われてきたからこそ、彼女自身も同じくらい周囲を気遣って生きてきたのだ。
自分の前でも、未だ妻は本心を見せない。一抹の寂しさを感じながらも、一方で彼は、それでも別に構わないとも思える。シドニアの秘した思いごと、自分は彼女を愛しているのだから。
ひたむきな眼差しで自分を見上げる妻を、シャルナグは力強く抱き締めた。
○●○●○
王軍師団の長い隊列が、王都の大通りをゆっくりと南下してゆく。
旅装束を身に纏い、重たげな武器を携えて駱駝に跨った兵士たちは、みな緊張の面持ちだ。だが沿道に詰めかけた見送りの人々から歓声が上がり、魔除けの赤い花が投げ入れられると、一様に誇らしげな表情に変わった。
隊列の先頭を行くのは、夫シャルナグだった。
結婚して五年、こうやって彼の出陣を見送るのは何度目だろう。私は他の将校の妻たちとともに、遠ざかる隊列を王宮の正門から眺めていた。
見送る女たちは、泣きたいくらいに不安なはずなのに、驚くほど気丈だ。衣服の裾を握り締めながら、凛とした強い眼差しを兵士たちに向けている。
彼女らの大切な人間の生命を、私の夫が一手に預かってるのだと思うと、その責任の重さに私まで身が引き締まる思いだった。
大丈夫、彼は必ず無事に帰ってくる――私はそう確信していた。
約束したからだ。ここで一緒に年を取っていこうと。
私は想像した。何十年も経った未来の私たちの姿――彼は髪が薄くなり、私は顔に皺が増えて、絵に描いたような老夫婦になっている。
「昔は国中でいちばん強い武人だったのに、衰えたわねえ」
「あなたこそ、あんなに若くて綺麗だったのが、すっかり婆さんになった」
などとお互いに苦笑しながら、仲睦まじく穏やかに暮らしている。たくさんの子供と孫に恵まれて。
そしてその時が来たら、私は彼の最期を看取ってやるのだ。彼は私の手を握り締めて、今までありがとうと言うだろう。あの変わらない照れたような微笑みを浮かべたまま、満足げに逝くだろう。
何という幸福な人生――今まで望んでもいなかった人並みの人生。
もしかしたら、本当にもしかしたら、私にもそんな人生が歩めるのかもしれない。
砂埃とともに徐々に消えてゆく喧騒の中、私は不思議な高揚感を覚えて立ち尽くした。柔らかな炎が体内に灯ったように、じんわりと手足が温かくなる。
生まれて初めて、生きたいと思った。あの人と一緒に生きたいと思った。
「シドニア」
名前を呼ばれた気がして、私は振り返った。
背後から肩越しに、冷たい風が吹き抜けた。
もしそれが叶わないのならば、せめてあの人にだけは幸福な人生を。
○●○●○
焼けつくような左脇腹の痛みに目を覚ますと、数人の男たちの心配そうな顔が視界に入って、シャルナグは自分の置かれた状況を思い出した。
男たちは皆、自分の部下――うち一人は軍医だ。彼らの背景は白い天幕で、ここが野営地だとすぐに分かった。
身を起こそうとするシャルナグを、彼らは慌てて押し止めた。
「いけません、閣下、まだ寝ていなくては……!」
「そうです。ようやく傷の縫合が終わったところなのに、動くとまた開いてしまいます!」
シャルナグは半裸で急ごしらえの寝台に寝かされていた。腹回りに固く包帯が巻かれている。熱を持った全身は、不快な汗に濡れていた。
敵の築いた強固な砦がなかなか落とせず、戦況が膠着して二ヶ月――ようやく突破口を見つけ、彼は先頭に立って攻め入ったのだ。将軍自らが出るべきではない、という部下の制止を振り切って。
結果、待ち伏せしていた敵兵と交戦になった。
突き上げられた槍の穂先が、甲冑の隙間を貫いて脇腹に刺さり、落馬したところまでは覚えているが。
「戦況はどうなった……? 我が軍は!?」
からからに渇いた喉から絞り出したシャルナグの問いに、部下の一人が大きく肯く。
「ご安心下さい。砦はすでに落ちました。敵が降伏するのも時間の問題でしょう」
「そうか……すまなかったな、無謀な真似をして」
「閣下がこの程度でおくたばりになるはずはないと信じておりますが」
古参の部下は皮肉たっぷりの口調で言った。落馬したシャルナグを必死で庇い、引き摺るようにして敵陣から連れ戻した猛者である。
「我々のことももう少し信用して下さい。将軍たるあなたが死んでしまったらこちらの負けなのです。閣下はいちばん後ろで指示を飛ばすだけで結構。いざという時に潔くその首を差し出してさえ頂ければ」
「肝に銘じるよ」
シャルナグは苦笑した。笑うと脇腹がひどく痛んだ。
講和条約の調印式までには回復して下さいよ、と言い残して、部下たちは天幕を出て行った。口は悪いが、みな上官思いの優秀な兵士たちなのだった。
一人になったシャルナグは、左腕を見た。太い手首に、黒髪で編んだ細い鎖が嵌っている。
久々に死にかけたのだと、ようやく実感した。またこんなに大きな傷を作ってしまって、シドニアはどんな顔をするだろうか。
それでもシャルナグは、不思議と自分が戦場に倒れるとは思えなかった。何があろうと必ずうちに帰れるはずと、根拠のない確信があった。
物静かで優しくて何事にも動じない妻の笑顔が、彼の脳裏に浮かぶ。
武人の妻に相応しくあろうと彼女は常に気を配り、文句ひとつ言わずに留守を守ってくれている。欲のない慎ましやかな女に見えて――その実、誰よりも情の深い女だと夫であるシャルナグには分かっていた。
あなたは私が守ってあげると、遠征に出る前の晩、シドニアはそう言った。珍しく彼女の方から求めてきて、二人は明け方近くまで睦み合った。
家庭を持つともっと臆病になってしまうと考えていたが――彼は痛む体を捩ってそろそろと寝返りを打つ。肋骨にもひびが入っているようだった。
こんな大怪我を負っていながら、楽観的に構えられる自分が可笑しくて、シャルナグはもう一度笑った。そして、この戦いが終わって王都に帰ったら子供を作ろうと思った。
シドニアは無理だと言うかもしれないが、諦めるのはまだ早い気がする。妻と子と――大切な者が増え、彼らを守るために戦うことができたら、それは何と幸福な人生であろうか。
「シドニア、すぐに帰るよ」
シャルナグは手首に結ばれた鎖に、そっと指で触れた。
想いの編み込まれた妻の黒髪は、はらりと切れて、腕から滑り落ちた。




