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ファムファタる。  作者: 蒼治
3 昔語る。
11/40

1

 十年前に伽耶子ちゃんとあった日のことを話そう。

 すごく寒い日だった。

 秋の終わりは、気温の低下に体が慣れていない分、寒さがこたえる。そしてその日は雨まで降っていた。



 淡い雨のカーテンの向こうに、人影が見えた。いつもの人だと私は気が付く。

 その頃私は、母と高校生の姉と三人で、ものすごく古いアパートに暮らしていた。私は六つか七つ?小学校低学年だった。二階建てのアパートではよくどこかの窓から喧嘩の声が聞こえていて、多分あまり良い環境ではなかったのだと思う。姉は大分年上で、帰りは遅かった。母は……どうだったろうか、あまり覚えていない。それくらいうちにいなかった。


 でも鍵を持たせてもらえなかったので、私は一階の一番隅っこの部屋の玄関の前で、いつもどちらかの帰りを待っていた。いつ帰ってくるかわからないので、玄関の前でうとうとしてしまうことすらままあった。その時もそんな日が三日も続いていた。


 そして毎晩遅くに帰ってくるその人に気が付いたのだ。


 二十歳くらいの見たことがないくらいものすごく綺麗な人。それが伽耶子ちゃんだった。その頃伽耶子ちゃんはショートカットで(あとで知ったところによるとシャンプー代の節約だったらしい)、着ている物もいつもTシャツにジーンズ、そして同じジャケットだったけど、それでも周囲とははっきりと違う輝きがあった。

 靴だけはいつもとても女らしい華奢なものを履いていた。


 いつも遅くに帰ってきて、階段の下に居る私を一瞥すると、そのまま小鳥のような静かな足音で二階の自分の部屋に向かってしまう。鉄製の錆びた階段に、細いかかとの靴で、どうやって足音を立てなかったのかと思うのだけど、そういう細かい部分がきっと伽耶子ちゃんの育ちのよさだったんだろう。


 私は綺麗な伽耶子ちゃんを見るのがとても好きだった。

 今日も伽耶子ちゃんは私の前を通りすぎる。その一瞬だけ伽耶子ちゃんは私を見る。

 声をかけてくれれば良いのに、なんて大それたことは思っていなかった。


 でも、その日、伽耶子ちゃんは階段を上らず、私の前に立った。

「あなた」

 伽耶子ちゃんは私に言葉を落とす。

「あなた、汚いし臭い」


 いきなりのまったく容赦ない指摘だった。当時のクラスメートと同じくらい、無慈悲な言葉だ。いつも学校でそう言われて仲間はずれにされていたけど、どうしようもなかった。そりゃそうだ、このアパートは風呂なしなのだ。毎日お風呂に入るとか着替えるとか服を洗うとか、そういう習慣もなかった。


「ちょっと待ってなさい」

 今でもそうなのだけど伽耶子ちゃんの言葉というのは必ず上から降ってくる。その時なんて、捨て犬を見るような目線だった。伽耶子ちゃんはいつもより少し急いで階段を上がると、自分の部屋に入った。その間、私はずっと怖がっていた。

 いいなあと思っていた人に、いきなり罵倒されて、恥ずかしいのと悲しいのとで。


 すぐに伽耶子ちゃんは帰ってきた。いつものバッグじゃなくて、ビニール製の軽いバッグに持ち代えていた。

 手を出して私を無理やり立たせると伽耶子ちゃんは傘を差した。


「行くわよ」

 どこに行くとも言わなかったけど、伽耶子ちゃんの手はがっちり私の手をつかんでいて、有無を言わせない。なにが起きているのかわからないまま私が伽耶子ちゃんに連れられて行った先は、近くの銭湯だった。

 そこで泥だらけの犬みたいに力任せに洗われてうちに帰る途中、伽耶子ちゃんはコンビニで肉まんを買ってくれた。


 お風呂に入って戻って来ても姉も母も戻っていなかったけど、伽耶子ちゃんはそんなこと予想していたとばかりに自分の部屋に上げてくれた。

 びっくりするくらい何もない部屋だった。ただ、学生であると知らしめる参考書は部屋の隅にきちんと置いてあった。のちに、伽耶子ちゃんは、こまごまとした高価で美しいものを集めることを愛する人だと知るのだけど、その頃の伽耶子ちゃんは本当に質素を地で行っていた。


「伽耶子ちゃんはなにをしている人なの?」

 今思えば涼宮伽耶子サマをちゃん付けとは、自分の度胸に恐れ入るばかりだが、まあ子どもなので無頓着だったし、伽耶子ちゃんも少しは甘かったのだろう。今なら間違いなく伽耶子様と呼ばせられている。


