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「……お姉ちゃん」
私のかすれた一言。それでぱあっと彼女の顔は明るくなった。
「藍ちゃん!」
宝飾品みたいに繊細で美しい靴が、彼女の今の裕福さを示していた。私にあっという間に近づいて躊躇い無く抱きしめた。
会うのは数年ぶりだ。以前も美しい女の人だったが、今はさらに垢抜けている。でもさすがに姉の面影は忘れない。
「会いたかったー!」
「三嶋さん?」
唖然としたエリックさんの声が姉の声に重なった。私は彼女の控えめな香水から逃げようとして身をよじった。
姉の好意的な態度に私はぎょっとする。そんなはずが無い、最後に交わした言葉は敵意に満ちたものだったはずなのだ。あんなものが時を経たとしても帳消しになるはずが無い。
「お姉ちゃんは」
私が佐藤君とエリックさんに説明しようとする前に、エリックさんがものすごい勢いで尋ねてきた。
「三嶋さん、佐藤君。彼女がお話していたあの人です。でも三嶋さんは面識が?」
「三嶋藍は私の妹です」
姉は振り返ってエリックさんにきつい視線を向けた。
「どうして妹があなたと知り合いなんですか?」
「そ、それは」
私は逃げたいという気持ちこそあれど、そのまま身動きできずに固まっているばかりだし、エリックさんはしどろもどろだ。姉だけが、背筋を伸ばし、堂々としていた。
エリックさんは三嶋と言う名前に心当たりはなかった。だから今、いきなり突きつけられた現実に呆然としている。……お姉ちゃんは結婚して苗字が変わったのか。
「三嶋!」
急に佐藤君が私の手をつかんだ。そのまま私を引っ張って姉から引き剥がすとエリックさんのところに向かう。
「藍ちゃん?」
姉は私をその場に留めようとしたけど、すり抜けた佐藤君によって阻まれる。
「エリックさん、うちに入れてください。遊びに来ました!」
佐藤君はけして大きな声ではなかったけど、しっかりとした声で言った。こんな状況で予定を遂行しようとする佐藤君に私は混乱させられる。佐藤君は彼女のことが気にならないんだろうか。
「え、だ、って」
「いいですから」
エリックさんが困った顔になって私をみる。姉の声が聞こえて私は思わず振り返ろうとした。でもそれを妨げて、佐藤君が門の向こうに私を押し込んだ。
「先に行きます!」
佐藤君は姉のことを無視して、私の手を引くと、そのままエリックさんのうちの庭を歩き始めた。
「佐藤君」
「三嶋は今あの人に会ったらダメだと思う」
佐藤君は自分のことになると、からきし優柔不断なのに、今はそんなものかけらも見せない力強い足取りだった。家の玄関の前で、エリックさんが戻ってくるのを待つ。
「なんで?」
「あの人はすごく強い人だから。三嶋は引きずられる」
「なにそのスピリチュアルな意見」
「茶化すな」
佐藤君はようやく手を放してくれたけどその手はじっとり湿っていた。佐藤君も緊張していたことがわかる。
エリックさんが顔にまだ疑問を残しながらこちらに戻ってくるのが見えた。
「姉とはもう何年も会ってないんです」
エリックさんが出してくれたお茶を前に、私は語り始めた。
わたしが佐藤君に引きずられるようにして逃げ出した後、姉はおとなしく帰ったらしい。エリックさんは疑問を……というか私に対する不信感を少しだけ抱いたようだったけど、家にいれてくれた。でもこの状況では昔の話をしないわけにはいかないようで、それは私の気持ちを重苦しくした。
「お母さんの元からお父さんのところにいった時はお姉さんもいっしょだったのだろ?」
「うん。でも姉は出て行ったから」
「どうして?」
「姉は母親を心配していた」
この一言がものすごく私にとっては言うことに勇気がいる言葉だった。
結局これは裏を返せば、私が母を切り捨てたということにしかならないからだ。
