Day36-3
四
ひとつ、昔話をさせてくれ。
取るに足らぬ、ひとりの男の話だ。情意に動かされた、弱き人間の話だ。
今から百年以上も前のことだったかな。
その男には妻と娘があった。寿命が二十年に定められたこの世界では、大昔にあったような、二人の親と子供という構成の家庭は、ほとんど残存していなかった。だが、彼らは例外だった。
その男は世界の管理者だった。数多の大地区を取り込み、肥大化し続ける『世界』という名を冠する怪物の管理者。男の妻はとある地区の記録人だった。世界の事象を記録し、恒久の文化保存を行う役割を担う者。二人とも、永遠の寿命が約束されたような地位にある存在だった。
そして、娘が一人。歳は……十五歳くらいだ。男の記憶に残っている彼女の姿は幼いままだったが。いつの間にか大きくなっていたのだ。男は言うなれば管理者のコネという手段をもって、彼女にも重要な役割を担わせ、長い寿命を与えてやるつもりだった。
この地獄のようなディストピアで、一家は幸福に包まれていた。永遠に、この幸せが続くと思っていた。
だが、世界は横柄な彼らを赦すだろうか。彼ら自身は自覚せずとも、傍から見れば……その家庭は幸福であるというだけで、罪にも等しい生き方をしていたのかもしれない。
当然のことだ。この世界では誰もが幸せをまともに享受することは叶わないのだから。情意に動かされることなく、そんな残酷な現状を男が管理者として冷静に見つめていれば。幸福は束の間に終わることはなかっただろう。だが、男はその責務を放棄していた。幸福に現を抜かし、目の前の人間しか見ていなかった。世界の絶望から目を逸らすという、赦されぬ罪業を犯してしまったのだ。
――だから、罰が下った。
神にも等しい管理者という存在に、『世界』という名を冠する怪物……あるいは本物の神から……裁きを下されたのだ。
【世界の精神疾患】――この事象は後にそう呼ばれた。今から百年ほど前、突如あらゆる地区にて奇病を発症する者が続出した。管理者たちは日夜奇病について研究し、対策を余儀なくされた。
男もまた、奇病の原因を究明し続けた。今なお、原因と治療法はわかっていないが……一つの仮説がある。奇病の発症は、世界に住まう人々が己の心を守るために進化した結果ではないかと。地獄のような世界で、役割を与え続けられて。変容し続ける社会に適応を要求されて。身も心もボロボロになった人々が、この世界に耐えるために進化したのではないかと。だから、治療法も見つからないのではないかと。
馬鹿らしい。男はそう思った。だが、日ごとに患者は増えていく。このままでは三千年後には人類の半数が奇病の患者になってしまう計算だった。それでも、男はその説を否定し続けた。奇病を治す手段は存在するのだと、自己暗示し続けた。
なぜなら、彼がそれを認めてしまえば。彼の妻子もまた、治せないということになってしまうのだから。【世界の精神疾患】により、男の妻子も奇病に罹ったのだ。
妻は『同調病』という病に罹ってしまった。他者の同調を得られないと心が憂慮で満たされ、何事にも手をつけられなくなってしまう病。彼女の夫や娘、同僚も彼女の病を理解し、彼女の意見に同調してあげた。症状は次第にエスカレートしていき、周囲の人々への負担も大きくなっていった。
娘は『倦光病』という病に罹ってしまった。陽の光を浴びることで全身に痛みや倦怠感が走る病。最初は無理をして外へと出ていたが、最終的にはまったく外出ができなくなってしまった。穏やかな春の陽気を、彼女は家の中から眩しそうに見つめていた。天気のいい日に、外へと出かけるのが大好きな子だった。
男は解決策を模索する日々。愛する者を助けるために、幸せを守るために、奔走した。
そんな多忙を極めるある日のこと。訃報が一つ、入った。
妻と娘が死んだ。無理心中だ。妻が自らの死を望み、それに娘が耐えかねて同調した。ただそれだけの事実だ。世界からすれば、二つの生命資源が失われただけのことだった。損益はきわめて少ない。