「大学生」

 伽耶子ちゃんはお湯を沸かしてお茶を入れていた。

「なにをおべんきょうしているの?」

「いろいろ。でも一番すきなのは彫金」

「ちょーきん……」

 意味がわからないまま言葉を口の中で転がしていると、カップを二つ持って伽耶子ちゃんがやってきた。


「私はジュエリーデザインをするの」

 なりたいの、といわないところがすでに様様だ。

「綺麗なネックレスとか指輪をつくるのよ」

「へえー」


 それは伽耶子ちゃんにはとても似合っていると思った。もちろんロマンチックな作業ばかりじゃなく力仕事もあることはそのときには思いつかなかったからあくまでもイメージで。たくさんの宝石や金銀に囲まれている伽耶子ちゃんは綺麗だろうなと思ったのだ。


 二人で肉まんを食べ始めてから伽耶子ちゃんは言った。

「あなたのご両親はどうなっているの?……えーと、誰と一緒に住んでるの?」

「ママとお姉ちゃん。お姉ちゃんはもうちょっとしたらきっと帰ってくると思うけど、でもカレシのうちに泊まるかも。ママはよくわかんない」

「……ふうん」

 伽耶子ちゃんはそれしか返さなかった。でもその時に伽耶子ちゃんの頭の中では凄い勢いでいろんなことが考えられていたらしい。


「藍。あなた学校から帰ってきたらこの部屋にいて良いわよ。鍵開けておくから」

 ややあって、彼女は言った。

「鍵開けておいたら泥棒はいるよ?」

「盗まれるものなんてないわ。本だけは大学に持って行っておくし、大事なものは持ち歩けばいいのよ。本は教授の部屋に預けておけばいい」

 私が帰ってきたら、お風呂に行くのよ、と続けた。


 後になって……本当に、年単位の後になってから知るのだが、伽耶子ちゃんはこの頃本当にお金がなかったのだ。

 伽耶子ちゃんの御実家『涼宮』というのは、代々政治家を何人も出し、それ以外は官僚しか認めないようなお堅い一族だ。伽耶子ちゃんはその分家だったらしい。ただ当時、本家で揉め事がおきて、そもそもは分家の娘だったはずの伽耶子ちゃんは、大学を出たらしかるべき後継者候補を婿として結婚して涼宮を盛り立てて行く、それが使命とされてしまったらしい。


 大学も美術系という事で、それだけでも当代当主である御祖父様にはいい顔されなかったようだ。それでも学んだことを趣味とするくらいなら、まあ良いところの奥様の道楽というところでやむなしだったのだろうが、涼宮を継ぐことも婿取りも政治に関わることも興味がない、とにかく私は自分で身を立てる、結婚も今のところは興味がない、とか言ってしまったばかりに大騒動となってしまった。

 祖父と殴り合いの喧嘩の末、ほぼ勘当状態で家を飛び出していたのだ。

 伽耶子ちゃんもすでにある程度の資産が合ったらしいが(この辺今でも意味がわからないのだけど、先に亡くなった祖母から受けついた分があったとかなかったとか?)それも凍結状態。学費はこっそり母親が出してくれたらしいが、生活費についてはかなり困窮していたようだ。

 夜遅いのも、学業に障りない程度で、キャバ嬢をやっていたためらしい。


 だから今でもとても不思議だ。

 自分が困っていたのに、どうして伽耶子ちゃんは私を助けてくれたんだろう。

 伽耶子ちゃんの冷蔵庫にはモヤシとツナ缶しか入っていなかったのに、どうしてあの時肉まん買ってくれたんだろう。

 もう少しして、伽耶子ちゃんの年齢になれば少しはわかるんだろうか。


「あと藍、あなた日曜日はなにしているの?」

「うちにいるよ?」

「勉強しているの?」

 しているわけがない。その頃私はくりあがりの足し算がわからなかったのだ。


 黙っていると伽耶子ちゃんは静かに言った。

「日曜日はうちに来なさい」

 命令を下した時、階下で玄関を開ける音がした。一瞬静かになったあと、不思議そうに「藍ちゃん?」と私を探す声がする。いつもは玄関前にいる私がいないので不思議に思ったのだろう。

「あ、きっとお姉ちゃんだ」

「そう。心配する前に帰りなさい」

「うん」

 私を玄関まで送って、伽耶子ちゃんは手を振った。私が階段を下りて自分の家の前でお姉ちゃんと会うまでは多分見ていた。


「あれ、藍ちゃん。どこにいたの」

 玄関先で鍵を開けていたお姉ちゃんが聞いた。

「伽耶子ちゃんち」

 そしてわたしが上階を指差した時には、もう伽耶子ちゃんは通路にはいなかったけど。

「ふうん?」

 お姉ちゃんは怪訝そうに指の先を見上げたけど、それ以上追及しなかった。


「それより。服買ってもらっちゃった。見せてあげる」

 お姉ちゃんはカレシからいろんなものを貰っていた。今日も何か買ってもらったらしい。

 学校では、友達もいなくて、寂しかったけど、それでも私は完全な孤独ではなかったのだ。

 お姉ちゃんは優しくて好きだった。ママも、お酒を飲んでいなければ、好きだった。

 ……嫌いなのは、時々ママが連れてくる男の人だけだった。

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