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幕間劇『追想』  作者: 橘 塔子
第二話 恋文 ~ 将軍夫人の幸福な一生
12/25

<4>

『婚礼の夜、私は「今まで不幸だとは思わずに生きてきた」と言いましたね。それは強がりでも何でもなく、本心でした。

 確かに不幸ではなかった。けれど幸せでもなかった。

 私はいつも死を意識して、生きることにそれほど執着していなかったんです』





 シドニアはそれから十日ほど寝込んだ。

 慣れない後宮での生活から婚礼へと気疲れが溜まり、身体が疲弊していたのだろう。忙しなく新婚の荷物を解く侍女たちを手伝うこともできず、彼女はずっと寝室で過ごした。


 夫であるシャルナグは多忙で、昼間はずっと王宮や兵舎に詰めていた。近々また大規模な遠征が予定されているのだという。彼の統率する師団が派遣されるかどうかはまだ未定だが、軍幹部として計画には携わらねばならない。


「新妻を待たせてるんだろう? 早く帰ってやれよ」


 同僚や上官から散々からかわれたものの、真面目な彼にそんな融通が利くわけもなく、まったく普段通りに職務をこなすのだった。

 だから帰宅は毎日遅かったが、シャルナグは自宅でいられる時間はなるべくシドニアと過ごそうと努めた。新しい環境で病床に伏した妻を気遣ってのことだ。


 寝台で身を起こした彼女の前で遅い夕食を取りながら、彼はいろいろな話をした。

 自分の父親は先代の国王の馬丁だったこと、父を手伝って王宮で働くうちに今の国王と親しくなったこと、その父は自分が王軍に入隊した頃に他界したこと、母親も数年前に亡くなり兄弟たちもみな所帯を持って、家族と呼べる者はいなくなってしまったこと――。


 シドニアもまた自らについて語った。

 シャルナグは、てっきり彼女が父の左遷について国王を恨んでいると思っていたのだが、実はそうではないことを彼女自身の口から聞いて驚いた。


「父が追われたのは実力がなかったせいです。その証拠に、変わらず中央の役職に残っている方もいらっしゃいますもの。血統と家柄に胡坐をかいていた私たちが悪いのです。陛下のご判断は正しかったと思いますわ」


 きっぱりとそう言い切ったシドニアに、国王やその腹心であるシャルナグへのへつらいは感じられず、彼は少々意外だった。

 思っていたよりもずっと冷めた目で現実を見詰められる女なのかもしれないと、印象を改めた。


 彼らが床を共にしたのは、婚礼から半月も過ぎてからだった。

 シドニアの発熱が収まり体調が回復するのを待って、シャルナグはようやく彼女に尋ねた――遠慮がちに。


「今夜から一緒に休んでもいいだろうか? そろそろ背中が痛くなってきた」

「もちろんです。あの長椅子はあなたには小さすぎるわ」


 シドニアは笑いを堪えるのに必死だった。別々に眠るにしても他の寝台を用意すればいいものを、なぜか彼は半月の間ずっと長椅子で寝ていたのだ。

 それはひとえに、別の寝台で眠るのが常態化してしまうと、そのまま妻の隣に戻る機会を永久に失ってしまうのではないかという不安ゆえだったのだが。


 初めて触れるシドニアの裸体は、乱暴に扱うと壊れてしまいそうなほどに華奢で柔らかだった。

 シャルナグはずいぶん時間をかけて彼女の身体を開いたが、シドニアは声を押し殺し、きつく瞼を閉じて耐えているようだった。女性の肉体が悦びを享受できるようになるまで時間がかかると分かってはいても、そんな妻の様子が痛々しくて、彼は何度もためらった。


「……大丈夫よ」


 シドニアは両手でシャルナグの頬を挟み込んで囁く。


「ちゃんと最後まで抱いて下さい。私に恥を掻かせないで」


 彼女の優しい体温と匂いが堪らなく愛おしかった。と同時にこれまで感じたことのないほど激しい欲望が全身を突っ走って、シャルナグはシドニアの身体の奥深くへ自らを進めた。

 彼女が思わず漏らした声にも、背中に回された細い腕の震えにさえ気づかぬほど、彼は快楽に溺れた。

 愛している、と彼は何度も囁き、その度にシドニアは淡く微笑んで肯いた。


 ――やがて夜が明け、白々とした朝の光が部屋の中に差し込む頃、腕の中で眠りから覚めたシドニアにシャルナグは告げた。


「私の妻になってくれてありがとう、シドニア。私は必ずあなたとこの国を守るよ。ここで一緒に年を取っていこう」


 はい、と答えたシドニアは、ほんの少し悲しげだった。

 一緒に重ねてゆくべき歳月が、自分にはあまり残されていないことを悟っていたのかもしれなかった。




○●○●○




 夫との生活は考えていたよりもずっと穏やかなものだった。

 師団長ともなると交際範囲が広く、そのぶん妻の役目も多いのが普通なのだろうが、シャルナグは極力私に負担を掛けぬよう気を配ってくれているようだった。幸か不幸か私が病弱であることは有名だったので、あまり社交の場に姿を見せない妻を訝しむ声はなかった。


 それでもごくたまに、シャルナグの部下たち――主に彼の師団の各隊長らが屋敷を訪ねてくることはあった。

 上層部だけの秘密会議が名目だったが、実際は酒盛りをするのが主な目的らしかった。シャルナグはすまなそうにしていたものの、私は気にせず彼らをもてなした。部下に慕われているのはいいことだし、こういった場を設けるのも上官の務めだと理解できたからだ。

