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シドニアは、生まれた時すでに呼吸が止まっていたという。
医師と産婆の必死の処置により、何とか弱々しい産声を上げることができたが、臨月よりも一ヶ月も早く生まれてきた彼女は小さくか細く、出来の悪い人形のようだった。この子はおそらく二十歳まで生きられないだろうと、両親を含め誰もが思った。
実際、シドニアは成長してからも身体が極端に弱かった。
どこか特定の場所に持病があるわけではない。けれど暑くては貧血と脱水症状で倒れ、寒くては風邪をこじらせた。そしていちいちその度に病を重症化させた。子供の頃は、一年の三分の二ほどは床から離れられない生活で、それゆえに彼女には外で走り回った記憶がない。
思春期を迎える頃からある程度体力がつき、寝込む頻度も少なくなったものの、やはり無理はきかず、溜まったツケを払うように半年に一度は高熱を出した。昏睡状態に陥り、いよいよか、と家族が集まったことも一度や二度ではなかった。
何度も死の淵を覗きながらも、どうにか生き長らえたシドニアが年頃になると、別の問題が持ち上がった――つまり、彼女の結婚について。
シドニアはオドナスの貴族の中でも名門の出身である。貴族の令嬢は普通十代半ばで、どんなに遅くとも二十歳までには結婚するものだが、彼女は二十三歳になっても独身のままなのだった。
いっこうに縁談が纏まらない理由は、彼女の身体が丈夫でなかったことと、その出自が名家すぎたことだ。
彼女の一族はオドナスでも王家に次いで歴史が古く、代々多数の大臣や高級官僚を輩出してきた格式の高い家柄であった。
だがそれは先王の時代までの話であって、現国王に代が変わると状況は百八十度変わった。
若い国王は血縁や家柄が物を言う旧来のやり方を是とせず、人事制度を刷新したのだ。あくまで実力によってのみ重臣を選び、平民であっても才覚のある者は躊躇せずに登用した。反対に、使えないと判断された貴族たちは容赦なく左遷された。
こうして国王は大々的に中枢の人員整理を行い、新しい才能を集め、黴の生えた慣例や旧習を掃き清めたのだった。先王の暗殺、王太子の討伐という混乱を経て王位に就いた彼にとって、脆い足場を固めるためにそれはどうしても不可欠な荒療治だった。
シドニアの父親も多分に漏れず、王都の要職から地方の閑職に追いやられた。王都に残った母親とシドニアが楽に暮らしていけるだけの収入はもちろんあったが、当主不在の彼女の家にかつての隆盛は戻らなかった。
それでも家柄だけはよいので、おいそれと中級以下の貴族に嫁ぐわけにもいかない。本来ならば王妃の座さえ望める立場なのだ。
では身分に釣り合った相手との縁談が持ち込まれるかというと、身体の弱さが災いしてそれもない。子を産めるかどうかも分からない女に求婚する男は、貴族の中にはいなかった。
シドニアは名家の見栄と自身の身体の両方に呪われて、身動きがとれない状態だった。
○●○●○
別に結婚できなくても私は平気だった。
少女の頃から、自分はたぶん一生独り身なのだろうと、薄々思ってはいた。
哀れな没落貴族の病弱な娘――有り体に言ってしまえば私の境遇はそういうことなのだろう。しかも私は特別美人でもなかった。醜くはないが、いわゆる十人並み。背負った負の条件をすべて引き受けてくれる男が現れるとは考えられなかった。
それでも私は、自分を不幸だとは思わなかった。
「お父様さえあんなことにならなければ……今まで通りに王宮の重臣であれば、おまえにもこんな思いはさせずにすんだのに……!」
母は何かにつけそんな愚痴を零しては私を憐れんだ。母なりの気遣いであったのだと思う。
おまえの身体さえまともならば、成り上がりの豪商とでも結婚して家を助けることもできたのに、などとは決して口に出さなかった。
しかし、多少の倹約は必要であっても、少なくなった父の収入で私たち家族は十分に生活できた。兄と弟は成人して実力に見合った王宮の役人になっていたし、私はこのまま静かに暮らしていければ満足だった。
どうせそう長い間ではないのだ。私の背中には常に死が貼りついている。
物心つく前から、死は親友のように私に寄り添っていた。姿を見せず、気配だけを感じさせて、それでいて決して私の背中から離れようとはしなかった。
私にとって死は特別なものではなく、日常に過ぎなかった。いつ何をしていても私はそれを意識していて、自分から近付いていこうとは思わなかったけれど、別段恐ろしくもなかった。
例え明日、死が私の肩に手を置いて私を振り向かせても、ためらうことなく名残惜しむこともなく、私はそれについて行くことだろう。
姿を見たことはない。だがそれは確実に実在する。気紛れに私を誘うことができる。
私は抗うことはできない。
○●○●○
惚れた女がいると、セファイドが親友の口を割らせたのは、北方親征からの帰途でのことであった。
国王の指揮するオドナス軍は、北の地を支配する騎馬民族と数十日に渡って激しい戦闘を繰り広げ、ようやく首都を制圧して和平条約を結んだ。オドナスの国境線が北方の山脈に到達するまで、あとわずかだ。
残り三日ほどで王都に到着する夜、野営地で、セファイドはシャルナグを自分の天幕に招いた。
さすがに疲労は溜まっているが緊張の解けた彼らは、久々に酒を酌み交わして軽口を叩き合った。