だが、男は発狂した。発狂し、自棄を起こし、錯乱し、気が触れ、狂気に呑まれ、狂奔し、そして……はじめて自らの過ちを知った。自分が幸福を享受する権利はないのだと、知った。
管理者として世界の人々を苦しめ、多くの人を奇病に罹らせたのは誰か。そう、世界を支配する八人の管理者だ。男自身がこの顛末の犯人だったのだ。妻子を殺したのは、まさしくその男だったのだ。奇病の原因は不明のまま、男はそう思い込んだ。すべて自分が悪いのだと。これは必然の喪失なのだと。世界に不幸を強いながらも、自らはのうのうと幸せを享受する自分に対して、カミサマによる天罰が下ったのだと。
そう思わなければ、男自身の心が壊れてしまうから。男は情意を捨てた。
世界を御する一つの機構となった。
その愚者が私……管理者ロストフィルズだ。
「……お願いです、お父さん。私から……心を奪わないでください」
私の二人目の娘は震えていた。怖いだろう。そりゃ、そうだよな。
父親に、世界の管理者に銃を向けているのだから。彼女の透明な瞳に、照準が映されている。狙っているのは私の頭。どことなく、死んだ娘の目に似ていた。そして――私がはじめて情を抱いた、あの子に似ていた。
彼女は機構となった私に何を求めているのだろうか。情意に流されるなど、管理者にあってはならない事態だ。こんな脅しも効かない。銃など、この身に届くはずもない。
「……スプリング。銃を消しなさい。どうなるのかは、わかっているでしょう」
そう、私はわかっている。こんな言葉は彼女に届かない。
どうやら私は彼女をも呪ってしまったらしい。娘が二人とも奇病に罹るなど……やはり、これは神罰なのだろう。まだ贖罪は為されていない。私は機構として、世界を救わねばならないのだ。
すべてを喪った、あの日から。私は生き方を決めてしまった。だが、彼女もまた生き方を決めてしまったのだ。残酷な相克だ。私と娘の道は決して相容れない。
「い……嫌です……!」
彼女が私に反抗したことなんてあっただろうか。いや、なかった。
最初に出会った彼女の瞳は虚ろで……すべてを受け入れていた。心がないマリオネットみたいだった。彼女の父親代わりであった研究者が自殺し、私が引き取ることになって。稀代の優秀な遺伝子を持つ者として、彼女は期待された。干渉医の星になることを望まれて育った。
最初は、彼女を引き取ることが嫌だったんだ。また大切な人を失うことを恐れていたのだろう。また家族を失うことを恐れていたのだろう。だが、私は管理者であり、機構。彼女が世界にとって有益な人材に育つのならば、と……己の心を殺して育ててきた。
そして、いつしか本当の子供のように思ってしまっていた。だからこうなったのだ。
『いかなる道であろうとも、夢を諦めないこと。あなたが夢見る理想がその道に横たわっているのなら、必ずたどり着きなさい』……この言葉は私が背負わせてしまった運命らしい。もしも私が情意に呑まれず、彼女にこんな言葉を教えなければ。彼女が奇病に罹ることはなかったかもしれない。
『夢を諦めることも大切です。あなたが無理だと悟ったのならば、諦めなさい。合理的に、効率的に世界に貢献するのです』……私が彼女に伝えるべき言葉はこうだった。
だが、思うのだ。もしも私が彼女の心を教えなければ……いま、こうして彼女は干渉医になれていたのだろうか、と。私は干渉医という存在に否定的だ。でも、彼女には干渉医という明確な夢があった。心を知らなければできない仕事だ。人の心は測れない。それを教えたのも、また私で。
……わからなくなってきた。堂々巡りで、すべてがわからないままだ。奇病の原因も、私がどうすればよかったのかも、どうしてこんな状況に陥っているのかも、今からどうすればいいのかも。管理者にだってわからないことはある。誰か教えてほしい。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
