4
さて、その後しばらくは比較的平和だった。比較的、ここに注目。
夜に森の中で佐藤君とまったり話したり、こつこつとエリックさんにメールして励ましたり、週末は彼のうちに佐藤君と遊びに行ったり。事態はけしてまともじゃないんだけど、動きがないという意味では平和だったと言えよう。私の藁人形は釘を打ち付けられることがないまま、佐藤君のワードローブは次第に薄着になっていって。
気が付けば七月になっていた。
「期末もうすぐだね」
「うん」
放課後、私は佐藤君と一緒に学校を出て寮までの道を歩いていた。部活に顔を出してから佐藤君が私の勉強していた図書室にやってきて二人で課題を済ませた後だった。日は大分落ちているけど、まだ十分にあたりの景色は明瞭で、日中の暑さの残滓がまとわりついてきた。
まだ週は半ばの水曜日だが。
「今週はエリックさんのところどうする?」
「どうしようかなあ。さすがに毎週出かけるのはやばいよな」
「大分落ち着いてきたと思うんだけど」
「でもあの人寂しがるだろうな。確かに三嶋が言うように落ち着いてはいるんだろうけど。だからこそ寂しそうだ。逆にさ、泊りに行ってエリックさんのうちで勉強したほうがいいかも。食事の時に話せば、彼も安心するだろうし、俺も気分転換になる。最初の時は藁をも……って感じに俺にメールしてきたけど、落ち着いてきた今では俺を気を使っているってわかるんだよな。だから逆に気の毒で」
「私は佐藤君の仏心が凄すぎると思うよ」
なんだこの面倒見のよさ。
「そしたら私も行こうかな……」
「だめだよ」
佐藤君は険しい顔で言った。
「三嶋は女子だからだめだ。だってエリックさんちだぞ。俺とエリックさんしかいないんだよ。そりゃ俺は女装男子で、エリックさんは娘ラヴなパパだけど、野郎しかいなからダメ」
佐藤君がこんなに激しく何かを主張するのをみるのは初めてだ。
「そ、そうだね。あの家に天蓋付きベッドとか、猫脚バスルームにはちょっと未練が残るけど。あ、真弓とかが一緒にいけばいい?」
「エリックさんとの関係をうまいこと当たり障りなく説明できれば」
「……無理」
じゃあ、昼間だけでも……とか私はのん気に考えていた。
寮までの道は通いなれたものだ。その道のはじに車が止まっていることに気が付いたのはやっぱり日が落ちて、少し視界が悪かったせいだろう。
メタリックな黒い塗装をされたクルーザータイプの大型の車だった。ハゲ頭にタトゥー入れているようなアメリカンマッチョが乗っていたらさぞ似合うと思われる変な迫力がある。
しかしそこに立っているのはほっそりとした女性だった。
年は三十一歳。長い髪の毛は夕方だというのに綺麗に巻かれていて、夕日に輝いている。華奢な体つきだけど、女性らしい完璧な曲線を描いている。それを強調するようにタイトなスカートと身にぴったりと合ったシャツを着ていた。靴のかかとは恐ろしく高い。
きつめの顔立ちだけど、文句なく美しく、そして品があった。それは家柄のせいだろうか。
なんでこんなに詳しいかと言うと、知り合いだからだ。
「藍」
やっべえ、少し怒ってる。
自分への呼びかけに彼女の怒りを感じた私は、予想していたこととはいえ、戸惑った。走って逃げようか、立ち止まろうか迷う。
にっこり笑って彼女は続けた。
「電話もメールも返事がないから、直接来ちゃったわ。期末になったら忙しいと思って。ねえご飯食べに行きましょう。行くわよね」
この有無を言わせぬ態度。あいかわらずしびれる。
まあこう来るだろうなあ、ということは考えていた。エリックさんの家にはじめて行った時、かかってきた電話は彼女からのものだ。あの時以外にもたびたび連絡は来ていたが、私が逃げ回っていたのだ。実は、連絡を取るのが苦しくて。
彼女が、その。
十月の結婚式で花嫁になる人わけだ。
「あの……?」
佐藤君がぽかんとしている。
「はじめまして。藍のお友達?」