「おまえもそろそろ身を固めろ」
からかうようにそう言うセファイドには、二十八歳にしてすでに六人の子がいる。対して、彼よりも二歳年上のシャルナグは未だ独身であった。
シャルナグは顔をしかめて酒の杯を傾ける。
「私は家族を持つつもりはないよ。帰りを待つ者がいると思うと、命を惜しむようになる。思い切り戦えない」
「愛する者を守るために戦えばいい」
「我々が守るべきはおまえ一人だ」
「真面目な奴だなあ」
セファイドは腕を組んで唸った。
彼の部下であり友人でもあるシャルナグは、軍人としてはこの上なく優秀ではあるが、とにかく生真面目だった。特に色事に関しては奥手で、三十歳にもなって浮いた噂のひとつもない。気に入った女には躊躇なく手の早いセファイドには信じられなかった。
いつになく早い調子で杯を空けるシャルナグの肩を、彼は突っついた。
「まさかどこかの人妻にでも岡惚れしているのではないだろうな? それとも、たちの悪い遊女に騙されて貢がされているとか……」
「馬鹿を言うな。私はおまえのように見境なく手を出したりしないだけだ。女を見る目はあるんだ。あの方は……」
「あの方?」
珍しく酔いが回って口を滑らせたシャルナグは、慌てて咳払いをした。セファイドは聞き逃さない。
「あの方って誰だよ? 本当に惚れた女がいるのか?」
「いや……」
「言ってみろ。力になるぞ。どこの女だ?」
強い頬髯に覆われた顔を赤くして目を泳がせるシャルナグを、セファイドはしつこく問い詰めて、ついに相手の名を吐かせた、
その名はあまりにも意外な人物のもので、さすがの彼も一瞬言葉を失った。
「シドニア……だと?」
オドナスでも名家中の名家の令嬢。ただしその実家はかつての威光を失い、零落しつつある。その原因を作ったのは他でもない、国王たるセファイド自身だ。
「おまえ、どこで彼女と接点が……」
「満月の日の礼拝だ。王宮の礼拝堂で姿を見かけた」
シャルナグこれ以上ないくらいに不機嫌な顔をして、呻くような声で答える。普通の人間ならばそれ以上の質問を諦めてしまうほどの迫力だが、それが照れ隠しにすぎないと、付き合いの長いセファイドには分かっている。
「話をしたことはないのか?」
「ない」
「ふうん……俺も直接言葉を交わしたことはないが……美人といえば美人だったかな。何だか陰気な感じの」
「陰気ではない! 病弱なのだ、あのお方は」
身体の弱さと高すぎる身分が災いして、嫁ぎ先が見つからず行き遅れている女だったはずだ。没落貴族の行かず後家、などと陰口を叩かれている。
ああいう薄幸そうなのが好みだったのか、こいつは――セファイドは気まずげな様子の友人をしげしげと眺めた。
「いいのだ、聞かなかったことにしてくれ。一介の軍人に、あのような深窓の姫君を望めるわけもない」
そう自嘲気味に呟いて、半ば自棄を起こしたように酒を注ぎ足すシャルナグを、セファイドは押し止めた。
「いや……案外そうでもないかもしれんぞ。先方にとっても悪い話ではないはずだ」
「何?」
「人生は短い。本気で彼女が欲しいと思うのならば、手段は選ぶな。俺に任せろ」
セファイドの浮かべた明るい笑みは、彼が何か悪だくみを思いついた時の表情にとてもよく似ていた。
一抹の不安を感じながらも、シャルナグは首肯するしかなかった。
○●○●○
面識のない彼から突然求婚された時、私はとても驚いた。
彼――シャルナグは軍人だった。四つある王軍の師団の一つを預かる師団長。国王の友人でもあり、次の将軍職に最も近いと噂される人物だ。
ただ、彼は貴族ではなく平民の出であった。
いくら将来有望な出世株とはいえ一介の軍人との結婚など、普通であれば両親が認めるはずもなかった。だが今回の縁談を彼らが無下にできなかったのは、それが国王を経由してもたらされたものであったからだ。
国王は、まず私を妻の一人として召し上げたいと提案してきたらしい。
いつでも暇を出せる妾妃ではなく、一生王妃としての身分が保証される側室である。本来は国王の子を産んだ女にのみ与えられる称号だ。しかも、その結婚は体裁だけのもので、その後すぐにシャルナグ師団長に降嫁させるという。
つまり私にいったん王妃の身分を与えて、名家の面目をギリギリ保ちつつ、求婚してきた本人の元へ送り出すつもりなのだ。
あまり私情で動くことのない国王がそこまで便宜を図ってやるとは、シャルナグという軍人は本当に優秀なのだろう。それとも、自らを快く思わない旧い貴族勢力に対する懐柔政策だったのだろうか。
この縁談を受けた両親は、おまえの判断に任せると言ってくれた。だが、明らかに彼らからは、了承してほしいという無言の期待が感じられた。
無理もない。王妃の身分という破格のおまけ付きで、悩みの種である娘の行く末が保証されるのだ。平民出身の軍人の妻に落ち着くわけではあるが、それを差し引いても零落しつつある家にとっては大変な僥倖である。
この話を受けなければ、次はないぞ、と。
私は別にそれでもよかったのだが、両親の縋るような眼差しには抗い切れず、結局その申し出を受けることにした。
例え相手が、貴族と親戚関係を目当てに私との婚姻を望んでいる成り上がりだとしても、それほど気にはならなかった。
私のような女に、相思相愛の結婚などありえない。むしろ、相手に望まれていることを幸運に思わなければならない。