 それに彼らは礼儀正しくて、決して不躾な真似はしなかった。軍人というだけで粗野な男たちを想像していた私には意外だった。


 いつだったか、国王の訪問を受けたこともある。

 シャルナグが友人を連れてきたと言うので挨拶に出ると、国王が居間で寛いでおり、私は腰を抜かすほど驚いた。

 侍従も衛兵も連れない完全な非公式の訪問で、彼らの間では頻繁に繰り返されているらしい。


「本当は婚礼にも出席したかったのだが、そうもいかなくてな」


 国王はそう言って肩を竦めたが、さすがに形だけとはいえ元の夫が別れた妻の再婚に立ち会うわけにはいかなかっただろう。

 彼は改めて祝いの言葉を述べて、それから興味深げに私を見詰めた。


「以前に会った時よりも朗らかになったようだ。これは勿体ないことをしたかな」

「は……あの……」

「今からでも後宮に戻って来るか?」


 居心地が悪くなるほど明るい瞳で笑いかける。シャルナグが明らかに不愉快そうに彼の肩を小突いた。


「それ以上妻をからかうと、おまえとの付き合いも終わりにさせてもらうぞ」

「惚れてるんだなあ……大臣どもを説き伏せ、正妃の小言を聞き流して、親友のためにわざわざ骨を折ってやった甲斐があった。嬉しいよ」


 この結婚を仕組んだ国王は、さり気なく恩着せがましい言葉を吐いて、それから私に向き直った。


「もうお分かりだろうが、俺と違ってこいつはいい人間だ。愛する価値のある男だ。ぜひとも添い遂げてやってほしい。よろしく頼む」


 男同士の友情は私にはよく分からなかったが、性格的にあまり似たところのないこの2人が固い信頼関係で結ばれていることは納得できた。


 そもそもシャルナグ自身が、いい意味で私の先入観を裏切る男だった。

 見た目は武骨な大男で、本人が気にしている通りに顔も身体も厳つい。少し睨まれれば、大人でも怯んでしまうだろう。

 だがそんな外見に反して、中身は実に繊細なのだと、私は徐々に気づいた。

 独身生活が長かったせいか、身の回りのことはたいてい几帳面に自分でこなす。ケチではないが、あまり浪費はしない。酒には強く酔って乱れることはない。賭け事や女遊びはしない。当然、仕事ぶりも真面目なようだ。

 では真面目だけが取り柄の面白みのない人間かというと、これがそうでもなく、日々の何気ない仕草や言葉に奇妙な愛嬌を感じることがしばしばあった。

 食事の時に皿に残った料理を取ろうと悪戦苦闘する姿であったり、仰向けになって読書をしながら眠ってしまって顔の上に本を落下させる迂闊さであったり、馬鹿馬鹿しい勘違いで噛みあわない会話であったり――ほんの些細な日常のあれこれに、可愛らしさに似たものを覚えてしまう。

 自分でも不思議だった。七つも年上の男の振る舞いに、そんな気持ちを抱くとは。

 ついつい微笑んで見詰めてしまう私に気づくと、彼も戸惑った様子で笑う。そんな時の彼の笑顔は人懐っこかった。


 シャルナグは、私に対して優しかった。脆弱な私の身体を気遣うだけではない、彼の素直な愛情を私はいつも意識していた。


「シドニアがいてくれるから、私は人間らしく生きられるのだと思うよ」


 彼は口癖のようにそう言って、私を抱き寄せる。

 結婚してからも、彼は何度も戦場に出ていたが、そこでの様子を私に話すことはなかった。ただ、帰って来た日の夜はいつもより激しく私を抱いた。

 彼の逞しい身体には、彼の歩んできた道の険しさを証明するように、無数の傷が刻まれていた。それらを手探りでなぞりながら、私は切なくなる。


 彼は決して自身の陰の部分を私に見せない。そのぶん、陽だまりのような暖かさで私を愛した。

 たまの休日には、街の外どころか屋敷の外へすら滅多に出たことのない私を、アルサイ湖の畔へ連れて行った。慣れない馬の背に乗るのは緊張したけれど、明るい日差しと水の匂いの中で食べる昼食は本当に美味しかった。

 また、市街地にある芝居小屋へ人気の歌劇を観に行ったこともある。彼は私の手を引いて人混みの中を無理なく渡り、芝居の後に街を案内してくれた。オドナス市民で賑やかにごった返す酒場で、私たちは夜遅くまで存分に食べ、飲んだ。


 何もかも私にとっては初めての経験だった。自分にこんなことができるとは、独身時代には想像もしていなかった。

 とはいえ、そんな翌日、私はたいてい体調を崩したが、彼は後悔も落胆もしなかった。ただ、よくなったらまた行こう、と横たわった私の頭を撫でてくれる。


 私も同じだ――シャルナグがいるから、人間らしく生きられる。


 彼に抱いているのは決して激しい恋情ではない。凪いだアルサイ湖面のような、ひどく穏やかな想いだった。

 夫婦になってから育つ情愛もあるのだと、私はようやく知った。

 死を背負い続ける私が、他人に死を与えてきたであろう男を愛するとは皮肉だったが、それでもこの人の傍で私は幸せなのだ――そう、素直に思えた。

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