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さて、掛井さんから待ちに待った連絡が来たのは夏休みに入る前日だった。調べておいてもらうように頼んだことについての連絡だ。
電話で教えてもらってお礼を言ってきろうとしたら掛井さんは静かな声で続けた。
『藍さん』
掛井さんというのは涼宮家に連なる人で、実はけっこう偉大な人である。ただ如何せん涼宮家の強烈な個性を持つ人々に比べると陰が薄い。っていうかまあものすごい人格者なんだと思うんだけどね。涼宮の人たちがきっとアクが強すぎるんだ。伽耶子さんが私を助けてくれた雨の日に知りあって、以後実務的なことに関してはものすごい有能さで片付けてくれた。
だから今回の私のお願い事も楽勝だったと思う。そんな人を私ごとき若輩者が使っちゃいけないよなあ。
「あ、掛井さん、今回の件は出世払いでなにとぞ」
『いえ別にお礼なんていいんですけどね』
掛井さんの口調はいつもどおりだけど、心配がにじみ出ていた。
『こんな情報、一体何にするつもりなんですか。この人とどんな関係があるんです?』
まあそりゃ聞くだろうなあ。
……。
私が掛井さんに調べてもらったのは、お姉ちゃんから聞いたあの携帯電話の番号の人だ。香坂翔子さんの遺品を今手にしている人。
まだ若い、四十段前半くらいの男性。かなり有能な人のようで、輸入食品の取り扱いをしてる会社の社長らしい。それだけじゃなく目の効く方で、本業の傍ら画廊を経営しているとのことだった。
「そんなにヤバイ人ですか?」
『いや……暴力団と繋がっているとかそういう問題はなさそうです。特に問題がある人ではありませんが、あなたとの関わりがわかりません』
「なら大丈夫です。ちょっと部活の関係です」
勉強しないといけないから、と、部活の関係です、は学生のなかでは超最強の呪文。
部活、私は入ってないけどね。
『藍さん、ちゃんと理由を教えてください』
「また今度。ありがとございましたー」
私は無礼全開でお礼だけ言うと電話を切ってしまった。昼休み、校内の端っこで電話をかけていたので、じわりと滲んだ汗を拭いながら教室に戻る。
「どうしたの、藍」
私が席に戻ると真弓が声をかけてきた。とっとと終わらせたいのだと、夏休みの宿題をフライングでやっていた机から振り返ってこちらを見ている。
「ううん、別に」
「そう?ねえ藍は夏休みはどうするの」
「あ、うん。ちょっと実家戻る。真弓は?」
「私は部活と補習あるからそれが一段落したら帰る」
「じゃあ入れ違いかなあ……」
私は用事がうまくいけば早く戻ってくる予定だけど。
「三嶋」
この間、一緒に出かけた佐藤君が久しぶりに声をかけてきた。あれからなんだかんだで夜の散歩にはでかけなかったから、まともに話すのは久しぶりだ。
「ちょっといいかな」
「あ、うん」
私はせっかく戻ってきたところなのに、また立ち上がった。佐藤君について廊下にでる。
「俺はエリックさんちに何回か顔を出そうと思う」
「そういえば、香坂エミリも戻るんだよね」
「でも彼女も部活があるから、戻るのは八月になってからみたいだよ」
「……それでも猶予は二週間あるかなしか、か。厳しいな」
「何?」
「ああ、こっちの話。私も時間があれば行こうと思うけど」
佐藤君はそこで少し眉をひそめた。
「この間も言ったけど、三嶋はお姉さんのこともあるし、もう関わらなくても良いんじゃないかと思うんだ」
「……う、うん。そうかもね。じゃあエリックさんのことは佐藤君にまかせようかな」
って言ったら佐藤君は眉の間のシワを深くした。
「……三嶋がそんな風にいうなんて何か変だ」
おやおや。
「変だなんて失礼だなー」
「素直な三嶋ってはじめて見た」
「そいつは珍しいもの見れてよかったね。でも私だって基本的には素直な良い子だよ」
笑ってごまかそうとしたら佐藤君は思いもよらず真顔になった。
「三嶋は素直じゃないけど良い子だと思う」
……ちょ、お前。
わ、私は今っ、全力を振り絞ってっ、佐藤君の女装姿を思い出そうとしているっ!!
