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ファムファタる。  作者: 蒼治
6 逆恨まれる。
27/40

3

 誰もいない音楽室。鍵がかけられた倉庫の密室。赤黒い夕日と、その光をはねる男の持つカメラ。私の肩に触れる湿った生温かい手。近い吐息。

 その断片の記憶が一気に恐怖となって黒い雲のように湧き上がってきた。

 相当嫌だったんだな、とうっすらと遠いところで思う。この断片だけでも頭おかしくなりそう。自分で削除した記憶もありそうだ。


 音楽教師は私に迫ってきた。

「お前のせいで俺があの後どれだけ苦労したか」

 それ、話を聞くまでも無く自業自得じゃないかなと思ったけど、私は息を潜めて男の次の言葉を受けた。

「急に仕事をやめさせられて。自己都合の退職を迫られたんだよ。お前の母親が裏でなにかしたんだろ、あの女が!」

 だと思うよ。

 でも男が続けた母親に対する罵倒はさすがに耳に耐えない。私は男をにらみつけた。


「それ以上言わないで」

 確かに問題のあるママだった。でも赤の他人に非難される覚えはない。

 反抗的な態度の代償は平手打ち一発だった。


「あんなクズみたいなぼろいアパートに住んでいて男を引き入れているような女のせいで俺が首になって。離婚もされてそれからまともな生活ができてないんだよ。なにもかもお前の母親のせいだ!」

 罷免じゃなくて退職扱いなあたりは甘くないか?ペド野郎に対して。ああでも大人の都合ってやつか、ひどいな。まったく大人の世界と言うのはどうかしている。ただ、それなりのダメージは与えてくれたのか。

 今はきっと住所もなくて、それでこの車に住んでいるんだろう。


「大体お前が黙っていれば何の問題も無かったんだ。裸にされそうになったくらいでがたがた言いやがって」

「死ねよペド」

 ついに思わず我慢できず言ってしまった。


 本当はびくびくしながら息を潜めているべきだったのかもしれない、というか間違いなくそうだ。でも思い出した負の記憶で今は吐きそうになっている。お前は大したことをしていないと思っても、私にとっては一生モノのトラウマだ。


「なんなの。自業自得じゃん!」

「このっ……」

 急に首を両手で絞められた。

「この間、お前を見つけたときにはやっと復讐の機会が来たと思ったんだ。お前がいつか帰ってくるかもしれないと思って、あのボロアパートの跡地を時々見ていた甲斐があった」


 そうか、佐藤君と昔のアパートに行った時に感じた視線はこいつのものだったのか。しかし、何年そんなことやっていたんだこいつ。

 すうっと目の前が暗くなり始める。


 さすがペド、と思わず感心したのは、彼はもうすっかり私に対する性的興味がないところだろう。ただ彼は私を恨んで殺したいだけだ。本気で。もし私が画廊経営者みたいに彼をたらしこむ方向で今動いたとしてもうまくはいかないだろう。私やお姉ちゃんの才能も全ての男性に発揮されるわけではなさそうだ。

 私はあまりの息苦しさに気がついたら大暴れをしていた。とはいえ拘束されているので無駄に自分を傷つけることになってしまうだけだった。


「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」

 男の呪詛が耳を打つ。

 苦しい、ヤバイ。目の前が赤くなってきた。心音が耳元で響いている。


 耳元で血流の音が聞こえてきたような気がしたときだった。唐突に呼吸が楽になった。圧し掛かっていた男と男の手の重さが急に消えた。

「なんだお前!」

 音楽教師が怒鳴っている声が聞こえた。乱暴にドアの開く音も。


 けれど急に入り込んできた空気にむせた私はしばらく動けなかった。何が起きたのかは確認しなきゃと思ったけど起き上がれない。芋虫状態でごそごそしていたら、人の気配を感じた。

 伽耶子ちゃん!

 そう思った。でも顔を上げた私の目に映ったのは見たことも無い中年の男の人だった。


「だ……れ?」

 ぽかんとしていたら、その人は私の手足の拘束を切ってくれた。その間ずっと無言だ。気がつけば車内に音楽教師の姿はない。

 車から出れば、河原の向こうのほうで騒いでいる音楽教師を見つけた。四、五人の男性に囲まれている。なんだろうと思って見つめていたら、中年男性がもう見るなといわんばかりに私の手をつかんで歩き始めた。大き目の石がごろごろしている河原は歩きにくい。


「藍ちゃん」

 河原に入る小さな道に車が何台も止まっていた。その一台……一番高価そうな車にお姉ちゃんが寄りかかっていた。

「お姉ちゃん?」

 唖然とした私はそこで動けなくなる。それなのにお姉ちゃんは妙に大仰な仕草で両手を広げながらこちらに近寄ってきた。

「藍ちゃん、無事でよかったー!」

 そして私をぎゅうと抱きしめたのだった。


「お、お姉ちゃん、これって一体どういうこと?」

 私は身を離して慌ててお姉ちゃんに尋ねた。まったく意味がわからない。

「約束の時間になっても藍ちゃんが来ないし、電話をかけても通じないし。とても嫌な予感がしたのよね。それで知り合いに手伝ってもらって藍ちゃんを探したの」

「探したって……どうやって?」

「さあ?」

 お姉ちゃんはにこりと笑った。あまり興味がなさそうだった。


「でも調べようと思えば特に特別な仕様になっていなくても携帯電話で居場所はわかるみたいね。その辺まるごとお願いしたから詳細は知らなーい」

 それは一体どんだけ携帯電話会社の機密事項……。

「なんだかとっても嫌な予感がしたから、お姉ちゃんの知り合いの腕に自信がある人についてきてってお願いしたの。ほら、最近藍ちゃん可愛くなったし。何か事件に巻き込まれていたら大変だし」

