17.運命
私の周りを、色とりどりの光の滝が落ちていく。
それは、遠い記憶のように。移り変わっては、儚く消えることを繰り返す。散りばめられた、星々。
「ここは…………」
いつから、ここにいたのだろう。
気がつくと、真っ白な世界だった。握る手のひらとの距離感すら分からなくなるほどの、白。
頬に触れた冷たさに、降り頻る雪に気がつく。
白銀の平原。静寂の中で、ただ風の音だけを聞いていた。
死後の世界。そんな言葉が、頭を過ぎった。
――失敗した?
いや、違う。私はこの場所を知っている。
寂しいほど、静かに舞う細雪。遠くの木々は黒く霞んで、世界は白と黒だけの静謐だった。
その向こうに、誰かの気配を感じる。
雪片の間で揺れる、金色の光。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
「はじめまして、唯坂レイ」
金の髪が雪に映える。淡い微笑みを浮かべる、妙に優しい声。
――はじめましてじゃない。
瞬間、頭痛と悪寒が全身を襲った。
記憶が息を吹き返したように、一気に押し寄せる。断片的だったものが、車輪のように回っては、勢いよく流れ込んだ。
私の体を突き破る、真っ赤な腕。異形の怪物の姿。血の匂い――ベル様の亡骸。
「………………悪魔」
迷う間もなく立ち上がる。そして、睨んだ。
あいつは人の器に注がれただけの、欲望の塊。絶望が、私の記憶に根を張るようにして結ばれる。
踏みしめた雪が、靴の下で軋んだような音を立てる。
悪魔が、眉を僅かにあげた。
「キミは……ああなるほど、これは良くないね」
悪魔は何かを理解したようにひとり頷くと、少女の姿を模っていた輪郭が揺らぐ。金色の光に混じるようにして広がる、深淵の影。
半透明だった肌が、異形へと姿を変えた。
それは悪意に満ちた、闇の怪物。いつか見た地獄の扉が、ゆっくりと口を開けるように、再び開く。
「お前の悲しみを、私に寄越せ」
耳を塞ぎたくなるような声だった。だけど、狼狽はない。もう、私は全てを知っているから。
自分の胸に手を当てて、息を吐く。
指の先まで息づく記憶が、私に教えている。
私というものの意思。この胸に抱いていた悲しいほどの喜び。過去も未来も飛び越えて、私を呼ぶ声を。
「――――――ベル様!」
遠くで、何かが閃いた。
弾丸のように飛んでくるそれは、慟哭の中で愛しい人の胸を貫いた銀のナイフ。
悪魔の体へと、闇を裂くように一直線に突き刺さった。
銀の髪が風に舞う。冷たく輝く、赤い星。
「随分と早かったな。」
現れた夜空のように真っ黒な外套が、私を包む。
止まっていた時間が、動き出す。聞きたいと願っていた声。懐かしい香り。微笑む口元。
熱が頬を伝う。
「話したいことは山ほどあるが、まずはあいつをさっさと片付けるとしよう。」
ベル様が、威圧するように悪魔を見据えた。
「やぁキミか。こんなところまで来て、ご苦労だね」
「相変わらず気味の悪い声だな。虫唾が走る。」
不敵に嗤う悪魔に、何本もの銀のナイフが突き刺さる。その穴からは溶岩のように、赤黒い熱が溢れ出した。
それでも、悪魔の笑い声は消えない。
「あははは。キミもわかっているはずさ。私が死ぬことはない。キミひとりじゃ、何もできない」
「一人ならな。ずっと貴様と再び戦えるときを待っていた。」
ベル様は私を一瞥すると、静かに告げる。
「本物の魔法を見せてやろう。」
ベル様の腕に、強く抱き寄せられる。同時に、降り注ぐ、無数の光の矢。
空を覆うほどの凛然と輝く光は大地を割り、悪魔の生み出す闇を次々とかき消していく。
それは、神話のように美しくて残酷な景色だった。
「キミにしては派手な魔法じゃないか」
「遥か昔、魔王を滅ぼすために人間が生み出したものだ。」
