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「……藍、帰るの?」
お姉ちゃんは穏やかにいつもの微笑を浮かべていた。細く眇められた目はそのままゆっくりと横の伽耶子ちゃんに移された。
「藍のお友達?」
「涼宮伽耶子と申します」
伽耶子ちゃんはよどみなく答えた。
「藍のお姉さんですね?碧さん」
「ええ。そう……あなたが」
お姉ちゃんは伽耶子ちゃんをじろじろと見ることも無く静かに受け答えをしていた。二人の間にあるものはただ一瞬の沈黙だったんだけど、私には尋常じゃなく長く思える苦しいものだった。
「いつぞやは妹がお世話になりました」
「いいえ、あれは最終的には藍のお父様の決断とお力です」
伽耶子ちゃんもお姉ちゃんもお互いの距離を測っているみたいだった。
お姉ちゃんは伽耶子ちゃんより顔立ちは平凡だ。でもとても他人を惹きつける。
伽耶子ちゃんはお姉ちゃんよりずっと年上だ。でもとても輝くものを持っている。
強い力がうねっているような気がした。私には何一つ介入できないほうは激しい何かが。
「藍ちゃん、帰るの」
「う、うん」
お姉ちゃんは私に声をかけてきた。それでもやっと息がつける。
「もうこういうところには来ない」
「そんな寂しいこと言わないで」
誰も乗っていないエレベーターは静かに閉じてじっとその階に立ち尽くしている。何もできない姿は私みたいだ。
「藍はまだ未成年ですから」
伽耶子ちゃんはお姉ちゃんには丁寧だった。よそよそしいって言ってもいい。
「こういった場所は早いと思います」
「あなたに姉妹の何がわかるんですか?」
「わかりますよ。私も年の離れた妹がいますから」
伽耶子ちゃんはもう話を切り上げようとした。じわじわと険悪な雰囲気は漂い始めていたのだ。それを放っているのはお姉ちゃんなのか伽耶子ちゃんなのかはよくわからなかった。ただ伽耶子ちゃんは極めて冷静に話をしようと勤めているみたいだった。伽耶子ちゃんよりもお姉ちゃんの考えのほうがよっぽどわからない。
お姉ちゃんは再びエレベーターを開けようと伸ばされた伽耶子ちゃんの左手薬指の清浄な光に気がついたみたいだった。
「涼宮さん、あなた御結婚されるんですか?」
「ええ」
伽耶子ちゃんはちらりと自分の指輪に目を落とした。
「来月が式です」
「それはおめでとうございます」
お姉ちゃんは先ほどよりわかりやすい笑顔を作っていった。
「でも藍には未来のご主人とあわせないほうが良いかも」
え?と私は顔を上げた。
お姉ちゃんはいっそ無邪気と言って良いほどにくったくない表情だった。
「だって、うちの藍は可愛いもの。心変わりされたら困るでしょう」
お姉ちゃんの言葉は普通の女性が言ったらその知性を疑いたくなるくらい愚かなものだ。でも不思議なことにお姉ちゃんの声で聞くと、それはただ妹の正しい評価を親切として告げているだけ思えた。
「藍だって、そんなの嫌でしょ」
「わ、私はそんなことしないし」
「あら。でもここのオーナーはすっかり藍を好きだよね、もう」
お姉ちゃんが一体どんな意図でもってこの発言をしているのか全然わからない。
「藍だって人に好かれるのは嬉しいでしょう」
ぞわっとした。お姉ちゃんの意図が少しだけ見えた。
お姉ちゃんは本当に伽耶子ちゃんに警告しているんだ。私と妹に不用意に介入すると、自身が痛みをこうむることになるって。
伽耶子ちゃんがどう思うかはわからない。でも私自身は。
……私、さっき、誰かの、気持ちを惹きつけることに楽しさを確かに感じていたのだ。それを思い出すと、自分が信じられなくなる。
私は別に伽耶子ちゃんの婚約者のキリン男に興味は無い。本当にどーでもいい。でもでもでも、私は最初お姉ちゃんみたいなやり方は嫌いだったはずなのに。気がついたらお姉ちゃんみたいなことをしていた。なんで?
じゃあ私がキリン男に手をだすってこともあるってこと?
私はしないと思っていたことも、するのかな。
……これじゃあママと同じだ。
私は胸の中が黒くひんやりしたもので固まっていくような気がした。
ママだって、浮気をして夫と別れて、子どもよりもあんなろくでもない男にばかり入れあげる人生を選ぶなんて思っていたわけが無い。でも結果はそうだった。自分がしたくもないことを本当にしないで済むなんてどこにも保証は無い。
別に自己犠牲とかなんかじゃないし、反省したわけでもない。
ただ、私は伽耶子ちゃんの足手まといにはなりたくないなと思った。
違う。
これ綺麗すぎる言葉だ。
伽耶子ちゃんは察しのいい人だ。
私がお姉ちゃんみたいに、他人のものである男性を奪ってけろりとしていることができる人間だって、気がついてしまうだろう。
私はそんなんじゃないって今は思うけど、でも確かにさっきはそういう考えがよぎったんだ。誰も私を信じない。私だって私自身を信じられないもん。
だから伽耶子ちゃんが私を疑っても仕方ない。用心してかかるかもしれないけど、それただってありまえだ。私の自業自得。
でも、そういう侮蔑の目を向けられるのは。
ただ怖かった。
「藍?」
私は伽耶子ちゃんの手を渾身の力で振り払った。そのままくるんと後ろを向く。そこには閉ざされているけど、非常階段の分厚い鉄の扉がある。
私はそこにとびついて扉を開ける。高層ビルの吹き上げる深い風が私の額の髪を舞い上げた。そのまま私は非常階段に足を踏み入れ、長い階段を一目散に駆け下り始めた。
「藍、待ちなさい!」
伽耶子ちゃんはタフでハイヒールも履きなれている人だ。彼女が追ってくる固いヒールの音が私の耳に飛び込んでくる。
でも、若いってことはさきほど伽耶子ちゃんが言ったとおりとてもすばらしいことなんだ。私は伽耶子ちゃんを振り切って駆け下り続けた。途中で私以外の足音が聞こえなくなる。
泣きそうだった。ていうか泣いていたのかな。
お姉ちゃんと一緒にいたことが間違いだったのかな、でも姉妹だし。
遊びに行く先をもっと健全にするべきだったのかな、でもどこに?
お姉ちゃんを囲む男の人たちへの態度をもっと慎重にするべきだったのかなあ。でもあの人達はは紳士だったように思う。
そしたら結局自分のせいだ。
ママみたいになるのもお姉ちゃんみたいになるのも嫌だったけど、どうしてこんなことになっているんだろう。
よくわからない。
とにかく逃げた。




