<3>
セファイドの狡猾な作戦通り、事はあっという間に進んで、一ヶ月後にはシャルナグ師団長とシドニアの婚礼が執り行われた。
体裁上は再婚という形になるため、中央神殿で神官長の承認を受けた後、シャルナグの屋敷で身内の宴席を設けるだけの簡素な婚礼であった。それでも、師団長を慕うたくさんの部下たちが祝いの品を携えて訪れた。
伝統的な琥珀色の花嫁衣装に身を包んだシドニアは美しかった。やや面長ではあるが卵形の滑らかな輪郭、睫毛の濃い小さめの両眼、なだらかな鼻筋、ふくよかな唇――そしてその肌は、砂漠の民には珍しく白い。地白なのではなく、日に当たる時間が極端に短いためだろう。
初めて彼女を至近距離で見て、シャルナグは柄にもなく胸が高鳴るのを感じた。そして自分の部下たちが羽目を外し、花嫁に卑猥な冗談でも言わないかとばかり心配していた。
宴は賑やかなものになったが、幸いにも無礼な酔客はおらず、和やかに進んだ。
楽団の演奏と談笑の中、シドニアは一言も喋らず、伏し目がちに座っていた。緊張しているのかとシャルナグは思ったが、それにしてはその佇まいは静謐だった。
まるで自らの運命を手放し、意思を放棄してしまったように――。
婚礼の祝宴は明け方まで夜通し続けられる。慣例に従って、夜半前になるとシャルナグは招待客に礼を述べ、新妻を伴って席を辞した。
ご武運をお祈りします、とでも言いたげな部下たちの視線をひしひしと感じながら。
師団長に昇格して住むようになった屋敷は、独り身の男には勿体ないほど広い。広間を離れて奥まった私室に戻ると、宴のざわめきは波の音のように遠く聞こえた。
部屋着に着替えたシャルナグが、酔い覚ましの水を飲みながら中庭を眺めているところへ、シドニアがやって来た。華美な衣装を解いて、薄物の上に肩掛けを羽織っただけの簡素な出で立ちだった。
灯りを手に持ってシドニアを案内してきたのは、彼女の実家から付き従ってきた二人の侍女である。女たちは薄暗い部屋の隅に灯りを置き、香炉に火を入れてから、静かに退出した。
初めて二人きりで対面して、急に緊張してきたシャルナグは、黙って花嫁を凝視した。厳つい彼の顔立ちが強張ると、本人の気持ちに反して物凄い迫力が出てしまうのだが、シドニアは恐れるふうもなくその場に膝をついた。
「シドニアと申します、シャルナグ様。今日より妻として誠心誠意お仕えいたします。不束者ですが、どうかお見捨てなきよう」
古風な口上を述べ、深々と頭を垂れるシドニアの前に、シャルナグは慌ててしゃがみ込んだ。
「おやめなさい、貴族のあなたがそのような……」
思わず肩を掴んでしまい、そのあまりの細さに、彼は反射的に手を引っ込めた。すぐにでも手折れてしまいそうで怖かったのだ。
シドニアは無表情にシャルナグを見返す。下ろした髪の毛は長く、緩く波打って白い顔を縁取っていた。
彼女はひとつ息を吐くと、上半身を覆った肩掛けをするりと取った。
「い……いやいやいや!」
続けてその下の薄い寝間着まで脱ごうとする彼女を、シャルナグは再び慌てて止めた。
「そう急かなくても結構。だいたい……まだあなたは私のことをよく知らないはずだ」
「何か不都合でも? あなた様だって私のことをご存じないはすです」
「とりあえず、少し話をしないか」
シャルナグは肩掛けをシドニアの背中に戻して、それから敷き詰められた柔らかい絨毯の上に腰を下ろした。長椅子はあったが、こうして足を投げ出して座った方が落ち着けると思ったのだ。
シドニアも少し戸惑った様子で、彼の隣に座った。
「……ずいぶん強引な真似をしたと反省している。本当は婚礼の前にきちんと会っておきたかったのだが、あなたが後宮にいる間はそれも叶わず……だから自分でも無礼は重々承知しているんだ」
「はあ……」
正面から向き合うのが照れ臭いのか、シャルナグは横顔を見せたまま独り語りのように言う。シドニアは気の抜けた相槌を打った。
シドニアが後宮に滞在したのは、ほんの数日間だった。
