表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/17

16.流星群

 日暮れとともに降り出した雪は、塾が終わる頃には、街を白く染めあげていた。


「さむっ」


 コートの襟を引き寄せて、身を震わせる。

 凍結した路面はヘッドライトに照らされ、白く輝いている。その上を、滑らないように慎重に歩く。

 みんなペンギンみたいに変な格好で歩いているのは、面白いものだった。

 歩きながら、街路樹の枝に降り積もる雪の粒を横目で見る。柔くて、あたたかそうな雪だった。


「……あったかいなんて、変なの」


 どうしてそんなことを思うのか。勉強のし過ぎで、現代文の婉曲表現が私の感性にまで乗り移ったのかもしれない。

 かじかんだ指先を、ポケットに突っ込む。ポケットの底に埋まったカイロは温もりを失い、固まり切っていた。

 早く帰ろう。

 歩きながら思い出すのは、学校からの帰り道に、横断歩道で轢かれそうになったこと。

 あれは結局何だったんだろうか。時間が経つと、全部気のせいのような気がしてくる。

 思えば今日一日、あれからおかしなことばっかりだった。

 塾の授業には全然付いてけなくなっていて。というか、前回やった内容をすっぽりと忘れている。まるで、長い時間が経ったように。

 

「はぁ……期末やばいな」


 白いため息を吐き出す。

 私、唯坂レイはなかなか成績優秀な生徒なのだ。

 別に勉強以外に、興味があることもないし。勉強していれば、親が喧嘩することもないから。冷え切った家族だとは思うけど、それなりに恩のようなものは感じていた。

 それに、勉強は投資。未来に対して、最もコスパのいい時間の使い方だ。そう思っていた。

 それなのに、落ち着かない。まるで大切なものがこぼれ落ちているのを、ただ見つめているような。そんな焦燥感。

 

「ただいま」


 家に帰ると、迎える声はなかった。聞こえるのは何かを怒鳴るお母さんの声と、苛立ったお父さんの声。

 きっと今日も些細なことを言い争っているのだろう。私に矛先を向くと面倒なので、逃げるように自分の部屋へ向かう。

 机に広げた、教科書とノート。勉強している時間だけが、私に正解を与えてくれる。未来に対して、これが正解だと。最も合理的な時間の使い方であると、指し示してくれる。

 だから、勉強は好きだった。

 それなのに、なぜか今日は集中できない。文字が頭の中に入ってこない。形のないものを水ですすいでいるような感覚が、ずっとある。

 落ち着かなくて遊ばせたシャーペンの先が、ノートの隅に丸を描く。手足の生えた、不恰好な雪だるまだった。


「ふふっ、変なの」


 変な雪だるま。くすりと笑って、シャーペンを置く。机に肘をついて、微睡みながら窓を見る。

 氷の宝石のように、街灯に照らされた雪の粒が、光の道のように夜空へと溶け込んでいく。

 静かな夜に浸るように、私は目を瞑った。



* * *

 

 

 朝。電車に揺られながら、車窓の外を流れる街を見ていた。

 UFOにでも乗った宇宙人が現れて、私をこの街ではないどこかへ遠くの世界へ連れて行ってくれる。そんな妄想をした。

 

 昼。友達とベランダから校庭を眺めていた。バスケをしている集団の中に、ひときわ背の高い男子を見つけた。何となく見つめていたら、パックの野菜ジュースをこぼした。

 

「ふーん。レイってああいう感じがタイプなんだ」


 からかうような友達の視線。だけど、私が見ていたのは彼じゃない。彼なんだけど、多分彼じゃない。

 連続する毎日の隙間に差し込まれた、見たこのない色のファイル。

 投げられたバスケットボールが、リングに弾かれる。


「全然タイプじゃない。弱そうだもん」

「あはは、何それ」

 

 放課後。学校からの帰り道、ブランドショップのウィンドウの前で立ち止まる。冬物のコートを着たマネキン。何かの影が目の端を横切って、振り返る。

 

「ちょっと待ってっ!」

 

 女性の慌てた声とともに、視界に黒いものが飛び込んでくる。ひっくり返りそうになって、ひざに柔らかな肉球を感じた。

 飛びかかってきたのは、キャンキャンと吠える三匹の小型犬だった。


「本当にすみません!ごめんなさい!」

「気にしないでください、可愛いですね」


 三匹の犬の頭を、交互に撫でる。尻尾をぶんぶんと振る犬たちは、飼い主に聞いたところまだ二歳らしい。

 三匹それぞれの名前も教えてもらった。だけど家に着いた頃には、どれも忘れてしまっていた。

 もっと大切な何かが、上書かれてしまうような気がして。

 

