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佐藤君の手を引いて動物園を出た私が向かったのは、朝通り抜けた動物園の最寄り駅だった。
帰るのか?と聞いてきた佐藤君には首を横にだけ振った。そのまま電車に乗り込む。でも行き先は寮とはまったく別の方角だ。
昼下がりの住宅地を抜ける電車はゆったりすいていたが、私はつり革につかまったまま流れる景色を見ていた。
やがて見覚えのある風景の順番がやってきた。
特徴が無いのが特徴のような町。遠くに見える小学校の校舎と駅近くの小さな商店街だけが私の記憶の事象と重なった。
「降りよう」
そういって私はまた佐藤君の手を引いてホームに下りた。駅は私の記憶にある物と違う。十年もたっているから建て直したのかもしれない。
「三嶋、ここはどこ?」
駅前の道に立ち、その先を頭の中で確認している私に佐藤君が静かな声で問いかけた。でも先ほどみたいな困惑はない。佐藤君はきっとうっすらわかっているんだろう。
「……昔、住んでいた」
そして私は歩き始めた。幼い頃の記憶はたどたどしく、道筋は朧だ。でも私は思い出す。
駅前は、母親と別れて暮らすことになって迎えに来た父親と車で通った。
その先の商店街の肉屋のおばちゃんは、ときどき見かねてかコロッケをくれた。
でもその向かいの書店は同級生の両親だったけど、すごく私の母親を嫌っていた。
商店街の先には同級生の家が一杯ある。でもどこの家にも招かれていないから中の記憶は無いな。
その先の交差点を右に曲がるとあのペド野郎に襲われた河原にでる。うち左だけど。
ずっと向こうに見える小学校は音楽教師が首になった場所だ。
やれやれ、本当にろくな思い出が無いな、と思って鬱々とした気分になり始める。でもあともう少し。
この先の角を曲がれば、あの古いアパートが。
「……ない」
私はかつて母親と姉と私で暮らしていたアパートがあったはずの場所を前に立ち止まってしまった。
そこはただ駐車場だった。
「三嶋」
佐藤君の手が私の手をつかんだ。ああそうか、いつの間にか離れていたんだ。佐藤君は思いもよらない強さで私の手を握る。
「ここがもしかして昔住んでいた場所だったのか?」
「うん」
私は短く笑った。
「ここに来ればあると思っていた」
バカみたいだなあ。なんで絶対あるって思っていたんだろう。あの時点ですでに、それはそれは年季が入ったアパートだったんだから、取り壊しもするよね。
「……ここに凄い古いアパートがあったんだ」
「そうなんだ」
「伽耶子ちゃんと会った時のおおよその経緯は話したよね」
「上の階に住んでいたんだろう?それで面倒見てくれるいい人で、お父さんと暮らせるようにしてくれたっていう」
ああそうか、そんなふうにオブラートに包んで話したんだっけ。
「うちの母親と言うのが、この間はぼかしたけどちょっと問題がある人だったんだ。男運が悪いっていうか、依存体質なのにわがままだとか、身勝手なのにDV男を好いてしまうとか」
「そ、それは」
私、多分ずっと面倒も見てもらっていなかったんだ、とまではやっぱり言えなかった。佐藤君なら言ってもいいかなと思うけど、「言ってもいいかな」と思うくらいには信用できている人には、心配とか同情とかされたくないものまた事実。もしかしたら只の見得かもしれないけど。
「だからあまりいい生活じゃなかった。お父さんと暮らせて普通の生活になってよかった」
そして私はもう一度その駐車場を眺めた。
そうか、もう何も残っていないんだ。
ここで一つ、私のなかに渦を巻く嫌な感情もぱあっと消えしまえばいいのにと思ったけど、やっぱりそれは残り続けた。
この町で冷たくされた記憶と言うのは、思ったよりも私の中で恨みとなって残っているらしい。小さいな私。
母親が死んじゃったという漠然とした記憶が実感となる。それはやっぱり向き合うのがちょっと嫌で、私はそれは佐藤君への苛立ちに摩り替えた。私もひどい、とってもひどい。佐藤君はサンドバックじゃないのに。
「はっきり言うけど」
頭にきているから言う、でも佐藤君を傷つけるのはいやだな。なのに口が止まらない。
「佐藤君は本当にきちんとしているんだと思うよ。両親がいて毎日三食食べることができて。それに友達だっていただろうし、先生にだって褒められていたでしょう? 私はそうじゃなかったんだ。伽耶子ちゃんが助けてくれるまで、私の味方ってお姉ちゃんしかいなかったの」
まあいつも助けてくれるとは限らなかったけど。
「エリックさんには同情するし、佐藤君が言うことは本当に正しいと思うけど、でもお姉ちゃんにだっていろいろ事情はあるんだと思う。だから悪く言われると嫌だ」
ああ!