その間シャルナグは彼女に面会を求めたのだが、国王正妃にあっさりと断られていた。形だけとはいえ王妃となった女に外部の男が接触することを、後宮の責任者たる正妃は頑として認めなかったのだ。後宮の案件に関しては、国王といえども正妃の意向を無視することはできない。夫からややこしい手続きの一切を投げられた正妻の、それは軽い嫌がらせであった。
本当に殿方は面倒臭い悪知恵を働かせるものだわね――そんなふうに溜息をつきながらも、正妃タルーシアはシドニアの婚礼準備を何かと手伝った。国王その人とは、初日に挨拶を交わしただけであったのに。
「あの……このようなこと申し上げるまでもないのでしょうが、私は王妃といっても体裁だけのものです。国王陛下が私の部屋をお訪ねになることは一度もございませんでした」
「もちろん分かっているさ。あの男……陛下はそこまで無節操ではないよ。私が気にしているのはそんなことではない」
「それでは、側室をお持ちになることについてですか?」
初夜の花嫁にはあまりにも似つかわしくない話題に、シャルナグはぎょっとして彼女を見た。シドニアはあくまでも平静だ。
「ご存じの通り私は体が弱く、月のものも不安定です。子を成せるとは思えません。ですからあなた様が他に側室をお持ちになっても、私は構いませんわ。むしろそうなさって下さいませ」
「何を言っている!? 私は別に子を儲けるためだけにあなたと結婚したわけではないし、他に妻を持つつもりはない。私はただ、あなたが……」
髯面の険しい顔が、十代の少年のように紅潮した。
「あなたが……」
○●○●○
私は少し苛立ちながら夫となった男を見詰めていた。
黒く硬そうな頬髯といい、石から荒く切り出したような精悍な顔立ちといい、鎧を纏ったような筋肉質の体躯といい、叩き上げの軍人に相応しい容貌の大男だ。恐ろしくはなかったが、初対面で親しみが持てるはずもなかった。
どうせ『名門出身の妻』が欲しいだけの成り上がりだと思っていたし、私も納得ずくで嫁いできた。さっさと初夜の契りを済ませて、他に側室でも愛人でも囲えばいいのに、何やら気まずげに視線を泳がしている。
しん、と静まり返った夜気の中、宴席の歓声が遠くからかすかに聞こえてくる。中庭から吹いてくる微風は緑と土の匂いがした。
「あの、何でしょうか?」
彼が口ごもってしまったので、私は眉をひそめて問うた。
私の不機嫌が伝わったのかどうか、彼は非常に苦しそうに、
「あなたが望んで嫁いできたのではないことは知っている。私は無粋な軍人で、国王と違ってその……女性に好まれる容貌ではないし……だからもしあなたが本当に嫌ならば……」
などと言い出した。
私は呆れてしまって、大きく溜息をついた。
「今さら何をおっしゃるのですか? 嫌だから帰るなんて、そんな無責任なことができるはずありません。私はすべて覚悟してここに参ったのですわ」
「覚悟……やはり望んでやって来たわけではないのだな……」
彼の浮かべた悲しそうな表情に、意外なほど感情が揺れた。私は自分の中のそれを怒りだと思った。
打算的な結婚であろうと、承諾した以上不満はない。それなのに、申し込んできた当の本人がこんな弱腰でどうするのだ。今さらいい人ぶるつもりか、と私は腹が立った。
「当然でしょう。あなたは私の身分が目当てなのですから。そうでなくて、誰が私のような欠陥品を妻にするものですか。その程度のことは弁えています」
「欠陥品などと……自分のことをそんなふうに思っているのか?」
「私はこれまで何度も死にかけました。他の人間なら何でもないことでも、この脆弱な身体にとっては命にかかわります。私は日の下で思い切り走り回ったことも、徹夜で友達とお喋りしたことも、好きなだけ飲んだり食べたりしたこともありません。それでも不幸だとは思わずに静かに生きてきたんです――あなたに求婚されるまでは!」
言葉を重ねれば重ねるほど、情けない気持ちになってくる。今まで当然のように受け入れてきた事実が、ひどく胸を斬り裂いた。それを補うように、だんだん声が荒くなってくるのが自分でも分かった。
「私を外へ引っ張り出しておいて、今さら怖気づかないで下さい! 早く私を抱けばいいのですわ。それとも形だけの妻になさるおつもりなの?」
いっきに捲し立ててから、私は咳込んだ。