ヘドロのように散らばった悪魔の残骸が、再びぼこぼこと音を立てて増殖を始める。
そして、数秒の間に傷ひとつない元の少女の姿へと変わった。
「はははっ、人間の考えそうなものだね」
悪魔はひとしきり肩を震わせると、余裕たっぷりに片頬を吊り上げた。
「くだらない。欠伸が出るよ」
世界が歪む。ちぎられたキャンパスのように空が崩れ、溢れ出した溶岩が、濁流となって私たちに迫った。
チリチリと肌が焼けるような痛み。地の底のような光景に、ベル様にしがみつく。
「レイ、私から離れるな。」
ベル様の腕が、私の腰を引く。
煮えたぎった空気が、肌を刺した。巨大な波となった灼熱の炎が、私とベル様を覆い潰す。
息をしただけで、喉が焼けそうな世界。
しかし、それは瞬く間に闇へと移り変わった。
「あの悪魔は、心の恐怖を具現化する。レイには何が見えている?」
闇はまるで意思を持つように、私とベル様を引き離そうと手足に巻きついた。
「……闇です。」
沼の底のように這い寄る闇に飲まれないよう、目を瞑ってベル様の手を握る。
「私とベル様を引き離そうとする、真っ暗な闇。」
感じ取るべきものだけに、集中する。
ベル様は短く息を吐き、私を抱き寄せた。
「……そうか。」
ベル様の放つ白の光が、悪魔の胸を貫いた。同時に、私を覆っていた深淵の闇が霧散する。ベル様の瞳に宿る、憤怒の色。
「人間の魔法なんて使っても、いたちごっこさ。キミだって、無駄だとわかっているんだろう?」
心臓を穿たれたまま、悪魔が嘲笑った。
「この世界には、悲しみが満ち溢れているんだ。死へと向かう、悲劇の道がね。キミに私は殺せない。この世界から"死"が消えない限り、私の存在は永遠なのさ……さぁ、さっさとその人間を置いて帰れ。魔王風情が」
倒せるのだろうか、こんな存在を。
隣に立つベル様を見上げる。
「あれは、一体何なんですか……?」
「遥か昔に存在した神の成れの果てだ。感情を食べ、絶望を好む。」
悪魔の胸に開いた穴から、再び闇が溢れ出す。それは虚空を埋め、元の金の少女の姿となった。
「わかっているじゃないか。私の姿は、恐怖そのものの体現だ。恐怖とは、生物の本質そのもの。どれほどの理性を積み上げても、恐怖に抗うことは生物であることを否定するに等しい。闇を打ち滅ぼす術など、ありはしないんだ」
悠々と語る悪魔に、握る手に力を込める。
隣に立つベル様の存在だけは、どんな闇の中でも確かだった。
「ふん。とても正常な輪廻とは思えないな。貴様の赤子のような愚論こそ聞くに耐えない……それに、私にはお前の本当の姿が見えているぞ、悪魔。」
「本当に見えているのかい?あははっ、呆れるよ。キミに恐怖というものはないのか」
ベル様の瞳に、揺らぎはなかった。
私にも、ベル様の言葉の意味が分かる。
震えていたはずの足は、繋いだ手から伝わるベル様の温もりで、どうしようもなく奮い立っていた。
蝋燭のように溶けていく悪魔の体の中に、その本質を見る。
中心にあるものは、完全な奈落の球体だった。虚空を凝縮したような、何も届かない闇。
生物ではない。私たちが相手取っているのは、自然の理そのものだ。
死そのものの形をした悪魔を見つめる。どんな光すらも届かない、無の場所。
何も恐れるものはないのだと。そう、確信する。
だって、私の隣にはベル様がいるから。
それはきっと、ベル様も同じで。
「例え私の姿が見えたとしても、キミたち二人に私は殺せない」
ベル様のもとで息を潜める、もう一つの存在を感じる。
それは、ずっと私たちの側にあったものの息づかい。
精悍な獣の魂。
「私がいつ、二人だと言った。」
ベル様の差し出した指先が輝く。そこにあったのは、黒い光を帯びた指輪。
