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ファムファタる。  作者: 蒼治
3 昔語る。
13/40

3

 子どもだった私は、伽耶子ちゃんへの謝り方がわからなかった。

 あんなに良くしてもらったのに、自分の発したたった一言の暴言で、彼女に近寄ることができなくなっていた。多分その態度で(私はこんなに反省しているの、だから許してくれるよね)なんてわかってもらおうとしていたのだ。あさはか。


 学校から帰ってきて家が開いていればそこに閉じこもって、家が開いていなければ、町のどこかでふらふらして時間をつぶしていた。

 ただ、伽耶子ちゃんももしかしたらその頃にはアパートには戻っていなかったのかもしれない。数日前に干されたTシャツが、ずっと窓の外にだしっぱなしになっていたからだ。


 その辺りの伽耶子ちゃんの事情を知るのはずっと後だし、全てを把握したわけではない。政治屋一族涼宮の内情というのは、どうも一般庶民は立ち入らないほうが幸せにいられるような気がするので、つっこんで聞いてない。まあ、私がいつか大人になったときには、伽耶子ちゃんはにやにや笑いながらなにか教えてくれるのかもしれないが。


 ともかく、その頃伽耶子ちゃんも自分が大変だったようだ。伽耶子ちゃんの困窮振りを見かねた身内の一人が、彼女を手助けしようとしていたらしい。その身内がどうやったのか、伽耶子ちゃんの実家と話をつけてくれて、一ヵ月後くらいには伽耶子ちゃんはあのアパートを出て行く。

 そんなことは知らない私だった。



 今日もいないんだな、と伽耶子ちゃんの部屋の窓を見てから私は回りこんでアパートの階段の下に入った。

 雨が雪に変わりそうな、寒々とした空の下、私は傘を畳んで自分のうちの玄関のノブに触れた。鍵は開いていてノブはするりとまわった。お姉ちゃんはあまり家に寄り付かないがママは最近家にいることが多かったので、普通に玄関に入って濡れた靴を脱ごうとした。


「よう」

 ふいに声をかけられて私は息を飲んだ。中途半端な姿勢で顔を上げてみると、二間しかないうちの居間には、男がだらしなく寝転がってテレビを見ていた。

 それが最近のママの恋人だということを思い出す。

「ママは?」

「出かけてる」

 自分のうちであるかのような男の態度には少しばかり腹が立った。そのまま靴を履きなおして外に行こうかと考える。逡巡の時間は短かったはずだが、気が付いたら男は私の目の前まで寄ってきていた。


「あいつ、戻ってくるの遅いぞ。俺とメシ食いに行くか」

「……別にいいよ」

「まあそう言うなって」

 男はくたびれたサンダルに足を突っ込んだ。私の肩をつかんでランドセルを外すと、玄関に放り出す。

「なにか食いたいものあるのか?」

 そう言って有無を言わせない強い力で彼は私を連れて外にでた。彼はポケットから鍵を出して鍵を閉める。


 ママは私には預けない鍵を彼には与えるのだと気が付いた。彼女の人生の優先順位というものをぼんやりと感じとる。

 男はアパートの前に止めてあった車の助手席に私を放り込んだ。どんな車か覚えていないが、染み付いたタバコの臭いと安っぽい香料の濃さに息ができなかったことは覚えている。


 フロントガラスを叩く雨はいよいよ激しくなってきていた。そして彼は車を出す。黙っている私にかまわず彼はまるで目的地が決まっているように雨の中走り出した。男は上機嫌で私に話しかけきたが、私はあまり返事もせずに窓の外を見ていた。曇りガラスで見えなかったのかもしれないが、駐車場を出るところで自転車に乗った人に思い切り水溜りの汚泥をはねかけたその気遣いの無さで、すでに嫌いになろうとしていた。


 道は天候もあって渋滞していた。それでも彼はファミレスやファーストフードの店が立ち並ぶショッピングモールに向かうこともなく、別のどこかに車を走らせた。

 家に帰って誰もいなかったらママは心配するんじゃないかなあ、大丈夫だよ携帯電話があるから。男と話した会話で覚えているのはそれくらいだ。


 今になって思えば、母は本当に、どうしようもない人だったのだ。

 飽きっぽくて惚れっぽくて、少し頭が悪いと思えるほどに恋人に甘く、そしてとても美しい。もっとずるければ、うまく立ち回れただろうに。もっと自己を律していれば、まともな人生だったろうに。もっと凡庸な顔立ちだったら、悪意に目を留められることもなかったかもしれない。


 それは、結局今になって思うことだ。

 そして「じゃあどうしたらよかったのか」ということについては、いまだに何も思いつかない。


 男の運転する車は、やがて止まった。気が付いてみれば、そこか近くの河川敷だった。雨で水量が増えていて、夏の名残のまま背の高い雑草の向こうから、激しい水の音がしていた。どうしてこんなところに、と私は男を見た。その体が思わぬほど近いことに気が付いてとっさに身を引く。


