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ファムファタる。  作者: 蒼治
3 昔語る。
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2

 最初、伽耶子ちゃんは、私にドリルをやらせて、ちょっと遠い目をした。あまりにも私が算数を理解していなかったからだ。

 それを根気良く教えてくれた。もう本当に、「根気」。そういうしかない。それでも子どもというのは我ながらおそるべきもので、ちゃんと教えてもらって理解できれば、次のステップに進むこともなんとかなるのだ。


 三ヶ月くらいすると、私も学校の授業にちゃんとついていけるようになっていた。そうなると先生の態度も変わるもので、私をからかう生徒に注意してくれるようになった。

 伽耶子ちゃんが忙しい時は無理だけど、二日に一回はお風呂に連れて行ってもらっていたので、多分私はもう汚くなかったと思う。でも、同級生は結構残酷で、やっぱり私をはやし立てることをやめなかった。当然友達はまだできない。

 でも、伽耶子ちゃんがいるから、それほどつらくはなかったように思う。


「藍」

 ある日曜日、伽耶子ちゃんのうちにいくと、大きな紙袋が一つ置いてあった。

「あなたにあげるわ。どうせ押入れの肥やしよ」

 そこには、ちょうど私くらいの年齢にぴったりな女児の服が入っていた。

「私、妹がいるの。女二人分だからいっぱいあって困るのよ。実家には入れないから妹に頼んで持って来てもらったの」


 伽耶子ちゃんの持ってきた服は、それはそれは……子どもに着せるには品が良すぎだろうと思うようなものだった。それでも伽耶子ちゃんの妹さんは、一生懸命選別してくれたんだろう。なんとか一般的に使えそうなシャツとかスカートとかが多かった。今思えば、伽耶子ちゃんやその妹さんは少女時代は基本ワンピースで、それこそきちんと運動を目的とするとき以外は、ジャージ素材のものなど来たことがなかったのだろう。後で聞いたら、伽耶子ちゃんは実家を出奔するまでジーンズを履いたことがなかったそうだ。


「あともう一つ、頼みごともしているから。ちょっと待っていなさい」

 頼みごとが何かわからないけど、少し私はその時がっかりしていたのかもしれない。

 伽耶子ちゃんは私のおねえさんみたいに思っていたからだ。

 もちろん私にもお姉ちゃんがいたけれど、伽耶子ちゃんとは少し違っている。あまり私をかまったりしないのだ。


 男の人と出歩いている時の方が多い。そしていつも彼らからのプレゼントをよく持ち帰ってきた。

 それはお金のこともあって、お姉ちゃんはいっぱいハンバーガーとかカップラーメンを買って置いておいてくれる。だから今までみたいにひもじい思いをすることはないけど、でも私は伽耶子ちゃんちに入り浸っていた。


 伽耶子ちゃんが作ってくれるもやしと卵しか入っていない雑炊のほうが好きだった。

 でも伽耶子ちゃんには、ちゃんと妹がいるんだなあと思うと、悔しいような寂しいような気持ちだった。

「服、いらない」

 だからそんなことを言ってしまった。えっ、と伽耶子ちゃんが珍しく驚いた顔をする。


「なんで」

「いらないもん」

「少し趣味が古いのかしら……十年前の物だものね。でもこれなんて今もいいと思うけど」

 伽耶子ちゃんは素敵な丸襟の白いシャツを手にした。襟と袖口に細かい花の刺繍がされている。確かにそれはとても可愛い。

「まあちょっと持っていきなさい」

 伽耶子ちゃんは無理やり私にそれを押し付けた。


 私は伽耶子ちゃんの妹じゃないという寂しい気持ちや、それでもその服は素敵だなあと思う惨めさとか、そういったものが混ざり合ってなんだかひねた気持ちになった私は、

「伽耶子ちゃんのバカ!」

と怒鳴ってしまったのだ。今言ったら超〆られるな……。

「嫌い」

 とまで言って、私は伽耶子ちゃんの家を飛び出してしまった。


「藍?」

 急に怒り出した私に伽耶子ちゃんは声をかけてくれたけど、私はそれを無視して自宅にかけこんだ。家では、ママがまだ寝ていた。

 そのシャツを手にわけがわからないまま泣きだそうとしたら、ママが起き出す気配がしたのだった。

「藍?」

 慌てて、部屋の隅にシャツを隠した。なぜか見つかってはいけない気がしたのだ。


「なによ、うるさいわね。ママ寝ているんだから静かにしてちょうだい」

「……うん」

 今日は少し機嫌が悪いようだ。


 それでも彼女は私に暴力を振るうことなどなかった。ただ、誰かを好きになると私のことを忘れてしまうだけなのだ。そちらに入り浸って帰ってこなくなってしまう。でもなんだかんだして別れると帰ってきてくれた。帰ってくれば何かを怖がっているように私をべったりだった。今はそうではないということは、たまたま戻っただけなのだろう。


