16.流星群
日暮れとともに降り出した雪は、塾が終わる頃には、街を白く染めあげていた。
「さむっ」
コートの襟を引き寄せて、身を震わせる。
凍結した路面はヘッドライトに照らされ、白く輝いている。その上を、滑らないように慎重に歩く。
みんなペンギンみたいに変な格好で歩いているのは、面白いものだった。
歩きながら、街路樹の枝に降り積もる雪の粒を横目で見る。柔くて、あたたかそうな雪だった。
「……あったかいなんて、変なの」
どうしてそんなことを思うのか。勉強のし過ぎで、現代文の婉曲表現が私の感性にまで乗り移ったのかもしれない。
かじかんだ指先を、ポケットに突っ込む。ポケットの底に埋まったカイロは温もりを失い、固まり切っていた。
早く帰ろう。
歩きながら思い出すのは、学校からの帰り道に、横断歩道で轢かれそうになったこと。
あれは結局何だったんだろうか。時間が経つと、全部気のせいのような気がしてくる。
思えば今日一日、あれからおかしなことばっかりだった。
塾の授業には全然付いてけなくなっていて。というか、前回やった内容をすっぽりと忘れている。まるで、長い時間が経ったように。
「はぁ……期末やばいな」
白いため息を吐き出す。
私、唯坂レイはなかなか成績優秀な生徒なのだ。
別に勉強以外に、興味があることもないし。勉強していれば、親が喧嘩することもないから。冷え切った家族だとは思うけど、それなりに恩のようなものは感じていた。
それに、勉強は投資。未来に対して、最もコスパのいい時間の使い方だ。そう思っていた。
それなのに、落ち着かない。まるで大切なものがこぼれ落ちているのを、ただ見つめているような。そんな焦燥感。
「ただいま」
家に帰ると、迎える声はなかった。聞こえるのは何かを怒鳴るお母さんの声と、苛立ったお父さんの声。
きっと今日も些細なことを言い争っているのだろう。私に矛先を向くと面倒なので、逃げるように自分の部屋へ向かう。
机に広げた、教科書とノート。勉強している時間だけが、私に正解を与えてくれる。未来に対して、これが正解だと。最も合理的な時間の使い方であると、指し示してくれる。
だから、勉強は好きだった。
それなのに、なぜか今日は集中できない。文字が頭の中に入ってこない。形のないものを水ですすいでいるような感覚が、ずっとある。
落ち着かなくて遊ばせたシャーペンの先が、ノートの隅に丸を描く。手足の生えた、不恰好な雪だるまだった。
「ふふっ、変なの」
変な雪だるま。くすりと笑って、シャーペンを置く。机に肘をついて、微睡みながら窓を見る。
氷の宝石のように、街灯に照らされた雪の粒が、光の道のように夜空へと溶け込んでいく。
静かな夜に浸るように、私は目を瞑った。
* * *
朝。電車に揺られながら、車窓の外を流れる街を見ていた。
UFOにでも乗った宇宙人が現れて、私をこの街ではないどこかへ遠くの世界へ連れて行ってくれる。そんな妄想をした。
昼。友達とベランダから校庭を眺めていた。バスケをしている集団の中に、ひときわ背の高い男子を見つけた。何となく見つめていたら、パックの野菜ジュースをこぼした。
「ふーん。レイってああいう感じがタイプなんだ」
からかうような友達の視線。だけど、私が見ていたのは彼じゃない。彼なんだけど、多分彼じゃない。
連続する毎日の隙間に差し込まれた、見たこのない色のファイル。
投げられたバスケットボールが、リングに弾かれる。
「全然タイプじゃない。弱そうだもん」
「あはは、何それ」
放課後。学校からの帰り道、ブランドショップのウィンドウの前で立ち止まる。冬物のコートを着たマネキン。何かの影が目の端を横切って、振り返る。
「ちょっと待ってっ!」
女性の慌てた声とともに、視界に黒いものが飛び込んでくる。ひっくり返りそうになって、ひざに柔らかな肉球を感じた。
飛びかかってきたのは、キャンキャンと吠える三匹の小型犬だった。
「本当にすみません!ごめんなさい!」
「気にしないでください、可愛いですね」
三匹の犬の頭を、交互に撫でる。尻尾をぶんぶんと振る犬たちは、飼い主に聞いたところまだ二歳らしい。
三匹それぞれの名前も教えてもらった。だけど家に着いた頃には、どれも忘れてしまっていた。
もっと大切な何かが、上書かれてしまうような気がして。
夜。お風呂に入って、浴槽の底に沈む。
ここ数日、変なことばっかりだ。勉強には集中できないし。授業の内容も全く頭に入ってこない。見たことのないはずのものばかりに目がいって。心臓の裏側がざわざわする。
おかしい。
手のひらには、犬たちを撫でたときの柔らかな手触りが残っていた。
それを振り切るように、お湯から頭を出す。
こんなんじゃだめだ。もっと集中しないと。
