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薄暗い照明の店内に、強い光が差し込んだようだった。
でも今、その光は私にとって痛みだ。
「か、か、」
私は呼びかけようとして声が出ない。
伽耶子ちゃんは夏の終わりに相応しく、暑苦しくない程度にもう秋の装いだった。本当のセンスの良さは、店内にいる人々の目を引き寄せた。
でも伽耶子ちゃんは自分に向けられる視線なんてかまいもしない。いつも与えられているものだからだな。
そして伽耶子ちゃんは私を見た。
浮かんでいるのは怒りではない、蔑みでもない。私にはわからない何かだった。ただその射抜く強さは私の羞恥心を一気に呼び覚ました。
こんなところで、まだガキだって言うのに化粧なんてして、お姉ちゃんから借りた高価なものを身に着けて。身の丈にあっていない姿で私は一体何をやっているんだろう。人の気持ちもわからない幼稚な立場なのに誰かの気持ちを量るような真似をして一体私は。
……私は一体何をしているの?
ようやく訪れた冷静さは、血の気が下がるという極端なものだった。
「藍」
伽耶子ちゃんは、まっすぐに私の方に歩いてきた。細くて高いかかとの靴を履いていても姿勢はけして崩れない。
「か。伽耶子ちゃん」
「ここで何をしているの?」
伽耶子ちゃんは私を見下ろしている。目線こそ高いスツールの上にいる私と等しいものの、伽耶子ちゃんの精神面は確実に私より上だ。
「えっと……」
「行くわよ」
伽耶子ちゃんはいきなり私の腕をつかんだ。そのままスツールから引きずるようにして下ろした。
「あの!」
「藍ちゃん、こちらの方は?」
戻ってきたオーナーが伽耶子ちゃんの迫力にびっくりしたように、尋ねた。口にこそしないものの、お姉ちゃんの信奉者である男性も同じような顔をしている。
「お騒がせしました」
伽耶子ちゃんは、笑顔とも言えないようなかすかな笑みを浮かべただけで、私を引っ張って歩き始めた。
「伽耶子ちゃん」
店を出たところで私はやっと言葉が出た。彼女の名前を呼ぶことで精一杯だったけど。伽耶子ちゃんは止まらずにエレベーターホールまで一気に歩く。そのままつき指するんじゃないかと思うような勢いで降下を示すボタンを押した。
下の階から上がってくるエレベーターのパネルを見ていたかと思うと急に私を振り返った。
「藍」
伽耶子ちゃんは静かな声で、一言だけ言った。
「あそこは藍が今いるべき場所だと自分で思う?」
私の頭に血が上る。血の気が下がったり上がったり我ながら極端だ。
耳まで赤くなってしまったのが自分でもわかった。本当に恥ずかしい。どうして私はあんなに調子付いていたんだろう。
確かにちょっとした仕草一つで、私は彼らの気持ちを得られるかもしれない。でもそれは私がどうしても欲しくって、必要だったわけじゃない。じゃあなんであんな風に、彼らの好意を得られることが嬉しかったのかといえばそれは本当にただの自己満足だ。いや、別に欲しかったわけじゃないんだから自己満足ですらない。
ただの、面白半分だ。
黙ってしまった私に伽耶子ちゃんは畳み掛ける。
「答えなさいよ」
「……ちがうと思う……」
面白半分で人の気持ちを操るなんて本当に最低だ。それは私がとても嫌いだったことじゃないんだろうか。どうしてこんなことしてしまったんだろう。
反省ばっかりだ。
でもそれだって本当の反省なのかわからない。だって伽耶子ちゃんが現れて私を静かに見つめるまで、物事の良し悪しなんてものすごく遠い場所にふっとんでしまっていたんだもん。もしかしたら今も伽耶子ちゃんに怒られたくないからそんな風に思っているんじゃないかって不安になる。
「違うと思うのに、どうしていたの」
でも伽耶子ちゃんの優しいところは、こうして畳みかけてくれるところだ。
「わかんない」
「自分のこともわからないで済ませるんじゃないわ」
伽耶子ちゃんはその時だけ少し声にきつさを滲ませた。
「考えなさい」
「……楽しかった、の、かな?」
「何が」
その答えを思いついたとき、私は本当に自分が情けなくて涙が出そうになった。本当に。
バカすぎる。
私はその答えを口にすることができなくてうつむいた。
「言いたくなければ別にいいわ。言いたくないことを思いついたんでしょうから。自分のことは自分がわかっていればいいのよ」
さらっと伽耶子ちゃんが言ったので私は泣きそうになりながらも言葉にした。
「ちやほやされて楽しかった」
「バカじゃない?」
伽耶子ちゃんは間髪いれずに言った。本当に容赦ない。
「バカだと思います」
「ちやほやされて楽しいの?まあ楽しいか。奴隷がいっぱいいるって言うのは確かに便利だしね。わかるわ」
ちなみに伽耶子ちゃんのこれは別に嫌味ではない。本当に、心の底から便利だと思っているのであります……。
「でも、それはあんたの何をみてちやほやしてくれているの?ちなみに私が藍くらいの年のことはもう相当ちやほやされていたわよ。今の藍なんて比べ物にもならないくらいね。でもそれは私に対してじゃない。だって二十歳にもなっていない小娘の一体なにに価値があるって言うの。確かに若さには価値がある。でもそれは、必ず失われるものだもの。その頃から私はもちろん美少女だったけど、そんな顔しか見ていない奴らはこちらからお断りだわ。あとね、私がちやほやされたのは親の七光りもあったのよ。そんな自分のものじゃないもので、取り巻き作ったって面倒くさいだけだわ」
伽耶子ちゃんは一気にまくし立ててから最後に付け足した。
「だから私は思ったの。いつかちゃんと、私自身の価値でもって、絶対服従の奴隷を量産してみせるって」
……概ね伽耶子ちゃんが言っていることは清くて正しくて、心を打つはずのものであるはずなんだけど……。
なぜだろう、最後にガッカリー、となってしまうのは。
「藍も、奴隷を持ちたいならハンパな気持ちじゃダメよ。自分がその主人として相応しい存在かを常に考えなきゃいけないんだから」
この言葉って二十一世紀人類皆平等にあっていい言葉なのか……?
伽耶子ちゃんはそしてつかんでいた私の腕から手を放す。心細さを覚えた瞬間には伽耶子ちゃんは手を繋いでくれた。
ああー。
伽耶子ちゃん、好きだー。
とか、私はそれだけでちょっと浮上してしまった。
伽耶子ちゃんはめちゃくちゃな暴論の持ち主だけど、でも自分を信じているという意味では歪みが無い。そのまっすぐさが私にはたまらなく光って見えるんだ。
綺麗に大きくうねる髪は照明を柔らかく反射していた。伽耶子ちゃんの指にはまっている品のいい婚約指輪が眼に入る。入れまいとしていたのだけど……。
石じゃなく光ばかりでできたようなその指輪は、私の胸を痛ませたけど、それでもなんだかほっとするものだった。
私が伽耶子ちゃんを好きなのは間違いない。
でも伽耶子ちゃんの結婚相手が丑の刻参りでのせいで、不幸にあわなくってよかったな、とかうっすら思えたのだった。
とても長く感じたけど、エレベーターが開くまでは実際二、三分だった。
「あ」
私は小さく口を開いた。
「あら、藍」
中から出てきたのはお姉ちゃんだった。