こんなふうに他人に対して感情が逆立ったのは何年振りだろう。私はいつも周囲の生ぬるい気遣いの中で生きていたから、気持ちを吐露する機会などなかった。
彼は呆気に取られたように私を眺めていたが、私が口元を押さえて呼吸を整えていると、明らかな当惑の表情を浮かべた。
「大丈夫か?」
「平気です……お気遣いなく」
息と血圧を平静に戻そうと努める私の額に、彼の右掌が触れた。皮膚の厚い大きな掌だった。
「熱があるではないか! なぜ言わなかった?」
「こんなのはしょっちゅうです。少し疲れが溜まるとすぐに弱るんです、この身体は……どうかお気になさらないで」
「馬鹿!」
彼はいきなり私の背中と膝の下に腕を入れると、私を抱えて立ち上がった。先ほど私に触れるのをためらっていたのが嘘のような、何の遠慮もない強引さだった。
私はさすがに驚いて抗ったが、彼の腕力は恐ろしく強固に身体を拘束する。彼は私を抱いたまま無言で部屋を横切って、奥に設えられた広い寝台に向かった。
投げ出される、と私は身構えたけれど、彼はゆっくり私を寝台に寝かせ、有無を言わせず上から布団を掛けた。
「とにかく休みなさい。余計な気を回さなくていいから」
「で、でも……」
「休みなさい! こんな状態のあなたに無理をさせられない!」
彼は叩きつけるような口調で言い、私は口をつぐんだ。眉間に寄った険しい皺から、本気の怒りが伝わってきたからだ。だが、不思議と怖くはなかった。
少しの間沈黙が下りて、彼は息をつき、寝台の傍らに腰を下ろした。
戦場で数え切れぬ屍を積み上げてきたはずの師団長は、意外なほど優しい目をしていた。
「シドニア」
彼は初めて私の名前を呼んだ。
「信じてもらえないかもしれないが、私はあなたの身分を目当てに妻にと望んだのではないんだよ。昨年だったか、あなたを王宮の礼拝堂で見かけて」
「礼拝堂、ですか?」
「満月の日の礼拝だ。あなたはお母上と並んで、祭壇に近い席に座っていた。とても暖かい日で、明るい朝の日差しが高い天窓から差し込んでいて……あなたは気持ちよさそうに居眠りをしていたんだ」
私は思わず、やだ、と声を上げた。
月に一度、王族や貴族を集めて開かれる礼拝には、私はよほど体調のよい時しか出席していなかった。中央神殿の神官長の祭文を聞きながら、眠ってしまったこともあったかもしれない。非常に罰当たりではあるが。
頬に血が上る私を、彼は笑って見下ろす。
「私はずいぶん後ろの席にいて、ついつい眺めてしまったんだが、本当に平和な寝顔だった。あまりにも安らかで美しくて、私はその、見惚れてしまったんだよ。それで思ったんだ――自分たちが国を豊かにしようと戦っているのは、こういう寝顔を守るためなのだとね」
あの大きな温かい手が、私のそれを握った。壊れやすい紙細工に触れるような、優しい動きだった。
「あなたが未だ独り身と知って、無茶は承知で望んだ。シドニア、あなたに一生傍にいてほしいと」
「シャルナグ様……」
私はただもうびっくりして、温和な表情の彼をまじまじと見た。
零落貴族の行き遅れ娘を、国王まで巻き込んで定価の数割引きで買い取った、抜け目のない成り上がり軍人――そんなふうに思い込んでいたのに、真摯に語りかけてくる彼の印象はまったく異なっていた。
何と答えてよいか分からずひたすら凝視を続ける私から、彼は目を逸らした。照れたように鼻の頭を掻く。
「今夜はもう寝てくれ。私はあっちで休む」
見やった先、部屋の反対側の壁際には長椅子があった。大柄な彼の身体を収めるにはいかにも窮屈そうだ。
「そんな……申し訳ないですわ。どうぞこちらで……」
「いや、私は寝相が悪くてな、あなたの安眠を妨げてしまうといけないから」
それが嘘だということは後日分かるのだが、その時の私にも十分言い訳じみて聞こえた。
私はごく自然に彼の手を握り返した。
「まだ先は長い――おやすみ、シドニア」
彼の唇が、私の額に触れる。硬い髯がちくりと痛かったが、その唇は微熱を持った私の肌よりも熱かった。
大きな手が解けるように離れ、彼は立ち上がった。
足を折り曲げて長椅子に横たわるその姿はどこか愛嬌があって、私は知らず知らず微笑んでいた。




