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その後は地味な上に地味な夏休みだった。
寮に戻って夏季補習を受けて、いやもうまったく受験生は辛いよ。
画廊経営者からのメールはガン無視。ちなみに教えているのはメアドだけである。これもうアドレス変えちゃおうかな……。
時々真弓と下界にアイスを食べに行くくらいだった。今年の夏休みはもうあと補習で終わりだなと思っている。佐藤君とは時々学校で顔を合わせるけど会話もしない。
「佐藤君となんかあったの?」
補習の休み時間、当然のように真弓は聞いてきた。
「なんで?」
「夏休み前まではあんなに仲良かったのに。最近目もあわせないから」
「別に喧嘩とかしたわけじゃないよ」
私はもう一つつけたした。
「いくらただの友達とはいえ私がいつもひっついていたら、香坂エミリに悪いじゃん」
「だってエミリは実家だよね?」
……いらんことを言ってしまったようだ。
「まあ別に気にしないで」
そこまで話したところで、次の時間の先生が入ってきたので、私達は席に着いた。机に置きっぱなしにしていた携帯電話をしまおうとして何かの着信のライトがついていることに気がついた。
また画廊経営者だったらヤダなと思いながら私が画面を開くと、それはお姉ちゃんからのメールだった。今日一緒にご飯食べようという誘いだ。
この間の借りたものの御礼もしないといけないし、と私は先生の目を盗んでこっそりと了解のメールを打った。
夕方制服から私服に着替えて私は駅に向かった。
王理高校ははっきり言ってしまえば山の中にあるので、駅まではそれなりに静かだ。静けさを破るのは、遠い鳥と虫の声くらい。その静けさに私はやっぱり悩まずにいられない。
私はやったことは後悔していない。
でもやっぱり佐藤君と仲がこじれてしまったのはちょっと残念だった。今思えば佐藤君の女装姿を見ると心が和んでいた。ある意味癒しだったのか。
「でも別に仲直りする必要はないんだよなあ……」
だって佐藤君は香坂エミリが好きなわけだし。私は別にただのクラスメートだし。
なんて考えながら木漏れ日の道を歩いた。もちろんバスも通っているんだけど、時間合わせるのが大変だし、下り坂だから歩いちゃったほうが早い。
山道を下りきったところに、防犯のための門がある。車はここでチェックを受けないとこれ以上進めない場所だ。守衛のおじさんに挨拶してから私は門を出た。そこはすぐ住宅街だ。うーん暑いな。まだもうしばらく歩かなきゃ。
住宅街の中を歩いていると、車が車道の端に止まっているのが見えた、普通の小型バンだ。それだけだったら別に気にすることも無いんだけど、私が近づいていった時、運転席が開いた。そこから中年男性が降りてくる。
「すみません」
男は私に声をかけてきた。なんとなく足を止めてみると彼は私をじっと見た。知らない人……な気がする。
「王理高校はこの道ですか?」
彼は門の先の道を指差した。
「あ、そうです」
なんだ、さ迷い人か。でも門のところに大きく書いてあるぞ。
「あと……お前は」
彼はその後に私の名を言ったのだった。三嶋じゃない苗字……私がママと住んでいたころの苗字を。
ぎょっとして彼を凝視した時、ぞわっと背筋に寒気が走った。
男は目を見開いた私ににやっと笑いかけた。思い切り手をつかむとバン後部座席のドアを開いてそこに私を放り込んだ。おいおいこんな昼日中から拉致か!ていうか私ふっつーのサラリーマンの娘ですけど!誘拐するならもっと金取れる人材(実業家御子息とか家元御息女とか)が他に!
凄い音を立ててしまったバンの扉に私は飛びついた。が、内側から空かない。あーチャイルドロック?
一瞬焦って思考が止まる。その間に男は運転席に乗り込んでいた。そして身をよじって私のほうを見る。
「おとなしくしてろ!」
冗談じゃねーよ、バカ!
私はもう一度扉のロックを外すべくドアに向かった時だった。
右の背に今まで感じた事の無い傷みを覚えた。痛みというか、熱さというか。
……座席から落ちながら振り返るとにやにやしている男と目が合った。その手にある物を見て合点が行く。スタンガン、ですか。
佐藤君の言葉を思いだしながら私はずるずるとへたりこんだ。
『今ってネットでなんでも買えるから』
改造スタンガンまで買えるって、ほんと、すごい時代だよね。
気絶とまでは行かないものの、朦朧としている間に、手足縛られたりしてしまった。しかも結構な距離を移動してしまったようだ。
しまったなー、せめてあの現場に荷物を落とせば誰かが異変に気がついてくれたかもしれないのに、手荷物一式持ってきてしまった、貧乏性……。
バンの中は古くて汚い。そしてここで生活しているような雰囲気に満ちていた。着古した男物の下着が倒れて動けない私の顔の横にあって寒気がする。ものすっごい不快。吐きそう。安っぽい香料がなおさらそれを助長している。
やっぱり私、男ってのが嫌いなんだな。佐藤君って稀有な存在なんだなあ。あんなふうに普通に会話して二人っきりでいても全然苦じゃなくて。
……うん?
それじゃ、なんだ。まるで佐藤君が特別みたいじゃないか。私にとって。
私……佐藤君を好きなのか!香坂エミリとドロドロ愛憎劇でもやる気なのか?
……やめやめ、そんなこと考えている場合じゃない。ていうか考えたくない。佐藤君にあれほど香坂エミリをお勧めしておいて一体何言ってんだ私。
ようやく車が止まったのは日が陰り始めてからのことだった。
倒れこんだ車の窓から見えるのは空しかない。でも最後、ひどく車が揺れたことと、扉を越えて入ってくる水の音からここが河原じゃないかと気がついた。あーもー、私二度と河原には近づかないようにしよう。ろくなことが無い。
「おい」
車を止めて男は私を振り返った。
「俺を忘れたんじゃねえだろうな」
……どなた様?
男はもともと体格がいいのだろうけど、不摂生な生活のためか大分肥満していた。年は四十台後半くらいだろうか。
私がぽかんとしていると男は後部座席に身を乗り出してきて私の胸倉をつかみあげた。こえー、とか思った瞬間に思い切り顔を張られた。マジか。
口の中が痛い。じわじわ広がる血の味が不快だ。
「俺の苦労も知らず、いい気なもんだ!」
苦労?苦労ってなんだ?
最初、かつてのママの恋人で伽耶子さんに最終的にパワー全開でボコボコにされたあの男かと思ったけど、顔が全然違う。でも他に心当たりが無い。
男は助手席の椅子を倒して、私の方を向きなおった。とはいえ別に話をするとかそういうスタンスじゃない。ただ。
思い切り私は車の床に頭を叩きつけられた。ただ、男は私をちゃんと殴りたかっただけだ。うわあ、頭がぐらぐらする。
最初はママの彼氏みたいに性的なものを恐れていたけど、今は違うものを私は恐れ始めていた。なんていうか……殺されるんじゃないかって。
額の端っこがすれたのかひりひりする。
「誰?」
私は思い切って聞いてみた。それが余計怒りを煽っちゃったみたいでぶちぶち髪の毛が抜ける勢いで頭をつかまれた。
「昔は、先生って呼んでくれたのになあ。ああ?」
先生?
私は彼をまじまじと見た。
……そしてひっと息を飲んだ。
うわああ、いやだいやだ。嫌な記憶の扉が開く。閉めなきゃ。早く。
彼は、小学校の頃の音楽教師だった。
私に手を出しかけて、それで多分、首になったあいつだ。




