救出劇と思わぬ言葉
美術室の真上の部屋へ駆け入ってネイトが窓を開いたとき、逼迫した悲鳴が耳を掠める。
「エリス!」
迷っている暇はなかった。
窓枠に手をかけてぶら下がり、勢いをつけてから窓を蹴破り一階の室内へ飛び降りた。
◆◆◆◆
ガシャアアアアアアアンッ!!
派手なガラスの破裂音と、鈍く重い落下音がしたあと、呼びかけられた。
「エリス、大丈夫かっ!?」
声を聞いただけで、姿を見なくてもエリスには誰だかわかる。
なにせ9年間も婚約者をしていたのだから。
「嘘だろう?」
ちっと舌打ちしながらレジーが身を離す。
刹那、エリスは駆けだしていた。
「――ネイト様っ!」
「エリスっ!」
やはり走り寄ってきたのはネイトだった――ただし、頭から血を流した――
「きゃああっ、血がっ! ネイト様っ」
飛びつきながらエリスは悲鳴をあげた。
「大丈夫、降りた時にちょっと切っただけだ――それより、エリスこそ――どこも何ともないかっ?」
「はいっ、何ともありません……!」
「そうか、良かった」
ほっと息をついた次の瞬間、ネイトは気が抜けたようにガクッと膝を折る。
「大丈夫ですかっ!?」
エリスが慌てて支えようとするも、長身のネイトの身体は重すぎて無理だった。
「――あっ――」
一緒に崩れながら、下敷きになるかと思いきや、すんででエリスはネイトに抱きかかえられる。
そのまま仲良く抱き合った状態で床に倒れ込んだ二人を見て、「まったく、やってられないっ!」とレジーが盛大な溜め息をつく。
「エリスはそのままネイト様と既成事実を作って、皇太子殿下との結婚を回避するがいいさ!」
最後に皮肉を込めた捨て台詞を残すと、レジーは、バンッ、と思い切り扉を閉めて出て行った。
残された――事故とはいえ初めてネイトに抱擁されているエリスの鼓動がおかしいほど高鳴ってゆく。
「ごっ、ごめんなさい、ネイト様! 重たいでしょう? 上からどけるので腕を離して貰えますか?」
焦って言うエリスの下から、ネイトがかすれた声を出す。
「……別に重くなんかない――それより、今の、皇太子との結婚を回避というのは……?」
恥ずかしさに頬を熱くしながらエリスが解説する。
「レジーは、私が皇太子妃にならなくて済むように、既成事実を作ってくれようとしていたんです」
「何を……言ってるんだ? エリス……お前」
「私だって、おかしいと思いますよ。殿下が私との結婚を望んでいるだなんて話……」
「いや、そうじゃなくて……エリスはクリスが好きなんだろう?」
びっくりしたエリスはネイトの胸からがばっと顔を上げる。
「なんでそうなるんですか? 絶対に違いますよ!」
「えっ、そうなのか? いやっ、でも、初めてクリスに会ったとき、いかにも衝撃を受けたような顔で見ていたじゃないか」
「あれは――純粋に驚いただけで――それ以上の理由なんてありません!」
まさか、ネイトに親友がいて驚いたからなんて言えなかった。
「……じゃあ、本当にエリスはクリスを好きじゃないのか?」
「好きどころか――ここだけの話ですが、一番苦手な人です!」
「……苦手……だったらクリスはなぜ……?」
呆然と呟くネイトの腕から力が抜けてゆきずるっと解ける。
そこでようやく身を起こすことができたエリスは床に降りながらネイトに手を差し出す。
「起き上がれますか?」
「動けないんだ」
返事に驚いたエリスは、硬い床に接して痛そうなネイトの頭を持ち上げ、自分の膝の上に乗せた。
そして軽く目を見張るネイトの顔を両手で挟んでまじまじ観察する。
異様に顔色が悪い上、血走った目の周りの隈はドス黒く、唇も乾き切り、頬もこけている。
あきらかに普通の健康状態ではない。
「体調が悪いんですか? まさか、何か病気とか?」
「いや、単に二晩ほど寝て無くて……三日ほど満足に食事を取っていないだけだ……」
「三日もっ……!? とにかく、怪我の手当もしないといけないし、誰か呼んで来ないと……」
「待ってくれ、エリス。その前に、謝らせてくれ」
「謝る?」
エリスが思わず耳を疑いながら訊くと、ネイトは「ああ」と頷き、残りの気力を振り絞るように言った。
「――今まですまなかったエリス……確かに俺は横暴だった……。
命令しては言うことをきかせ、束縛し、エリスにずっと息苦しい思いをさせてきた……。
……そのことを今はとても後悔しているし、反省している……」
出会ってから9年間、よもやネイトの口からこんな言葉が聞ける日が来るとは思わなかった。
エリスは信じられない思いで確認する。
「もしかして、ネイト様。謝りたくて、ここ数日、私につきまとっていたんですか?」
「……そうだ……エリスに許して貰いたくて……その為なら何でもする……俺は……何をしたらいい?」
蒼白な顔で苦しそうに訊いてくるネイトの姿に、エリスの胸に熱く込み上げてくるものがあった。
それは感動も含め、簡単には言葉にできない複雑な感情。
ただ、単純に、許す、許さないだけなら、すぐに答えることができる。
エリスはネイトの顔を見下ろし、泣くのを必死に堪えて笑顔を作った。
「もういいんです、ネイト様、すべては終わったことですから」
「――そんな――」
エリスの返事を訊いたとたん、ネイトの真っ青な瞳が衝撃を受けたように見開かれ――直後、ふっと力が抜けるように閉じていった。
「――ネイト様――!」
意識を失ったネイトの肩をエリスが揺すっていると、さっと鉄扉が開き、クリストファーが中に入ってきた
「ガラスが割れている、と報告があって来てみたが――エリス、何があったんだ!?」
問いながら、気絶しているネイトに膝枕しているエリスと、割れた窓を見て判断したらしい。
「まさか、ネイトに襲われたのか!?」
「違います!」
エリスはクリストファーだけではなく、自分に対する苛立ちも込めて叫んだ。
「それどころか、ネイト様は私に、今までのことを謝ってくれたんです。
私はネイト様が腹を立てていると思い込んで逃げ回っていたのに、全然違ったんです」
説明しているうちにエリスの瞳から後悔の涙がこぼれ、ネイトの顔の上にぽたぽたとしたたり落ちた。
(私はネイト様の人格を勝手に判断し、酷い人だと決めつけ、危害を加えられるかもしれないとまで思っていた――これまで一度だってネイト様に暴力を受けたことはないのに――今日だってこうして助けてくれたのに――)