美しい黒い光は、陽炎。揺らめいて、巨大な犬の魔物が姿を現す。
「ベルガルファス・ケルベロス……あいつの真の姿を喰らえ。」
ベルガが高らかに吠える。その輪郭が、悪魔の闇よりも濃い黒を描いて、溶け込んでいく。
ベルガは模しているのだ。悪魔そのものを。
「物真似の駄犬になにができる…………まさか」
焦ったように、悪魔が闇を放つ。だがそのすべては、ベル様の光によって容易に撃ち落とされた。
悪魔の姿となったベルガの闇が、敵の悪魔へと喰らいつく。
「貴様の感情を、私の犬のエサとさせて貰おう。貴様の力を使ってな。」
「ばかなっ!」
悪魔の球体から吸い出されるように溢れ出す、闇の瘴気。
それこそが、悪魔の悲しみを求める欲望、そのものなのだろう。
「ぐああああああ!!!」
響き渡る、悪魔の断末魔。
いくつもの筋が、闇を引き裂いていく。
「呪ってやるぞ!!!永遠に!!!この魔王風情があああ!!!!!」
「悪魔が呪い頼みとは滑稽だな。今夜は美味い酒が飲めそうだ。」
叫びと共に急激に膨張した悪魔の球体は、無数の塵へと破裂した。闇の世界とともに消えていく欠片。
その側に舞い戻る、魔王の忠実な魔犬。
「ベルガっ……!」
鼻を鳴らして擦り寄るベルガに駆け寄る。
「大丈夫?変なもの食べちゃったけど、おかしなところはない?苦しくない?」
「わんっ!」
「大丈夫だ。魔物の胃袋は人間のそれとは違う。」
ほっと胸を撫で下ろすのも束の間、ベル様の左胸が淡い光を放った。
「ベル様、その光は……」
「悪魔の強欲が消えたからな。もともとこの悲しみは、悪魔の餌とならぬように、私が取り上げたものなのだ。その時に悪魔の手によって、私の心臓へと封印された。漸く解放される。」
柔らかで痛々しい光。それはきっと、この世界の人々の持つ、悲しみの色。
「この世界に、悲しみが戻るのですか?」
「人間には必要なものだ。返してやらねばなるまい。しばらく混乱が生じるだろうから、忙しくなる。」
私とベル様の周りの世界が、移り変わっていく。
再び雪景色に戻った世界。一筋の光が差し込むと、雪の表面がとけて、銀にきらめいた。
長く閉ざされていた、冬が終わる。
冷たく乾いた風は止み、春風が灰色の大地を撫でる。白銀に染まった森の木々は、枝先に小さな新芽を芽吹いた。
ほのかに香る、春の土の匂い。流れ出す雪解け水は小川となり、せせらいだ。
「綺麗…………」
鳥たちのさえずり。静寂の森に命が戻る。
雲の切れ間からのぞく、突き抜けるほどの青空。光を浴びて、見たことのある分かれ道と看板が立っていた。
遠くに聳える城は高く。雪の溶けた屋根は、鮮やかな青色を空へと映す。
「………………冬が、終わった。」
息をつき、微かに口元を緩めるベル様の横顔を見る。哀愁を、春の風がさらっていった。
分かれ道。立てられた看板の前に立つ。どこまでも続く道。
「悲しみを取り戻した人間が、きっとすぐに騒ぎを起こす。」
ようやく辿り着いた、私の場所。
ベル様。心の中で、その名前をなぞる。
「お前も、手伝ってくれるか?」
答えなんて、決まっていた。
ご飯に掃除に洗濯。それに、お風呂。
魔王様は、私がいなければ何もできないのだから。
「もちろんです。ベル様。」
いつかした約束の続きをしよう。
ベル様の瞳を見る。温もりを湛えた、優しい瞳が柔らかく細まった。
「まずは、文字を覚えなくてはな。」
込み上げる感情のまま、差し出された手を取る。
春空の下で重なる、白銀と黒金の指輪。
「どこまでも、一緒に行きます。」
悲しみを取り戻したとある世界で。
かくして、私と美人すぎる魔王様の生活は始まったのだった。
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