そうか、とここで合点がいった。
やっぱりうっすら考えていたことを実行しよう!
お姉ちゃんのことは私、嫌いじゃない。でもお姉ちゃんのしでかしたことはやっぱり嫌いだ。自業自得な人々かもしれないけど、やっぱり男の人たちの生活だって崩しちゃいけないと思うから。
それなら、お姉ちゃんのしでかしたことを私がなんとかできないかなって。そうしたらお姉ちゃんのいい面をもちょっと見ることができるんじゃないかなって。
とりあえず、エリックさんのことを。
ぼんやりと考えていたとき、佐藤君が口を挟んできた。
「……そうかあ、それなら伽耶子さんは本当に三嶋にとってヒーローなんだなあ。そりゃ好きにもなるか」
佐藤君はそんなことを言った。
「佐藤君には私の気持ちなんてわからないって今言ったばっかりだよね」
「全部はわからないけど、わかることもあると思うよ」
佐藤君と言うのは、なかなかへこたれない人だ……。
「逆に三嶋に俺の言いたいことが伝わらないときのほうがしんどい」
「佐藤君だってそうじゃん」
「でも俺は言いたいことは言おうとしている」
言わない三嶋よりましだ、と今凄い勢いで言外に匂わせたな……。肝心な時にヘタレのくせに。
「佐藤君だって秘密にしていることはあるでしょう」
「……ある」
それを認めるのはしぶしぶのようだった。
「でもいつか言う。ちゃんと言うから。俺の話なんて別にあとで良いんだ。三嶋の言うように俺の今までなんて本当に何もないのんびりしたものだったと思うから。でも俺もそういう環境の中で考えてきたことがあってこうやって三嶋と関わることもできたんだから、あまり俺がわからないだろうということでバカにしないで欲しい」
なんというか。
佐藤君と言う人は、こんな感情論に速攻落ち兼ねない口論の時でさえ誠実なのだな。
……ああ、逆に自分が嫌になる。
「帰ろう」
私はくるりと身を翻した。駐車場になんて用は無いんだ。
「まてよ」
繋いでいた手を放さないまま、佐藤君は急いで私と並んで歩き始めた。
「なあ三嶋、変な考え持つなよ」
「変な考えって?」
「なにか絶対よからぬことを考えている」
「考えてないよ」
「俺じゃなくていいから伽耶子さんには相談しろってば」
「してる」
ふんと受け流して歩いていた私はふっと歩みを止めた。
「どうした?」
「今、なんか」
……まあ気のせいか。
私は再び歩き始めた。
特に言うまでもないと思うし、自分にそんな第六感があるとも思えないから無視だけど、なんだか誰かが見ている気がした。
ああでも、見ているかもしれないな。だって昔住んでいた場所だもの。すれ違う誰かがわたしがもう覚えていない同級生で、相手は何かも思い出していて私を見ていたとしてもおかしくない。
でももうこの町に来ることは金輪際ないだろう。
ここには本当になにもないんだ。
ちょっとだけ思ったことだけど、私は無意識に今日佐藤君に頼っていたのかもしれない。一人だったら私、この町にくることはできなかった気がする。八つ当たり同然で連れてこられて佐藤君はとっても迷惑だったはずだけど。
でも佐藤君がいて私はとってもよかったと思う。
この中身へタレが、と時々思ってしまう彼だけど、頼もしいような気がした。




