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ああ、空が高くて青い。
私はいつの間にか秋の気配を濃くしている空をぼんやりと見上げていた。
私が伽耶子ちゃんとお姉ちゃんを放り出して逃走してからすでに二週間が立っていた。その間二人からはじゃんじゃん電話も鳴ったしメールも来ていたけど全部無視した。
最終的には携帯電話の電源切って放り出した。
半月後には伽耶子ちゃんの結婚式、一ヵ月後には文化祭、だというのに何もやる気が起きない。
私は昼休み、中庭のベンチに座っていた。
「藍」
声をかけてきたのは真弓だった。彼女はするりと私の横に腰を下ろした。
「なんか最近元気ないけど」
「ああ、うん」
私はあの日自分に起きたことを誰にも話していなかった。というか自分がしでかしたことが恥ずかしすぎて誰にも言えない。
ああ、バカだなあ、私。
確かに私だって誰かに好かれたい。でもその思いがあんなに強いだなんて思ってもいなかった。欲しがるばかり。
何も話そうとしない私を真弓はしばらく待っていたけど、結局私が話をはじめなかったので、小さくため息をついてから彼女は自分から話し始めた。
「佐藤君も心配している」
「……佐藤君が?」
佐藤君のことを思い出すとまたしても私は頭が痛い。彼があまりにも正論だったからだ。いつだったか彼は「碧には近づくな」そう私に言った。私はそれを無視したわけだ。佐藤君が一体何を見てそう感じとったのかはわからないけど、でもあの一言はやっぱり真実だったのかなあ。
三嶋碧は私に何をさせたかったんだろう。何をさせたくなかったんだろう。
よくわからないや。
ふと顔を上げた視線の先に、佐藤君がいた。渡り廊下を歩く彼の横には香坂エミリが並んでいる。
「あれ、あの二人付き合ってるんだっけ?」
私の質問に今更と言う顔をした真弓は短く答えた。
「ずっと前から噂だったじゃん。藍は最近寮にもあまりいなかったから知らないかもしれないけど」
「うん……」
「門限ぎりぎりすぎるのもよくないよ」
お姉ちゃんと遊びに行くときは一応制服で出かけて着替えて、そして戻ってくる時はまた制服って感じにしていたけどやっぱり遊んでいたというのは気がつかれてしまうものらしい。
ぼんやりと佐藤君を見ていたら真弓が付け足した。
「まあでも噂は噂に過ぎないけどね」
どういう意味か聞き返そうと思ったら、その時に佐藤君と目が合った。佐藤君は横の香坂エミリに何かを告げると彼女を置いてこちらにやってきた。あれ、いいのか?
「じゃ、私は先に教室戻るから」
真弓はすっと立ち上がった。
「ああ、あとずっと出しっぱなしになっている招待状の返事、出しておいてあげたから」
「えっ?」
「ちょっと真弓!」
「感謝しなさいよ。出席にマルしておいたから」
真弓は振り返りもしないし弁解の一言も残さずに去ってしまった。
招待状と言うのはもちろん伽耶子ちゃんの結婚式のものだ。どうしても出すことができないでいたもの。
伽耶子ちゃんに会うのが怖い。
……伽耶子ちゃんは、私が本当に信頼を寄せている人だ。その人に嫌悪の視線を向けられたらきっと私は立ち直れまい。
でも逃げ続けているのも疲れる。
「三嶋!」
考え込んでいる間に佐藤君が目の前に立っていた。
「ああ、いいの?香坂エミリは」
「ちゃんと説明したから」
答えになっているような、いないようなことを言って佐藤君は、私の前に立っている。
「あのさ」
佐藤君は困ったように言った。なんだか悩んでいるのは彼自身みたいな感じだ。
「何かあったんだよな。ここしばらくぼーっとしている」
「別に」
「エリックさんのこと?」
「なんで?」
「……俺もちょっと反省しているから。エリックさんに関わったのは俺のせいだし」
「そんなことないよ」
佐藤君はさっきまで真弓が座っていた場所に移動した。並んで座って互いを見ないで前を見ている。