こんなかっこいい顔でこんなかっこいいこと言われたら、ときめいちゃうじゃん。
「だから何かあったら連絡くれ」
ふう、佐藤君の素敵なキャミワンピ姿を思い出したら大分冷静さを取り戻したぞ。
「了解」
にっこり笑って私は言い切った。
終業式の日の夕方には私はもう寮を出て、実家に向かっていた。その途中でいくつか買い物をする。うーむ、無駄な出費だ。あとでエリックさんに請求したい。
実家に戻っても仕事が多忙な父親は当然帰っていなかった。帰ることを伝えてあったんだけどどうしても仕事が外せなくて今日、明日は出張らしい。まあうちのマンションはセキュリティ厳しいから私も中学校の頃には一人でお留守番とかしていた。今更だ。
そんでもってここしばらく真弓にも見つからないように、こそこそと考えて準備していたことをいよいよ実行に移す。
……大丈夫かな。
できるかな。不安だな。やり慣れないことだし。
でも多分大丈夫。私にはわかるんだ。きっと今まで起きてきた私の身の回りの嫌な出来事って言うのは、私自身のせいでもあったんだろうって思う。使い方のわからない力だったからひどい目にばっかりあった。
だからちゃんとそれを自分で操ることができれば、ちゃんとできるはず。
……お姉ちゃんははちゃんとできている。
敷居、たっけーなー!
私が実家を出て向かったのは、都心の華やかな一角だった。
高層ビルの上階にある静かなバー。時刻は夜の九時になろうとしている。
なんとか自分を鼓舞しているけど、いやあやっぱり敷居が高いなあ。山奥の山猿高校生が来るような場所じゃないぜ。
自力じゃこれないよなあ。お姉ちゃんに相談しておいてよかった。子どもっぽい服じゃ場違いだ。
『まあ、あの人に会いに行くの?』
直接話をしようと思うといった時、お姉ちゃんは反対も賛成もしなかったけどうっすら笑った。
『私も一緒にいく?』
だめだ、お姉ちゃんが一緒だと私が霞んでしまう。
はっきり言わなかったけど、お姉ちゃんの同伴は断った。それなら、とお姉ちゃんは自分の着なくなった服や靴、そしてバッグをいくつか私にくれた。きっとこれも誰かがお姉ちゃんに貢いだものなんだろうと思うと微妙な気持ちになるけど仕方ない。
化粧もしばらく練習してみたけど実際これでいいのかはよくわからん。
店はしっかりと厚みのある木の扉で遮られていた。押してみれば滑らかに開き、品のいい音楽が耳に障らない大きさで入ってきた。
ハイヒールなんて履いたことないっすよ、つれー、と思いながら私はここしばらく練習した成果で姿勢を崩す事無く歩いた。薄暗い店の中はそれなりに人が入っていて悪目立ちしないですむ。
お姉ちゃんから彼の話は聞いていた。大体の容姿とか。いつも座っている場所、とか。カウンターの一番隅に彼の姿を見つけたときには幸運なことに彼の隣の席は空いていた。席に案内しようとするウエィターを微笑みで断って私はまっすぐそこに向かう。
大丈夫。できる。だって私は彼の片思いの相手によく似ているんだからその分だけ最初から有利なはずなんだ。
スツールに座って私はカクテルを頼んだ。調べた限り最もアルコール度の少ない奴。飲む気は無いけど万が一飲んでも平気ないように。
隣席に座った私に、彼はふっと顔だけ向けた。それば別に特に意味のある行動ではなくただの好奇心だったのだろうけど、その行動で彼が硬直するのがわかった。私の顔が、彼を動揺させている。
「……碧さん?」
さあ行け、自分。
私はゆっくりを顔を向けて彼を見つめた。私よりもずっと年上。どうかどうか、発動してくれ。私の魔性。
「姉のお知り合いの方ですか?」
彼は、エリックさんが手放してしまった香坂翔子の作品の今の所持者だ。
エリックさんが三嶋碧に誑かされて手放してしまったものを、私はこの画商を誑かして手元に戻す。
そう決めたんだ。




