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元音楽教師に大変な目にあわされた翌日のことだ。
「三嶋!」
補習終了後、いままでぎこちなくお互いに距離をとっていたのに、佐藤君は話しかけてきた。もう帰ろうと思ってきた下駄箱前だった。蒸し暑い空気の中、校庭のほうから部活をやっている生徒の気配が伝わってくる。
佐藤君はすでに出口にいる私にそれ以上近寄ることなく、自分は上履きのまま大声で言った。
「お前顔どうしたんだ?」
佐藤君は自分が痛いような顔をして尋ねてきた。
「……階段から落ちた」
昨日殴られた頬骨の辺りが青くなっているのは気がついている。昨日の夜、寮に帰った時に真弓にも仰天されたけど、彼女にしたのと同じ説明を佐藤君にした。佐藤君は今日教室で私を見てからずっと気にしていたみたいだった。
「マジか……」
佐藤君は無遠慮に私の顔を見つめている。それが嫌で私は顔をそらした。学校の廊下の窓からは濃い青の空と分厚い入道雲が見える。
昨日のあの騒動の中思いついたことを私はぼんやりと反芻していた。
私にとって佐藤君は特別なんだろうか?
佐藤君は特別な存在だと思う。成績優秀品行方正文武両道女装男子。
なかなかいない個性だ。でもじゃあそれが私にとってなんなのかといわれればよくわからない。確かに話しやすい人ではあるけど、恋愛とかそういう感じじゃない。恋愛ってもっとどきどきするものじゃないかと思うからだ。私だって伽耶子ちゃんに髪とか触られると未だに耳とか赤くなる。
でも男子の中ではこれほど気安く喋れる人もいないから、特別なのかなあ。よくわかんないなあ。
そんなことをぼんやりと考えていたら、佐藤君は話を続けた。
「あのさ、三嶋」
佐藤君も一瞬だけうつむいた。
「今日で補習も終わりじゃん。あと一週間は夏休みあるけどどうするの?」
「……うーん、寮。どうせ勉強しかしていないと思うけど」
「一日くらいどこかに行けないかな」
とはいえ、私、夏休みの前半は昼間こそ補習に出ていたとはいえ、画廊経営者と夜遊びしていたからその遅れを取り戻さないといけないんだよね……。
「……顔が青いからなあ。お出かけは嫌だな」
私は笑った。
「じゃあさ、夜にあの場所で待っているよ」
なぜだかわからないけど、佐藤君も一生懸命ぎこちない私達の中を元通りにしようと思っていることはわかった。
「うん、わかった」
私は頷くと靴を履き替えた。佐藤君はなぜか見守っている。
「もう行きなよ。佐藤君は次もなにか補習とっているんでしょう?」
「あ、うん」
でも佐藤君は動こうとはしなかった。なんだろう、一生懸命、次の言葉を捜しているようだ。
「藍ちゃん!」
と、静まり返った下駄箱に声が響いた。明るい光の差し込む出口にお姉ちゃんが立っていた。焦って振り返ると佐藤君が目を見開いていた。
「迎えにきちゃったー」
お姉ちゃんは今日も綺麗な格好をしていた。すたすたと近寄ってくると、私の荷物をひょいと取る。
「うわ、重たい。何はいっているの?」
「勉強道具」
「真面目ー」
「だってここ学校だよ」
「三嶋!?」
佐藤君が慌てて靴を履き替えているのが見えた。私はお姉ちゃんの手を引っ張った。
「どうしたの藍ちゃん」
「行こう!」
佐藤君は姉の顔を知っていて……当然エリックさんの騒動のこともお姉ちゃんが何をしているのかも知っている。
一緒にいるところを見られたくないって言うのは私のとっても卑怯な点だと思うんだけど、でも。
「なんか友達が呼んでいるじゃない」
「いいの!」
私が慌てて下駄箱を走り出ると、お姉ちゃんは驚いた顔でついてきた。
佐藤君はとっても混乱しているみたいだったけど、私は特になんの説明もしないで逃げ出したのだった。
「こっち見ているけど」
「いいんだって!お姉ちゃん、車どれ?」
そのまま駐車場まで足早に向かい、昨日見たのとはまた違うお姉ちゃんの車に急いで乗り込んだ。
なんでお姉ちゃんが学校まで迎えに来たかと言うと、昨日の騒ぎの後、送ってもらった時に交わした会話がもとだ。
お姉ちゃんは一緒に住もうと言ってきた。
いやまて、あんた結婚してるじゃん、と思ったけど、まあ彼女のわがままをどうこう言うのはなんの影響もないんだろうと考えた。
ただ、それはそれとしても、さすがにパパの手前もあるし気が引けた。そうしたらお姉ちゃんは、じゃあ夏休みの間は一緒にご飯食べてくれる?と言い出したのだった。
