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ファムファタる。  作者: 蒼治
3 昔語る。
14/40

4

  アパートに戻ったら、そこでは壮年男性がママと一緒になって立っていた。

 見覚えがあるような無いような彼は、私の父親である人だった。

 ママはヒステリックに叫んでいるし、父親はぼこられた男のことを見つけるなり罵倒しはじめた。伽耶子ちゃんだって、ママを見るなり不愉快そうな顔を隠さない。そして私はべそかいていただけた。


 場所を室内に移して少し落ち着くまでに時間がかかった。掛井さんがとりあえずママの恋人をどこかに連れて行った。病院かもしれないし、別のどこかかもしれない。


 とにかく落ち着いたところでわかったことはこんなことだった。

 伽耶子ちゃんは、涼宮での数少ない自分の味方の掛井氏に、私の父親の居場所を探してもらっていたらしい。己の子どもが「劣悪」(と伽耶子ちゃんは言った)な環境にいることを父親が理解しているのかだけ確認したかったようだ。


 父親は、二人分の結構まとまった額の養育費をちゃんと払っていて、子どもがこんなことになっているとはまったくしらなかったらしい。離婚のとき、ほぼ無理やりママが私達を連れて出て行ったようなのだ。

 ママは養育費の使途についていろいろごまかしていたが、それは後日、私のいない場所でもっとシビアな話し合いが持たれたらしい。多分恋人達の遊興費にでもなっていたのだろう。


 父親は、私と姉を連れて行くと、言った。

「冗談じゃないわ」

 ママはパパを睨みつける。そのまま二人は長く激しい言い争いをしていた。

 どうしてママが娘達にあれほど固執していたのかそれは今でもわからない。伽耶子ちゃんもわからないようだった。私達にも子どもができればわかるのだろうか。


「もう藍に聞いてみたらどうかしら」

 伽耶子ちゃんはわからないなりに理解しようとしたのか、しばらくは黙って聞いていたけどやがて口を挟んだ。一瞬で両親は口を閉ざす。二人ともなにかに怯えたように黙った。

「藍だって、小学生。自分がどうしたいかくらいはわかるでしょう」

 私はふいに会話に巻き込まれて困惑した。伽耶子ちゃんを見上げるけど、彼女は私に答えを求める視線を落とさない。まるでなくても仕方ないというかのように。多分算数の宿題とは違うのだ。


「私は」


 でもすぐに返事なんてできない話だった。伽耶子ちゃんが、私のママを嫌っていることはうっすら気が付いていた。でもわたしは、それほどママを嫌いではなかったのだ。たとえ私を一番愛してくれない人でも、私はきっと愛していた。

 子どもというのはそういうことを無意識に行うからその人の子どもなのかもしれない。


 私が黙っていると、パパが静かに言った。

「別に慌てなくてもいいんだよ。お姉ちゃんとも相談して決めればいい。でも今日はパパのうちにおいで」

「イヤよ!」

 ママは怒鳴り、そして口論がまた始まる。伽耶子ちゃんは少しいらだったように言った。


「もういい時間ですし、今日のところは藍は私のうちに」

 そういった時、今まででもっとも激しい何かを秘めた声がした。

「あなた、さぞ気分が良いでしょうね」

 私が他人への呪詛というものを効くことになったには、多分このときが初めてだ。ママはあの美貌をゆがめて伽耶子ちゃんを見ていた。


「こんなアパートにいたって、そんなの所詮道楽なんでしょう。あなたものすごいお金持ちのお嬢さんなんですってね!そんななにもかもを持っているような人間が気まぐれに人を助けて!しょせん、下々のことなんてわかりもしないのに」

 ママの目が妙に生々しい光を帯びていたことを覚えている。

「なんて思い上がりなの!」

 伽耶子ちゃんはママを見た。そして、ふいとうつむく。伽耶子ちゃんはかすれた声で言った。


「……そうね、きっとそうなんでしょう。多分、私にはあなたの気持ちもわかってあげることができない……確かに私は恵まれすぎている。不遜と言われても仕方がないわ」

 静かな声だった。ママが伽耶子ちゃんを傷つけたことに私はどうしようもなく混乱する。そんなこと伽耶子ちゃんが言われたってどうしようもないことなのだ。

 ママがどうしようもない人だったのと同じように。

 それは私もわかっていて、伽耶子ちゃんを見つめる。

 が。


「なーんて、私が言うとでも?」


 伽耶子ちゃんは、響くような鮮明さでそう言った。その口紅も取れた顔でにやりと微笑む。

「馬鹿じゃないの?あなたの気持ちなんて興味ないわよ。正直言って、藍の気持ちだってどうでもいい。ただ私は、私がそうしたいから藍をお風呂に入れて勉強を見てご飯を一緒に食べただけよ。イヤになったらやめるし、責任なんて持たないわ。そう、ものすごく無責任なの。自分のやりたいことだけやるの。でもわたしがやりたくてやったことは、すくなくともあなたが『親の責任』としてやったことよりも気が利いていると思うわ。大体ね」