私は機構になること決めた。それが私の道で、理想。
心は……いらない。
「スプリング。彼女……レーシャさんは全人類を救う可能性を秘めています。ですから、私は世界の管理者として彼女を調べなければならない。これは決定事項で、何者にも曲げられない神意です」
「か、管理者さん……私には、そんな特別な力はないよ! 奇病を治す力なんてない! だから、もういいでしょ……!?」
レーシャさんが私を引き留めようと袖を掴む。私は強引に彼女の手を振り解いた。
――ああ、喪ったはずの心が痛む。
二人の少女に糾弾されて、情けない大人だ。だが……『情けない』なんて感情で、僕の決定事項は曲げられない。
この身は機構。全ては、失った日々を取り戻すための歯車。もう一度、あの子に会えるのなら……私は自らの娘も否定しよう。
「申し訳ありません。あなたがそう思っていても、調べてみない限りはわからないのですよ。……さあ、スプリング。そこを退きなさい」
「…………」
彼女の瞳が涙で濡れていた。あの様子では、ろくに照準も合わせられていないだろう。
手足も震えて、本当に無力な少女にしか見えなかった。
百年前に見た……死に際の娘に似ていた。涙を流して、陽の光を見つめていた娘に。地に落ちた涙が、無情に残光を映していた記憶を思い出させる。
――やめてくれ。そんな悲鳴を上げそうになった。
しかし、私はその叫びを押し殺して。
「……これは管理者命令だ。退け、スプリングデート」
ああ、私には似合わない態度だな。
かっこつけたって、ダサいだけだと。いつもみたいに言ってくれ、スプリング。私の赤いメッシュを見て、『その髪、ダサいですよ』って。いつもみたいに。
「ッ……!」
彼女は、膝を折った。
その場にへたり込み、顔を両手で覆った。
教会の赤い絨毯に、指の隙間から漏れた涙が落ちた。
「さあ、レーシャさん。行きましょう」
「い、嫌……! デート……っ!」
抵抗するレーシャさんの意識を眠らせ、強引に手を引いて教会の外へ連れていく。
一面の雪が、外には広がっていた。重苦しい雪が降り注ぐ教会の外へ、スプリングの横を通り抜けて出ていく。
嗚咽が、後ろから響いている。これ以上娘の泣き声を聞きたくはない。
早く、離れて……
「あ……」
ヒュツ、と。
一筋の光が走った。光は私の頭の中から出てきたような気がする。眩暈がして、思わず倒れ込む。
冷たく、柔らかい雪の感触が顔の皮膚に触れた。私は倒れている。
視界が紅く染まっていく。
紅く、暖かい液体が雪を染め上げていく。
……私の頭から流れ出た血だった。
「ふっ……」
自然と、笑みを漏らしていた。
薄れゆく視界と意識の中で、垣間見た。
呆然と立ち尽くす娘の姿を。
彼女の瞳には、眼銃を撃った後の光の硝煙が灯っていた。とても悲痛に満ちた表情で、彼女の双眸が私を捉えていた。
このとき。後ろから迫りくる光銃を無意識に受け入れていたのは。
流れ出る血を止めず、肉体を回復させなかったのは。
知らぬ間に妻の形見である懐中時計を握りしめていたのは。
最後まで心を捨てきれなかったのは……どうしてなのだろうか。
死。
死がそこまで迫っている。
肉体の再生を要求する通知をすべて拒否。
出血多量による警告をすべて無視。
心拍数の急激な低下による警告をすべて無視。
生命活動の停止が迫る。警告を破棄。
――なんだか、救われた心地がした。たとえ世界が私を赦さずとも……愛する娘が僕を赦してくれれば、それでいいか。そう思った。
罰は、彼女の手によって下されたんだ。
「最期に、記録しておこうか……管理者、ロストフィルズの……権限を以て……干渉医、スプリングデートの……【安寧地区】における、罪を……不問と、する……」
まあ……教会の前が墓場になるのは……マシな死に方、なのかもしれないな……最期に、あのビデオテープを……