「一年くらい一緒に父親と暮らしていたんですけど、姉は高校卒業と一緒にうちを出て行ったんです。最初は母親といたみたいですけど」
「お母さんは?」
イヤな話ばっかりだ。
母親がどんな死に方だったのかを、私は、詳しく聞いていない。聞く勇気も無い。
あのろくでもない男は、伽耶子さんにボコられてからすぐに姿を消したそうだ。多分いろいろ面倒くさいと思って逃げたんだろう。
それからあまり良い暮らしはしていなかったみたいだけど最終的にお酒を大量に飲むようになって肝臓を悪くして死んだらしい。
多分姉は、その状況を聞いていた。だから父親のもとを自分が出て行くときに私も誘った。そして私は断って。
『私はお母さんの味方だけど、藍ちゃんは違うんだね。それって裏切り者だよ』
小学生にどうしろと。姉のそれは暴言だ。
でも言われても仕方ない。
どうしようもない人だったけど、やっぱり母親というものは大事にしなきゃいけないものだったのだ。でも私はあまりあの人の生き方が好きじゃない、そんな理由で逃げてしまった。どうしようもないのは私だ。
誰も私と姉の間のその相談は知らない。
でも知られてはいけない。そしたら私が母親を捨てたって知られてしまう。それはすごくよくないことだ。そんなずるいことを知られてはいけない。
「三嶋?」
「三嶋さん?」
二人の声が変わった。
「顔、真っ白だけど」
言われて、目の前が暗くなっていることに気がついた。指先が冷たい。うわあ、貧血だ。っていうか、後ろめたさのあまり、貧血起こすって。
「大丈夫です」
「いいからちょっと横になりなさい」
エリックさんまで私の座っているソファにクッションを集めてくれる。佐藤君に馬鹿力で押し付けられるみたいにしてソファに横にされた。視界の角度が変わると急激にめまいがする。
「すみません」
「いや……僕もすみません」
エリックさんは私を見下ろして申し訳なさそうだった。
「君があの人の妹さんだと知って、君達までなにかの罠かと思ってしまいました」
大人げなかったとエリックさんは小さい声で謝る。
「ごめん。大体君がなにか企んでいるとしたら、あんなふうに夜中に森の中で女装した男子生徒と一緒にいる藁人形をもった女、そして僕自身は自殺志願中、なんていう不自然な状況では出会わないはずですよね」
「それ狙ってやったならかなり上級者向けですよね……」
佐藤君もあの時の我が身を振り返って呟く。
「ごめんね三嶋さん」
エリックさんは素直だった。
「エリックさん。あの人は今日は何をしに?」
「別にどうと言う用事でもなかったんです」
エリックさんは姉の話題になったとたん、疲れたように声を落とした。
「借りていた美術書を返しに来たんです」
「……どんな顔して」
「普通です。本当に普通。僕になにをしたかなんて忘れてしまったように、明るくて優しい態度で現れたんです。あの人は本当に、悪気がない人だ」
エリックさんの言葉に、私は頷きそうになった。
母も、悪気がない人だった。
姉もそうなんだろうか?
エリックさんが冷たい水をもってきますね、と席を立った。佐藤君が横のソファで静かにしている。
時計の音がすると気がついたとき佐藤君は言った。
「三嶋は嘘つきだ。すごく嘘つきだろう」
「え?」
糾弾かと思って目を開ける。
「別にいいんだ。俺は、三嶋が黙っていることがあるのなら、それは俺の信頼の問題なんだと思う。言いたい時には言ってくれると思っているし。でも、なにかあるのなら、涼宮さんには言うべきだ。あの人には、三嶋は正直であったほうがいい」
「なにを言っているの?」
「なあ、自分の力になってくれる人を間違えるなよ?」
佐藤君はさっきの強引さが嘘みたいな静かな控えめな声で言う。私は実際佐藤君のことをよく知らないのかもしれない。佐藤君は何を考えて私と友達なんだろう。
……佐藤君の言うことはもちろんもっともだけど、でも信頼しているからこそ、言えないこともあるってことはわからないのかな、とちょっと悲しく思った。