 伽耶子ちゃんが黙ったのは純粋に息継ぎのためだけだ。

「この私に、他人のことを知れなんて、それこそ思い上がりも甚だしい忠告よ」

 そういう自分をわかっているから、家業の政治に手を出さないのよ私は、と伽耶子ちゃんは言った。


 まあ、当時は伽耶子ちゃんの言う言葉の意味はわからなかったけど、今ならわかる。

 伽耶子ちゃんはとんでもない御主人様なのだということは。

 彼女は女王様なんかじゃないのだ。女王様は責任持たねばならぬ臣下と民衆がいるから。この人は、ほんと……ご主人様なのだ。さすがにパパもママも一瞬唖然とした。そしてママは手を出した。飛びかかって伽耶子ちゃんの髪をつかむ。伽耶子ちゃんならたやすく避けられたはずなのに、なぜかそうしなかった。でも私はママの行為を遮った。


「伽耶子ちゃんをぶたないで!」

 そしてママを突き飛ばしたのだ。

 小さなの女の子の小さな暴力。

 でもそれは、人の心を壊したんだろうか。


 しりもちをついて、低い場所からママは私を見つめた。彼女の視線にはきっと多くの感情が渦巻いていただろうに、それは何一つ覚えていない。見ていなかった。その風景はぼんやりとした塩水のガラス窓の向こうだ。私はなぜか泣いていた。悲しい、とかじゃなかったと思う。きっとただ怖かったのだ。


 本能的に自分が裏切ったなにかの大きさに怯えていた。

 でも私は楔に最後の一撃を与える。

「ママと一緒にいるのはイヤだ」



 その後は、事態はただ粛々と進んだようだった。

 掛井さんあたりだろうと思うのだけど(多分伽耶子ちゃんではない)、両親と話のわかる第三者、時には弁護士を挟んで親権についての話し合いは進んだらしい。その間、私はずっと伽耶子ちゃんと一緒に居た。学校も休んだけど、勉強していないと伽耶子ちゃんが静かに怒るので彼女が大学にいる間は私も教科書を進めていた。


 伽耶子ちゃんの新しく住む予定のマンションはとても綺麗で広かった。そうだ、これでいいんだと納得する。伽耶子ちゃんがあのアパートに居た様子は、途方も無い値段の血統書付き猫が不釣合いな貧相な場所にいるみたいで、ちょっと妙だった。

 伽耶子ちゃんの引越しはとてもあっさりすんだ。

 そして、半月ほどしてパパが迎えに来た。


 結局私は、小学校も転校することになったけど、どうせ友達もいない学校だったので、まったく寂しくなかった。

 少しばかりの心細さを抱えながら、パパの家から新しい小学校に通ったけど、そこでは特に問題も起こらず、受け入れられた。普通に友人もできたのだ。誰も私がお風呂にも入っていなかったみすぼらしい子どもだなんて知らなかったこともある。

 最初の日には、伽耶子ちゃんから頂いたあの刺繍のブラウスを着て行ったことを覚えている。というかその事しか覚えていない。あまりに激動だったからだろう。


 私の本当の姉についてだが。

 パパはもちろん姉にも声をかけていて、彼女も最初は家に居た。ただ、あまり楽しそうではなく、数ヶ月して、私との短い会話を最後にパパに家を出て行った。

 一方、伽耶子ちゃんの妹、と言う人にもあった。妹というから勝手に自分くらいの年齢を想像していたけど、伽耶子ちゃんの妹は、もう中学生で全然私よりお姉さんで、優しくしてくれた。伽耶子ちゃんよりよっぽど静かでわかりやすい優しさを持つ人だ。


 ただまあ、ここまで話せばわかると思うけど、私にとって一番は伽耶子ちゃんなのだ。


 年を重ねれば重ねるほど、あの時伽耶子ちゃんのしてくれたことを理解することが難しくなる。

 実家を勘当されていて、明日のお昼代も無くて(美大は金がかかる)、自分だって二日に一回しか銭湯いけない状況で、みずしらずの汚い子どもに肉まん買って上げられるだろうか。私はきっと無理だ。仮に、その場限りの優しさで良いと許されても無理だ。


 伽耶子ちゃんの行動は良心的な人が責めようと思えばいくらでも責められるむちゃくちゃなものだ。発言についてはもはや何をかいわんやである。


 それでも私には彼女が必要だ。いずれ、彼女にも私を必要としてもらえるような人間になりたいと思っていたのに…………ちっ、あのキリンめ……。


 そもそも伽耶子ちゃんは、ずっととある男の人が好きだったらしいのだ。二十年に及ぶ片思い。その詳細は伽耶子ちゃんは「藍にはまだ早いわ」と教えてくれなかったけど、その片思いがある限り、伽耶子ちゃんは誰のものにもならないはずだったのに。


 私は高校受験にかまけている間に、伽耶子ちゃんはその恋に終止符をうってしまったのだ。そしてあのキリンが……!キリンめ……!キリンのくせに!

 まあ、そんなわけで、私が伽耶子ちゃんの婚約者を嫌っている理由もお分かりいただけただろう。独占欲に乾杯である。謝らないよ、私は。

 大体、あれ政略結婚じゃん!




「三嶋、俺が思うにそれは……よく言って、逆恨み……」

 佐藤君は長い話の終わりにそう評した。


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