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しばらくの間私は冷たいお水を飲みながら、佐藤君とエリックさんがたわいもない世間話で場を持たせているのを聞いていた。ようやく頭がしゃっきりしてきた頃に、エリックさんが言いたかったらしい話を始めた。
「この間、週末エミリが帰ってきまして」
「え!ま、まあここなら帰ってくるにそれほど不自由ない場所ですもんね……でも遺品のことは気がついたんですか?」
「ええ……ただ、ちょっと大学に持って行っている、ということでその時は逃れました。家から持ち出したことにエミリは少し不満そうで」
「……もし奪われたことを知ったらどうなることか……」
「ですよね」
もうすぐ夏休みで、香坂エミリも学校から家に帰ってくる。ずっと家にいたら、母親の遺品について不審な点にすぐ気がつくだろう。
最初に会った時から比べれば、エリックさんはしっかりしてきて、元気も取り戻してきている。今すぐそこの木にロープぶら下げたい、ということはなさそうだけど、今度は時間の猶予がなくなっている。
「弁護士さんはなんて」
「きちんと譲渡されているので、つけいる隙がないということで。いざとなれば裁判と言う手もありますが、そのときにはエミリには確実にばれますね」
エリックさんと佐藤君はそろってため息をついた。
……。
エリックさんはさ、正直、ちょっとトンマだなと思わなくも無い。
お姉ちゃんは確かに魔性の女なのかもしれない。思い返してみれば、あの高校生の頃だって、貢がれ方がハンパなかった。あの頃彼女は現金と言うものに現実感を覚えていなかったからか、大体がプレゼントだったけど、その気になれば現金だって貢がれていたはずだ。今もその力はあるのだろう。
でもエリックさんがしっかりしていれば、こんなことにはなからなかった。
いくら彼女が常軌を逸して魅力的であろうとも、娘が大事なら彼はしっかりしていなきゃいけなかったんだ。
「……香坂エミリさんはいつ帰ってくるんですか?」
私はそんな内心は隠して、エリックさんに尋ねた。
「夏休みの最初はちょっと補習があるので、それが終わってからと言っていました。多分八月の頭でしょう」
とすると、あと半月ほどか……。
「私、姉に聞いてみます」
それは言わずに入られない一言だった。
「それは」
「だめだと思う、三嶋」
エリックさんがあからさまに期待するまなざしで私を見る横で、佐藤君が強く否定した。
「だめって?」
「三嶋はお姉さんと一対一で話すべきじゃないと思うんだ」
「どうして?……ねえ、姉は確かに私に何も相談も無く出て行って、それから音沙汰無かったけど、けして姉妹仲は悪くなかったんだよ」
「でも良くない」
いつも冷静な佐藤君にしては珍しく、感情論だけに満たされた発言だ。
「なんだか嫌な予感がする」
エリックさんは大人の面子で私に強くは頼めない。私が引き受けようとしていても、横で佐藤君が怖い顔をしている。
「……でも、そうですね」
少し場が悪くなりかけたとき、エリックさんは弱々しく微笑んだ。
「高校生に頼むようなことじゃなかったです。ごめんね」
エリックさんというのはどこまでも温和だ。大学の教授なんてやっている割には、いつだって腰が低い。そもそもいまどき、ごめんね、なんて素直に謝れる人間がどれくらいいるんだろう。
エリックさんはトンマだ。でも嫌いじゃない。
「絶対、お姉さんには、連絡するな、マジ命令」
「なんなの、いきなり俺様で。佐藤君って見た目に寄らず、束縛君なのねー」
「茶化すなよ」
帰りの電車で佐藤君はずっと念仏みたいに同じことを繰り返していた。
「いいから、お姉さんには会うな。もうエリックさんとも関わらないほうが良いかもしれない」
なんてね。
オマエナニサマダ。
「いや、エリックさんとは関わるよ。だってあの人いい人だし」
今日も近くのビストロでお昼ご飯をご馳走してくれた。
「メシに釣られてんなよ……。いや、俺だってエリックさんはいい人だと思うよ。さすがに香坂エミリのお父さんだって思うよ。でも、あの碧さんはなんだかやばすぎる。関わると良くない」
「お姉ちゃんのことはともかく、香坂エミリを語るとか、いつのまにそんなに仲良くなったの?」
「それはこの間、三嶋に香坂エミリが牛乳かけられてからだよ。あれきっと大久保が主犯だろ。あいつ、やることが大雑把なんじゃないのか?」
「真弓は真顔で悪乗りする点があることは否めない。ねえ、でもさ、香坂エミリと最近一緒にいるけど、何を話しているの?」
「別に大したことじゃないよ」
「そう?」
……佐藤君も、自分のことは話さないってずるいように思うけどねえ。
最近佐藤君が香坂エミリと一緒に居る姿をよく見かける。一時は私と一緒にいて噂になりかけたが、周囲はそんなことすっかり忘れているようだ。もっぱら佐藤君と香坂エミリの話で持ちきりなのだ。まあ「三嶋さんは佐藤君にふられたのね」なんてつまらない噂を立てられるよりは全然いいけど。
「でも香坂はいい子だと思うよ。ほら、すごく可愛いだろう?だからどうやったら自分の内面を見てもらえるのかなとか悩んでいて」
……それ佐藤君をおとすための策略なんじゃないかな、と思う私は穿っているだろうか……?