彼女は一歩踏み出した。にこやかに笑って右手を差し出す。佐藤君の手を自らつかみに行くようなアクティブさで握手をした。
「三嶋藍の知人の涼宮伽耶子です。よろしく」
花嫁……伽耶子ちゃんは佐藤君を眺めた。眺めたという言い方は正しくないな。一瞬目を合わせただけで、佐藤君を推し量った。
伽耶子ちゃんのスカウター……じゃなかった、人を見る目は鋭すぎるから怖い。次に口を開いた時に『ねえ君、君には少女趣味な服は似合わないわ。もっと大人っぽいドレスになさい』といわないかどうか私は怯えた。
しかしさすがに佐藤君の女装趣味までは見破れず、伽耶子ちゃんは穏やかに手を放し、私に向き直った。
「じゃ、藍、ご飯食べに行くわよ」
「あ……えっと。私、期末の勉強したくて」
「どうせ受験生なんだから、始終勉強しているんでしょう。藍なら地味に着実に頑張っているって知っているのよ。だから今日は私に二時間寄越しなさい」
この人男だったら絶対俺様とか暴君とかって評される性格だよな、と思う。でもまあ、伽耶子ちゃんとは付き合い長いから、この言い方にもなれた。というかむしろこういわれると安心する。
出会ったときから伽耶子ちゃんは素敵だったし、今も素敵だ。
でもあの人と結婚しちゃう人だから。
キリンみたいな優しい目をしたあの人と。
「でも……」
ぼそぼそと口ごもる私を見て、佐藤君は何か察したみたいだった。
「あ、あの。今日はちょっと急で三嶋も都合悪いみたいで」
「それは藍と私が決めることよ。君には関係ないわ」
「いや、でも……」
伽耶子ちゃんの言い方に佐藤君はちょっとカチンと来たみたいだった。
「関係あります」
佐藤君は食い下がった。
「俺は三嶋と付き合ってますから」
なんだその捨て身のボケは。
きゃっ、とか照れる前に、呆然としてまった。
「佐藤君」
「あらそうなの?」
伽耶子ちゃんの視線に、再びスカウター機能が入る。佐藤君の全てがむき出しになって数値化されそうな勢いだ。
自慢じゃないのですが、伽耶子ちゃんはとっても私を大事にしているので、私によりつく男には大変厳しいと思います、ハイ。
「あ、あの、佐藤君」
「三嶋は黙ってて。俺だって、関係ないとか言われると嫌だから」
いやだって、すごく関係ないだろう。
「それは失礼なことを言ってしまってごめんなさいね」
伽耶子ちゃんはふっと言葉を和らげた。臨戦態勢だった佐藤君が、勢い余ってその心をこけさせてしまうくらいに。
「藍もそんなお年頃になったのねえ」
「お、おそれいります」
これはまずい、と思った。
「じゃあ、三人でご飯食べに行きましょう。楽しみだわ。私、藍の彼氏ができたら酒を酌み交わしてみたかったの」
「すみません。俺ダブってないんで未成年です」
「元服していたらいいんじゃないかしら?」
伽耶子ちゃんは車の後部座席を開けた。にこにこしながら佐藤君に乗れと示す。だめだ、乗るな!乗るな佐藤!体ひっくり返される勢いで、評価されるぞ。
しかし、ヒロイン体質の佐藤君は乗ってしまった。いるよなあこういうヒロイン。平和に暮らしたかったら事件に首突っ込むな!
ああー佐藤君を人質に取られた以上、私も乗るしかない……。
助手席に乗れという伽耶子ちゃんの視線にとりあえず反抗して私も後部座席に乗った。佐藤君の横で小さくなる。
伽耶子ちゃんに聞こえないように、佐藤君はこっそり聞いてきた。
「知人って何?」
「私の失恋。ほら、十月に結婚する人」
「あっ……じゃあ恋敵の……?」
佐藤君の目にはありありと、あの藁人形が浮かんでいた。バカ。
「何言ってんの。私が伽耶子ちゃんを呪うわけないじゃん」
「え、だって」
「呪いたいのは花婿のほう」
優しい草食動物のまなざしの男。
……草食ってる分際で、伽耶子ちゃんを娶るなんて。なんていう思い上がりか。
「伽耶子ちゃんは私のものなのに」
あ、そっちか!という佐藤君の小さな声が聞こえた。