 当時の私には予想もできない彼の行動に、私は一瞬でパニックに陥った。彼の手が私をシートに押し付ける。

 多分私は叫んだり怒鳴ったり暴れたりしたと思う。でも男は無言だった。まあペドフィリアに何か言われても不毛だけど。

 ただ、男の荒い息使いは滑稽なほどだった。


 理解はできなくても嫌悪は湧く。男から逃げようとドアを開けようとしたけど、彼の体が重く圧し掛かってきて身動きができない。

 ……わかんないな。暴れたりもできなかったかもしれない。八つの私がそれほど気丈だと思えないし。硬直していただけかも。もうあまりよく覚えていないのだ。その辺は。

 記憶の再開は、すぐ後に起きた雨の音を裂くようにして響いたガラスの破壊音から。

 男は私の服の中にもぐりこませようとしていた手を引く。


「なんだ!?」

 男が怒鳴って私の上から飛びのいた。二人でそろってそちらを見ると運転席側のガラスが外側から粉砕されていた。そこからほっそりした手が伸びてきて、車のロックを外す。そしてドアを開けると、雨の音はいっそう強くなった。

「降りなさい」

 言葉より先には手が伸びていて、男を引きずり出していた。びっしょり濡れた草の上に男は倒れこむ。

 私も転がるように助手席から降りた、車の前の方に回って、運転席側をみる。


 そこに伽耶子ちゃんが立っていた。


 綺麗な髪が雨に濡れて頬に張り付いていた。髪だけじゃなく服までじっとりと濡れていて、寒いからなのか、伽耶子ちゃんは蒼白だった。ただ、塗られた口紅だけが赤い。足元に無造作に横たわっているのは自転車だ。もしかしたらアパートを出る時にすれ違った自転車は伽耶子ちゃんだったのだろうか。

 ……びしょぬれになるまで、私を追って、探していたのだとしたら。

 そしてその手には、金槌が。


 ……え、金槌?


 なんでそんなの持っているのだと思ったけど、伽耶子ちゃんのバッグに入っている彫金の工具の一つだったらしい。

「なんだ、お前」

 濡れ鼠で、それはどこかみすぼらしさを抱えるべきものだろうに、伽耶子ちゃんはこんなときでも綺麗だった。凄絶といってもいいくらいな。


 私のママの美しさが他に消費されるものならば、伽耶子ちゃんのそれはどんなときでも他を圧倒するような激しさを持っている。


「その子に何をしようとしたの」

 男もおそらく伽耶子ちゃんに気おされていた。二十歳かそこらの娘に。彼は口の中で何か言葉をつむごうとしたけど、それは諦めたように、口をつぐんだ。そしてうつむく。

 だけど次の瞬間男が露わにしたのは暴力だった。伽耶子ちゃんに飛びかかって殴ろうとしたのだ。

 私は悲鳴を上げる準備として息を吸う、でもそのまま止めた。


 男の暴力など、子供だましのように、ひらりと避けると、伽耶子ちゃんはその靴で思い切り男の腹を蹴り上げた。

 逝って良し、と思っているんじゃないかと思うくらいの勢いだった。雨の中、呆然と自分を見ていることに気が付いたのか、伽耶子ちゃんは私に言った。

「藍は風邪ひくから、車の中にいなさい。あとここから先は『お子様がご覧になるときは保護者の十分な配慮が必要です』ってところね」

 今思えばなかなかのコンプラに基づくレーティング。



 男はやっぱり男だったけど、伽耶子ちゃんは強かった。家出の原因となった大喧嘩したという当主様も武道の達人だったそうで、それと殴りあいの喧嘩をしたというのだから、伽耶子ちゃんの力も押して知るべしあった。


「あら遅かったわね」

 反論も弁明も一切許さず、男をぼこった伽耶子ちゃんを止めたのは、彼女の知り合いらしい青年だった。いきなり土手の上に車が止まったかと思うと、そこから飛び出して、転がるように駆け下りてきたのだ。涼宮の秘書をやっているその実直そうな青年は、伽耶子ちゃんより年上だったけど後始末に来たらしい。そういう人を呼んでおく辺りの妙な準備のよさが伽耶子ちゃんの怖いところだ。


 青年は、草むらに倒れて荒い息をついている男と、涼しい顔の伽耶子ちゃん、そして……まあいろんな意味でちょっと怯え加減の私を見てため息をついた。

「掛井といいます。君が、藍ちゃんだね」

 そして私の前に来て穏やかに言う。間違いなく彼が今、この中では一番まっとうな人だろう……。


 そして掛井さんの登場で、伽耶子さんの暗躍が明るみになる。

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