香坂エミリはもういなかった。
「多分、俺は自己を過信していたんだ」
佐藤君はふいにそんなことを口走った。
「どういうこと?」
佐藤君はうつむいて、なんとなく握り合わせた自分の手を見ていた。
確かに佐藤君のことは謎だった。女装趣味はともかくとして、その行動力とか正義感とか。彼は何を自分に課しているんだろう。
「俺はさ、普通のうちで普通の家族だったと思う。でもそうじゃないうちもあるんだよな。あのさ、俺が小学校一年生の時、友達がいたんだ。女の子」
短く言葉を切って淡々と話しているその様子は佐藤君のにじみ出る罪悪感そのものみたいだった。
「手足にいつもあざがあった。一度だけ家に宿題を届けに行った時がある。その時に父親にぶたれていた。でもその子は父親を悪く言わなかった。先生とか病院の医者に怪我の理由を聞かれても父親のせいだとはいわなかったらしい。それで半年しないでどこかに引っ越していった。それだけなんだけどさ」
言葉にすればとても短い話だった。オチもなにもない。
でもきっと、小さい佐藤君はものすごく傷ついたんだろう。それくらいはなんとなく私にもわかる。
「いまでもよく思い出す」
佐藤君は小さい時から優しい人だったんだろうなあ。
「あの時は俺は自分のことさえ満足にできない子どもだった。でも子どもでも理不尽は感じることができるんだ。その理不尽を俺はずっと考えている」
……そして佐藤君が今話したことは、きっとエリックさんに優しかった理由じゃない。
「……だから私の行動が気になるの?」
「多分」
佐藤君が言った『誰が頼れる人か間違えるなよ』という言葉。
それは三嶋碧ではないのだと彼は思っていたんだろう。
「佐藤君はいい人だね」
でも私は微笑むことはできない。いい人であっても、私を怒らせることはあるのだ。
「でもすごく傲慢だと思うよ」
私の言葉に、佐藤君ははっとしたように私を見た。
私が三嶋碧といい関係を築きたいと思っていたことも、理不尽のうちなんだろうか。そう考えると途方も無く自分がバカに思える。佐藤君は優しくて正しい人だけど、自分勝手なバカの気持ちはきっとわからないのだ。
ただでさえくじけているって言うのに、なんだかまた悲しくなる。
一番悲しいのは、たとえ私がどんな理屈をこねたって、佐藤君のほうがまともだということだ。
佐藤君は小さい時の理不尽を憎んで、毎日自分を成長させているのかもしれない。私はそれに及ばない。佐藤君とか伽耶子ちゃんみたいな、迷わない人だったらよかったのに。
私が伽耶子ちゃんを好きなのも、自分が持たないものを持っている人だからなんだろうか。
私はお姉ちゃんの気持ちがふいによく見えた。本当はいろんなものを張り巡らせて長考の結果であるはずだけど、直感的に一番深いところにあるものが見える。
きっとお姉ちゃんは自分自身を嫌いだ。
多くの男性から愛される魔性の代償は、本当に好いてくれる人がわからなくなることだ。ただそれだけ、でも致命的。
お姉ちゃんはとても寂しい人なんだろう。どれだけの人から好かれても結局満足も安心も得られないなんて。私を同じ道に引きずりこもうとしたのは、気持ちをわかる人が欲しかったんじゃないかな。上から解説するような理解じゃなくて、不毛に等しい生ぬるい同情が必要だったんだろう。
気の毒な人だ。
でも、もう会わない。お姉ちゃんが必要なものは私も持っていないから。
「三嶋、俺はさ」
「でもさ、その傲慢さと言うのは上から皆を引っ張っていく人にはすごく大事なことだと思うよ」
私はベンチから立ち上がった。
「ただ、私には関係ないからもうかまわないで」
佐藤君は香坂エミリと付き合って、きちんとしていればいいんだ。
「三嶋、でも俺は!」
立ち上がりかけた佐藤君を私は一度睨んで、そして足早にその場を離れた。
「なあ三嶋、涼宮さんの式には行けよ!?」
なんて言ってる佐藤君の声が聞こえた。




