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夕方、お姉ちゃんとは、学校から離れた都心の駅で待ち合わせた。別に私がそうしたわけじゃなく、お姉ちゃんからの指定だった。
そこに先に着いたのは私だったけど、お姉ちゃんもすぐに来た。彼女は電車ではなく、あまり見ないような高級車に乗っての登場だった。それも自分で運転していたわけじゃなく、助手席から降りてきた。運転席側の誰かに微笑みながら短い言葉を与えると身を翻し、そのまま振り返る事無くこちらにやってきた。
伽耶子ちゃんとはまったく違うタイプなのに、惹きつけられるという意味では同じ何かを持っているのだろうか。こちらに来るほんの数十メートルの間でも彼女は数人の男性の視線を奪っていた。
伽耶子ちゃんは光を放つ人だ。超新星のように、視界を遮ってしまうほどのまばゆさで周囲を圧倒する。お姉ちゃんは……なんだろう。
有無を言わせない力で全てを引き込む計り知れないくらい強大な重力みたいだ。
「ごめんね、お待たせ」
お姉ちゃんは、私の記憶に残る以上に綺麗な人だった。そしてそれを自覚して、力を磨いている。どこかいいところの奥様みたいな品のいい服を着ていた。
「さ、行きましょう」
「お姉ちゃん、誰に送ってきてもらったの?」
「友達よ」
お姉ちゃんはさらりと答えるとさっさと歩き始めてしまった。細い足はどんどん進んで行ってしまう。慌てて追いかけた私にお姉ちゃんは振り返って言った。
「結婚の話もしなくて悪かったわね」
「あ、ううん」
「お父さんには私、嫌われていたから。一応言ったんだけど、藍には届いていなかったのね」
お姉ちゃんがこともなげに言った言葉に私は息を飲む。
「お父さん、と、仲悪いの?」
「藍は何も知らないのね」
お姉ちゃんは無表情になっていた。
「お父さんとは意見が合わなかったのよ」
「意見って……」
私に甘すぎるくらいのあの父が、意見を衝突させることがあるなんて想像できなかった。そのことを詳細に聞きたかったけど、お姉ちゃんの横顔がそれを拒絶していた。しかたなく私は話を変える。
「お姉ちゃんの旦那さんってどういう人?」
「いい人よ。少し年は離れているけど」
お姉ちゃんはそれしか言わない。あわせてあげるとも言わなかった。それは私に対する嫌悪がまだ少し残っているためなんだろうか。
それとも言えない相手なのかな。
そして私達はかなり細い路地にある、小さなフレンチの前にたどり着いた。ただ、目立たないだけであって、中身は信じられないくらい高級な予感がした。
「お姉ちゃん、ここって」
私が引け目を感じているのに気がついたようでお姉ちゃんは私の手を握った。
「藍は気にしなくて良いのよ」
そして迷う事無く慣れた仕草でドアを開けた。
予想通り、店は門構えこそ目だたない大きさだったけど内側は洗練されていて広く、十分なスタッフがそろっている店だった。お姉ちゃんはまったく萎縮する事無く、店員の案内を受けた。年齢不相応に場慣れした印象を受ける。
奥まった静かな席に通されての食事中も、一事が万事、そういった洗練された仕草を保ち続けていた。きっと誰も私達二人を見て、昔は雨漏りするアパートに住んでいたとは思うまい。
「それで、どうして藍はエリックと知り合いなの?」
食事をしながら最初は私の学校生活について尋ねていたお姉ちゃんだったけど、グラニテが出た頃からいよいよ核心に踏み込んできた。
「たまたま学校にあの人が来ていたときに、親切にして。そしてそこから少しずつ仲良くなった人。高校の後輩のお父さんなの」
我ながらこのあたりはもともと「対エミリ」を想定していろいろ言い訳を考えていたこともあって流暢だ。それに嘘はついていない。
「そう。あの人、いい人よね」
お姉ちゃんの答えのあまりの当たり障りのなさに私は愕然とする。
「あのさ、お姉ちゃん。いい人なら、あの人から貰った香坂翔子さんの作品を返してあげたらどうかなあ」
私は思い切って切り出した。今日来た理由のほとんどはこれだったのだ。なんとかお姉ちゃんを説得したいなあって。
「『返して』って……だって、私が悪いことをしてもらったわけじゃないのよ?」
「う、うん。それは知ってる、もちろん知っている。でもエリックさんは後悔しているから」
「まあ、そうなの」
お姉ちゃんはにっこり笑った。
「確かにあれは、頂くには価値がありすぎるものだったかもしれないわね。エリックが後で後悔するのも無理は無いわ。誰でもうっかりしちゃうことはあるものね」
「え、じゃあ」
「でも、だめだわ。もうあれは別の人に差し上げてしまったの」
えっと私は息を飲む。引きつったみたいな音がした。