でもなあ、エリックさんの娘さんだから、本当に素直なのかもしれない。その気持ちで佐藤君にコナかけて……って結論同じじゃないか、私。
なんか私、佐藤君を好きなのかな、とか思いそうなくらいだ。香坂エミリに嫉妬でもしているのだろうか。よくわからないけど。
私は佐藤君をまじまじと見つめた。
最初が、女装姿だったから「あ、凝視したら失礼かも」と思ったのが響いていて、今まで彼を真面目に見たことがあまりなかった。
今日は私服のジーンズにパきっとしたエメラルドグリーンのポロシャツ。ちょっと人を選ぶ色だけど、がっしりしていてきりっとした佐藤君の固い印象をちょうどよく崩していて素敵だ。
顔立ちのよさも凡百クラスメイトの中では突き抜けている。
だよねえ、やっぱり冷静に見るとかっこいいのだ。横の私のみすぼらしさが程よく引き立つ。まあもうちょっと私も身なりに気を使えという話かもしれないが、それも気が進まない。
佐藤君は素敵だ。でも好きかはわからない。
「なんで俺を見る?」
急に佐藤君が上ずった声で言った。
「見たかったから」
「……ふうん。それならいいけど」
「でももういい」
「そうなんだ」
なんでがっかりしているんだ佐藤君よ。そうか、見られたかったのか。それなら今度の夜の会合では思う存分見つめてやろう。だからなにがあってもビキニはやめて欲しい。いやもうこれ本気で。
「とにかくさ」
佐藤君は電車の窓の流れる風景に目をやった。
「お姉さんに会うのはやめたほうがいい。もしどうしてもっていうなら、俺も行く」
余りにも心配性すぎてちょっと呆れる。
確かに、佐藤君に説明してないところで私も不安材料はある。だって、私はお母さんを捨ててしまったことでお姉ちゃんには借りがあるわけだし。もしそのあたりを怒っているのなら会うのは怖い。
怖くても、姉妹なんだから会わないわけには行かないだろう。
なんか本当は、嫌われていたらよかったのにな、とか思うこともある。でもあの頃だってお姉ちゃんは優しかったんだ。貢物は惜しげもなく私にわけてくれたし、伽耶子ちゃんに会うまでご飯の面倒を見てくれていたのは(気分屋だったけど)お姉ちゃんだ。
最後もお姉ちゃんは怒っていたというより悲しかったみたいだった。
魔性の女、ということで、エリックさんにはひどいことをした。でもそれにもなにか理由がるのかもしれない。それはやっぱり気になる。
ひさしぶり、元気だった?お父さんはしっかりしている人だから藍ちゃんのこと心配していなかったけど、でも気になっていたの。今度一緒にご飯食べよう?なんかエリックさんのことで誤解もありそうだし。話がややこしくなるから、二人で食べよ? 平日でも平気?
だから、その晩、お姉ちゃんからこんなメールが来て、私が拒絶する理由なんて一つも無かったのだ。