それも断るなんていうのは助けてもらった相手に言い出しにくくて、私は頷いてしまったのだった。
「かわいそう。痕になっている」
昨日の傷をお姉ちゃんは痛ましそうに見つめた。
それで自分の持っていたファンデーションで隠してくれる。画廊経営者と接した時に私も自分で化粧はしたけどお姉ちゃんは技術が違った。家庭科の課題のエプロンを作るのと一流ブランドの縫製技術くらいは違っているな、うん。
お姉ちゃんは楽しそうだった。
そんな制服じゃご飯食べいけないと言って、服やら靴やらを買ってくれた。
「……お姉ちゃんのご主人ってどんな人?」
あまりのカードの使いっぷりに私がびっくりして思わず尋ねるとお姉ちゃんは首を傾げた。
「別に特に特徴のない人よねえ。でもこのカードは私が自由に使って良いことになっているの」
「でもさ、仕事して帰ってくるならご飯とか作らなくて良いの?」
「私、そんなこと一回もしたことないわ。別にそれでいいみたい」
本当によくわからない。
お姉ちゃんはいろいろ選べる立場だった。そのお姉ちゃんが選んだ人なんだから何かしらお互いに『気持ち』があっていいはずじゃないかと思う。でもお姉ちゃんはずっと自由だし、その人もそこに怒りを持たない。
お姉ちゃんは浮気はしていないみたいだけど、それでもなんだか変な話だ。
「さ。可愛くなった。ご飯食べましょう」
夕方、デパートから出て、お姉ちゃんは町の中を迷うことの無い足取りで歩き始める。この間連れて行ってもらったレストランも敷居が高かったけど、今日の店も私が自力で来るのはなかなか難しそうな場所だった。バーのようになっていてその意味では気楽だけど、客層が……なんというか選ばれし勇者たちばかりと言う感じで……。
NPCの村人Aドット絵の私がくるようところじゃない。
「碧さん、お久しぶりです」
席に着くや否や、この店の若いオーナーらしきイケメンがカウンター越しに声をかけてきた。
「そうね。ずいぶん空いちゃったわね」
お姉ちゃんが微笑んだだけで、百戦錬磨にしか見えないオーナーが緊張するのがわかる。
ああ、恋だ。人の恋を私は今見つめている。自分の恋はわからないくせに。
「そちらは?」
「あ、妹。藍っていうの」
私は慌てて頭を下げた。NPCに対してもオーナーは礼儀正しく挨拶してくれたが、それは『碧さん』の妹だからだろう。
「何食べる?」
お姉ちゃんは、革張りのメニューを開いた。とりあえず私にノンアルコールのカクテルと、自分にはキールを頼む。
お姉ちゃんはオーナーの視線なんてまったく気にも留めない。この間私は画廊経営者を篭絡したけど、それはものすごい緊張をもって考え抜いてやったことだ。でもお姉ちゃんはそれを息をするように容易くやっている。容易すぎるから息の仕方なんて考えたことも無いんだろう。
お姉ちゃんはものすごく軽いものしか頼まなかったけど私にはなにやらおいしそうなものを選んでくれた。
それだけの時間ですら、店の客のうち数人の男性がお姉ちゃんに親しそうに……ていうかオーナーと同じ熱い視線でもって挨拶しにきていた。彼らはもともとの顔見知り見たいだったけど、それだけじゃない、見知らぬ男性の客までもお姉ちゃんにはちらちらを視線を送っていた。 カップルできている客も多かったけど自分の連れである女性に悟られないようにお姉ちゃんを見ている男性客も居た。多分お姉ちゃんから声をかければあっという間に石はころがりはじめるんだろう。
お姉ちゃんは確かに美しい。
でもそれだけじゃない引力がやっぱりあるんだろうな。
……私はそれにひきずられないでいられるんだろうか?
「ねえ藍ちゃん」
ほっそりした美しいたたずまいのグラスを手にお姉ちゃんは言った。
「ここのオーナー、素敵な人でしょう?」
突然そんな話だったからまさか彼がお姉ちゃんの本命なのかと思ったら、次に言った言葉は私の予想の斜め上を行くわけのわからないものだった。
「藍ちゃん、あの人にちょっとだけ優しくしてみなさい。きっと藍ちゃんのこと気に入ってくれるから」
「え?」
「香坂翔子さんの作品を持っていた人、藍ちゃんを気に入ってくれたでしょう?あれと同じ」
「で、でもあの人お姉ちゃんのこと好きみたいだよ?」
思わず気がついていたことを口にしてしまう。そんなこと言ったらいけないかなと思ったけど。
「そうね。でも藍ちゃんのことだって、きっと好きになる」
お姉ちゃんは何もかもわかっていた。