それはあまり想定していなかった。お姉ちゃんは香坂翔子が好きでそれをもらったと思ってきたから。お姉ちゃんなら説得できるだろうかと思ってきたけど、まったく別の場所に所有権が移ってしまっているのなら、私が介入できる問題じゃないかもしれない。
「別の人って」
「たまたま何かのパーティで知り合ったかた」
お姉ちゃんは自分の小さなバッグから携帯電話を出した。アドレス帳を繰ってその相手を探しているみたいだけど、それもお姉ちゃんの相手に対する本質的な無関心を感じさせていたたまれない。
お姉ちゃんはもてる。それはもう間違いない。
たとえご主人がいても損なわれない魅力があるのだろう。そして全てではないにしろ、多くの男の人たちを惹きつける。その人たちはお姉ちゃんの関心を引くためにいろいろなものを捧げているのではないだろうか。多分エリックさんだけじゃない。
「確か、美術商をしていて、芸術にとても造詣が深い方だったの。私なんかが持つよりずっと作品だって嬉しいんじゃないかと持って」
でも、なにもかも、お姉ちゃんの気を引くに至らない。三嶋碧というのはきっとそういう人だ。なにを捧げられても飢えた様子も無く素通りさせるけど、でも彼女は本質的なところでは……なににも充足していないんじゃないかな……。
「ああ、あったわ」
お姉ちゃんは手帳の切れ端にその人の電話番号を書いてくれた。
「悪い人じゃないの。ちゃんと話をすれば聞いてくれるかもしれない」
「ありがとう」
それを受け取って私は大事にバッグにしまった。
「ねえ、藍。藍もお姉ちゃんが何か悪いことをしたと思っている?」
ふいに迫られた核心に私はどきっとする。
「さっき送ってくれた人は好意で駅まで乗せてくれたの。あのね、実はこの店のオーナーも私を気に入ってくださって、私ここで食べてなにか請求されたことはないの。私にはどうしてかわからなかったけどずっと前からそういう人っていっぱいいたの。確かに私はある程度美人だと思うけど、私くらいな人ならいくらでもいるのにね」
お姉ちゃんは私をじっと見つめている。そこには威圧感はないし、責める響きも無い。そもそもお姉ちゃんは自分の話をしているだけだ。
でもなぜか、とても怖かった。長い長い呪詛を聞かされているような気持ちになる。
「私が『努力』もしないで何かを得ているのが気に入らないのかしら。でもくれるというものを断る理由もないわ。それに私は彼らと手もつないだことも無い人がほとんどよ。それなのに時には泥棒猫なんて言われてしまうし。妻子がいたってそれは私の知らぬことだわ。どうして私ばかりが疎まれるのかしらね」
質問は終わったけど、答えは?と言う顔でお姉ちゃんは私を見ていた。当然私は答えがない。
……エリックさんはトンマだ、とこのあいだ思った。
でもお姉ちゃんに関わる全ての男性がそうならば、エリックさんが突き抜けてトンマではないのだろう。
「誰かを悪者にして済むなら、物事は簡単ね」
それから後の言葉をお姉ちゃんは言いかけてやめた。
でも隠された言葉はなんとなく想像できる。同意できるかどうかは別として。
食事を終えて店を出ると、すでに日は全て落ち、街は夜のものとなっていた。華やかな人々が行きかう駅でお姉ちゃんと別れた。
立ち去りながらお姉ちゃんは電話をかけていたから、また誰かを呼びつけたのだろうか。
お姉ちゃんの告白を私はまだうまく解釈できない。あの人は、自責というわけでもないだろうけど、やっぱり何か他人には理解できないものを抱えているんだろう。
そして駅で電車を待ちながら、私はもらったあの連絡先が書かれた紙の切れ端を開いた。それを見て、よし、と勇気を出す。携帯電話を出すと、とある知人に電話をかけた。
電話をしてみればその相手は、すぐに出てくれた。
「お久しぶりです。電話に出てくれて助かりました」
最後にこの人とあったのはいつだったろう。助けてもらったお礼も言ったかどうか。電話の先で彼は私からの連絡に困惑していた。まあ用事なんてないものね、普通なら。
「ちょっと伽耶子ちゃんに内密で調べて欲しいことがあるんです。お礼は出世払いでお願いします」
少し押しに弱い彼に私は電話越しにぐいぐい詰め寄った。
「今からいう電話番号の人がどういう人なのか知りたいんです。番号、言いますね」
相手は、涼宮家の裏を知る、かの家のお抱え弁護士掛井さんだ。涼宮家だけじゃなくていろんな世界のいろんな裏を知っているに違いないと私は睨んでいる。
当然、涼宮とゆかりがない私の言うことを聞いてくれるような立場の人じゃない。前に助けてもらった、という縁で無理やりお願いする。
でもちょっとお人よしなのをいいことに私は強引に話をねじ込んだのだった。