 ママは……彼女の顔は、今はもうあまり覚えていない。ただ、綺麗な人だったということはうっすら覚えている。

 綺麗な切れ長の目、素敵な卵形の輪郭。彼女がほんのりと笑うと、いい香りが広がるように、華やかだった。とても男性に好かれるタイプだったと思う。

 ただ、それがママを幸せにしたのかといえば、そうとも言えない。

 これも、後になって知ったことだけど、私が三歳の時に両親は離婚していた。理由は母の浮気だった。


 父親と暮らしている今思うのは、父親は確かに面白い人間と言うわけではないというさえない事実だ。が、誠実で実直な人だと思う。のちに、しばらくぶりに娘と暮らすことになって、どうしたらいいのかわからないまま、一生懸命、子育ての本を読みふけり、休日や夜になるべく話を聞こうとしていた。彼としてはなるべくスマートにやりたいようだったけど「娘と仲良くしたいんだ」オーラがダダ漏れすぎた。


 断ったりパパうっとしいとか言おうものなら、自分が良心の呵責にさいなまれるくらい、真面目だ。

 きっと、そういうところが、ママにはあわなかったのだろう。


 ママはモテていたけど、いつも暴力が伴うような人ばかりを選んでいたように思う。いろいろな人に愛される資質を持ちながら、それをどう使ってどう幸せになるかと言うのは結局それぞれなのだ。

 お姉ちゃんはそれを有効にいかしていた。

 彼女の最初の彼氏は、近所の高校生だった。でもそのあたりの地主の息子で、子どもながら多くのお金を動かせたようだ。多分彼女が貰って、私にもおこぼれを与えたものの多くは彼からもらったものだろう。

 でも彼以外にもそういうスポンサーが多くいることを私はうっすら感じとっていた。


 一体どこでそんな手管を学んだのかわからないけど、彼女の周囲にはいつも、裕福な男性の影があったように思う。

 この日もお姉ちゃんは家にいなかった。前日からいなかったので、誰か男の人と一緒にいたんだろう。もうお姉ちゃんはあまりこのアパートに寄り付いていなかった。


 そのかわりのようにやってきたのは母の恋人だ。

 四十歳くらいの人で、あまり堅気のような雰囲気はない。彼は母親が離婚する相手となった浮気相手ではない。離婚以降ママはしょっちゅう恋人を変えていた。

「なんだ、寝ているのか」

 慣れた様子で部屋に入ってきた彼は、ママが寝ているのを見てからしかたなさそうに腰を下ろした。

 起こそうかと思ったようだが、その前に部屋の隅っこにいる私に気が付いたらしい。


「よう」

 奇妙な愛想のよさで、彼は私に笑いかけた。

 何か嫌だな、とか思って、私は目をそらした。

「お前、年幾つなんだ?」

 重ねて質問してくる彼に、私は小さい声で年を答える。いますぐにでも伽耶子ちゃんの部屋に戻りたかった。


 伽耶子ちゃんのほうが彼の数倍ぶしつけだが、なぜかそこには人を不愉快にさせない明るさがあるのだ。

 なんだろう……もの凄い勢いで前進する力のような。それは他人を巻き込むものだ。伽耶子ちゃんが、大丈夫だといえば、今自分が死んでいる状態でも明日の人間ドッグで満点出せれるくらい大丈夫なような気がしてしまう。


「そうかあ。可愛いなあ」

 彼はにやにやしていた。

 可愛いなんてその時まで言われたことはなかったけど、伽耶子ちゃんにちゃんと面倒をみてもらうようになって私も少し違って見られるようになっていたんだろうか。

「ちょっとおじちゃんのところにこいや」

 それはすごく嫌だった。静かに首を横に振ると、彼の表情は見る間に怒りに染まっていく。


「おい」

 低い声で彼が呼びかけて立ち上がったときだった。

「あら、来ていたの?」

 まだ寝巻き姿のママが、小さな和室から出てきた。

「お、おう」

 それになにか勢いを失ったように男は私から視線を外したけど、そのまとわり付くようなねっとりした視線は、なんだかずっと自分にこびりついたような気がしていた。

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