 夜。お風呂に入って、浴槽の底に沈む。

 ここ数日、変なことばっかりだ。勉強には集中できないし。授業の内容も全く頭に入ってこない。見たことのないはずのものばかりに目がいって。心臓の裏側がざわざわする。

 おかしい。

 手のひらには、犬たちを撫でたときの柔らかな手触りが残っていた。

 それを振り切るように、お湯から頭を出す。

 こんなんじゃだめだ。もっと集中しないと。

 訳のわからないことに気を取られている場合じゃない。勉強して、いい大学にいって。それで、いい会社に入って。

 それが最も合理的な時間の使い方だって、分かっているじゃないか。


 お風呂から出ると、お父さんとお母さんがまた喧嘩をしていた。

 いつか離婚するのだろうか。毎日怒鳴り合うくらいなら、その方がいいのに。他人事のように、そんなことを思う。


「レイ、勉強はしているのか?そろそろ期末試験だろ」


 冷蔵庫の麦茶をコップに注いでいたら、八つ当たりのようにお父さんが話しかけてきた。二週間ぶりくらいに会話したような気がする。


「うん。やってるよ」


 短く答えて、自分の部屋へと撤退する。

 形骸化した親子の像がそこにあった。

 重い空気を吐くように、ため息をつく。こんなに冷え切った関係ではなかったはずなのに。どうしてかここ数日は、当たり前にあった家族というものが、遠いものに感じる。

 考えたってどうしようもないことばかりを、考えてしまう。

 どうでもいいと気にしていなかったことが、気になってしまう。

 見たこともないものばかりが、光って見える。

 まるで宇宙旅行から帰ってきた、宇宙飛行士のような気分だった。


「…………ラジオ聴こ」


 イヤホンのボリュームをあげる。いつか聞いた音楽が流れる。

 いつ聞いたんだっけ。確か、トラックに轢かれそうになったとき。

 あれは、一体誰だったんだろうか。私を後ろから引っ張ってくれた人。

 その日から、私はおかしくなった。

 雪の降っていた日。寒いのに、あたたかい。そんな不思議な日。

 窓の外を舞う雪の粒。静かな空。

 

 立ち上がって、窓を開ける。冬の澄んだ冷気が、柔らかくカーテンを持ち上げた。すぐそばを通り抜けるように、私の頬を撫でる。


 私は、何を忘れているんだろう。


 何となく、左手の薬指を撫でる。何もない。どうしてか胸がひどく痛む。

 はじめて感じる痛み。懐かしい痛み。


 窓の向こう。夜空を見上げた。淡く霞む、星の海。

 銀に瞬く塵。空を横切る、一筋の光。


 ――わたしはこの空を、見たことがある。


 心に、無数の閃光が散った。

 確信なんてものはない。だけど衝動が、銀の光の粒が。私の背中を、ここではないどこかへと突き動かす。


「こんな時間にどこいくの!?」


 お母さんの声を無視して、玄関に飛び出す。サンダルを引っ掛けて、夜の街に駆け出した。

 冬の匂いをかき分けるように、全力で走る。お風呂あがりの湿った髪が、頬に張り付いた。


 ――雪が降り続ける世界で。

 

 サンダルのかかとが、乾いた音を立てる。凍っていた時間がひび割れていく。

 息苦しくて、パジャマの第一ボタンを外す。より濃く、強く。染まっていく住宅街の喧騒を抜けて。


 ――あの人は。ずっと。

 

 全力疾走する寝巻きの女子高生に、通行人がぎょっと振り返った。何人にもぶつかりながら。罵声を浴びせられながら。それでも、足は止まらなかった。

 見据えた先には、未来がある。そのものを、追いかけるように。

 心臓が激しく音を立てる。

 高架下を、電車が滑るように追い越していく。車窓からの伸びるオレンジの光が、頬を濡らすものを照らした。


 ――どうして私は、忘れてしまったんだろう。


 疾走の先でたどり着いたのは、階段を何十段も駆け上がった丘の上。街のはずれに残された神社だった。

 夜空に漕ぎ出た先端で、星空を見上げる。

 瞬間の瞬きが無数に走る。

 儚い弧を描く、流星群。


 ――思い出せない。だけど、わかる。

 

 筆跡のように交差する、銀の軌跡を追いかける。目が眩むほどの光を見る。


 ――私はこの星を、見たことがある。

 

 遠い世界とこの世界に線を結ぶ、長い線を。

 薬指にはめられた、銀の指輪を。

 触れる指。揺れる髪。後ろ姿。横顔が。


 こんなの、全く論理的じゃない。成功する保証なんて何一つない。どうかしている。取り返しのつかない、リスクしかない道だ。


 一歩、前に出る。

 夜の街が一望できる丘の先端へ。光の群れに共鳴するように、心が叫んでいた。

 

 自ら命なんて、取るに足らないものがあると。私は知っていた。

 私には、行かなければならない場所がある。

 その不器用な優しさが、冷たい雪に覆われてしまわないように。

 

 薬指に感じる、指輪の確かな手触り。

 流星の軌跡に飛び乗るように。私は駆け出した。

 何度だって飛び越える。悲劇も、運命も、時間だって。私には追いつかない。追いつけない。

 例えここで全てが終わりになるとしても。それでも構わないんだと。知っていたから。

 

 どんなに遠く離れても、忘れられないものがある。

 愛とか恋とか、そんな言葉では言い尽くせないもの。

 触れていなくても、触れている。見えていなくても、そこにある。

 会いたい。その感情だけが、指し示す方へ。


 地面を蹴る。

 溢れるほどの流星へと、手を伸ばして。

 私は、階段のてっぺんから飛び降りた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