 ……お姉ちゃんは画廊経営者が私のストーカーにでもなったんじゃないかと心配していたといわんばかりだった。


「知り合いって?」

「藍ちゃんは知らなくていいのよー」

 知らなくていいって言ったって……。さっきから人が人を殴るような変な音がしていてちょっと振り返れない。

「ねえ藍ちゃん」

 お姉ちゃんは私の手を取っていった。


「あの人から、香坂翔子さんの作品を頂いたんですってね。藍ちゃんの連絡先を知らないかってお姉ちゃんのところにも一杯電話がきているの」

「あ、あの、迷惑かけていたらごめん」

「ううん、感心しちゃった」

 お姉ちゃんは笑う。それほど遠くない場所で起きている暴力には興味もないみたいだった。


「それに、嬉しかった。藍ちゃんとお姉ちゃんってやっぱり似ているのかなって」

 その言葉は……わりと私の胸をえぐった。

 ママの生き方は嫌いだった。お姉ちゃんとママはその使い方は違うけど力の質はやっぱり近い。じゃあお姉ちゃんと私が似ているとしたら?私は嫌いな部分が似てしまっているのかな。


「私は……あんなことはもうしないつもりで……」

「でもね、藍ちゃんだって今回の一件でちょっと用心したほうが良いなって思わなかった?男の人って怖いでしょう。私はママみたいに苦労したり傷つくのは嫌だわ。あんなふうにはならない」

 え、と思った。

 お姉ちゃんには、ママと似ているという自覚はないのだ。


 私はその差異について考える。私にしてみれば、男の人に依存している点で二人は似てるんだと思っていたけど。でも人の気持ちを弄んで相手を食い潰しているお姉ちゃんと、愛情を食い潰されるだけだったママは違うのか。少なくともお姉ちゃんはそう思っている。


「ママのことは嫌いじゃないわ、でもママみたいにはなりたくない」

 そこだけはお姉ちゃんと同意見だ。

「藍ちゃん、一緒に暮らしましょ。藍ちゃんも誰かに好かれる素質があるのだとしたらそれはちゃんと利用の仕方を考えたほうがいいのよ」


 ……その言葉は衝撃だった。

 お姉ちゃんは人の気持ちがわからないのだと私は考えていた。でもそれは間違いだとはっきり見えたのだ。お姉ちゃんは、わかっている。なにもかも。

 そこでようやくお姉ちゃんは河原の男性達をみた。

「そうするとね、困った時に助けてもらえるの」

「あ、あのっ」


「昔もあのくらいすればよかった」

 ……えっ?


 私は顔を上げてお姉ちゃんを凝視する。

 あの時、音楽教師を首にしたのはママじゃなかった……?


「ママじゃなくてお姉ちゃんが昔あの人を首にしたの?」

「ママができるわけないじゃない。あの人はろくでなしの男を好きになるだけで、何もできない人だったもの。だからこそ、可愛くて心配だったけど」

 お姉ちゃんは一瞬だけ厳しいまなざしになったけどすぐそれを和らげる。

 だけど私は凍り付いていた。お姉ちゃんは一体いつから自分の魅力を把握していたんだろう。その言葉がふいに激しい実感となって迫る。


 魔性の女。


「大丈夫よ藍ちゃん、もう二度と彼は藍ちゃんの目に前には現れないわ」

 あの男性達が一体どんな人達なのかわからなかったけど、その言葉は私の顔を青ざめさせた。

「まあそんなに怖がらなくてもいいわ。別に殺すわけじゃないだろうから。でもね、藍ちゃん。怖かったでしょう、もう二度とこんなこと無いほうがいいわよね」

 お姉ちゃんは私の頬を両手でそっと包んだ。


「お姉ちゃんみたいにちゃんと使えるようになりましょう。そうすればなんにも怖いことはないわ。悪いことじゃないのよ、だって単なる才能なんだもの」

 泣きたくなった。


 私自身は、画廊経営者にしたことを『悪いことじゃない』なんてとても思えなかった。だからそれを佐藤君に糾弾されたことはとても辛かったのだ。だって自分でもよくないって自覚しているんだもの。自分でも反省していることを畳み掛けられて責められるのは辛いことだ。

 だからお姉ちゃんが、大丈夫といってくれたことはとても……とても嬉しかった。甘えだってわかっているけど、嬉しかったんだ。


 走るのが速いとか、裁縫が得意とか、勉強ができるとか、そういうのと同じ単なる才能の一環だとお姉ちゃんは言う。

 だからその才能を生かした結果については私は別になにも悪くないのよ、といっているのだと気がつくまでには、私はもうちょっと時間がかかった。

 少なくとも、その時はわからなかった。

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