訳のわからないことに気を取られている場合じゃない。勉強して、いい大学にいって。それで、いい会社に入って。
それが最も合理的な時間の使い方だって、分かっているじゃないか。
お風呂から出ると、お父さんとお母さんがまた喧嘩をしていた。
いつか離婚するのだろうか。毎日怒鳴り合うくらいなら、その方がいいのに。他人事のように、そんなことを思う。
「レイ、勉強はしているのか?そろそろ期末試験だろ」
冷蔵庫の麦茶をコップに注いでいたら、八つ当たりのようにお父さんが話しかけてきた。二週間ぶりくらいに会話したような気がする。
「うん。やってるよ」
短く答えて、自分の部屋へと撤退する。
形骸化した親子の像がそこにあった。
重い空気を吐くように、ため息をつく。こんなに冷え切った関係ではなかったはずなのに。どうしてかここ数日は、当たり前にあった家族というものが、遠いものに感じる。
考えたってどうしようもないことばかりを、考えてしまう。
どうでもいいと気にしていなかったことが、気になってしまう。
見たこともないものばかりが、光って見える。
まるで宇宙旅行から帰ってきた、宇宙飛行士のような気分だった。
「…………ラジオ聴こ」
イヤホンのボリュームをあげる。いつか聞いた音楽が流れる。
いつ聞いたんだっけ。確か、トラックに轢かれそうになったとき。
あれは、一体誰だったんだろうか。私を後ろから引っ張ってくれた人。
その日から、私はおかしくなった。
雪の降っていた日。寒いのに、あたたかい。そんな不思議な日。
窓の外を舞う雪の粒。静かな空。
立ち上がって、窓を開ける。冬の澄んだ冷気が、柔らかくカーテンを持ち上げた。すぐそばを通り抜けるように、私の頬を撫でる。
私は、何を忘れているんだろう。
何となく、左手の薬指を撫でる。何もない。どうしてか胸がひどく痛む。
はじめて感じる痛み。懐かしい痛み。
窓の向こう。夜空を見上げた。淡く霞む、星の海。
銀に瞬く塵。空を横切る、一筋の光。
――わたしはこの空を、見たことがある。
心に、無数の閃光が散った。
確信なんてものはない。だけど衝動が、銀の光の粒が。私の背中を、ここではないどこかへと突き動かす。
「こんな時間にどこいくの!?」
お母さんの声を無視して、玄関に飛び出す。サンダルを引っ掛けて、夜の街に駆け出した。
冬の匂いをかき分けるように、全力で走る。お風呂あがりの湿った髪が、頬に張り付いた。
――雪が降り続ける世界で。
サンダルのかかとが、乾いた音を立てる。凍っていた時間がひび割れていく。
息苦しくて、パジャマの第一ボタンを外す。より濃く、強く。染まっていく住宅街の喧騒を抜けて。
――あの人は。ずっと。
全力疾走する寝巻きの女子高生に、通行人がぎょっと振り返った。何人にもぶつかりながら。罵声を浴びせられながら。それでも、足は止まらなかった。
見据えた先には、未来がある。そのものを、追いかけるように。
心臓が激しく音を立てる。
高架下を、電車が滑るように追い越していく。車窓からの伸びるオレンジの光が、頬を濡らすものを照らした。
――どうして私は、忘れてしまったんだろう。
疾走の先でたどり着いたのは、階段を何十段も駆け上がった丘の上。街のはずれに残された神社だった。
夜空に漕ぎ出た先端で、星空を見上げる。
瞬間の瞬きが無数に走る。
儚い弧を描く、流星群。
――思い出せない。だけど、わかる。
筆跡のように交差する、銀の軌跡を追いかける。目が眩むほどの光を見る。
――私はこの星を、見たことがある。
遠い世界とこの世界に線を結ぶ、長い線を。
薬指にはめられた、銀の指輪を。
触れる指。揺れる髪。後ろ姿。横顔が。
こんなの、全く論理的じゃない。成功する保証なんて何一つない。どうかしている。取り返しのつかない、リスクしかない道だ。
一歩、前に出る。
夜の街が一望できる丘の先端へ。光の群れに共鳴するように、心が叫んでいた。
自ら命なんて、取るに足らないものがあると。私は知っていた。
私には、行かなければならない場所がある。
その不器用な優しさが、冷たい雪に覆われてしまわないように。
薬指に感じる、指輪の確かな手触り。
流星の軌跡に飛び乗るように。私は駆け出した。
何度だって飛び越える。悲劇も、運命も、時間だって。私には追いつかない。追いつけない。
例えここで全てが終わりになるとしても。それでも構わないんだと。知っていたから。
どんなに遠く離れても、忘れられないものがある。
愛とか恋とか、そんな言葉では言い尽くせないもの。
触れていなくても、触れている。見えていなくても、そこにある。
会いたい。その感情だけが、指し示す方へ。
地面を蹴る。
溢れるほどの流星へと、手を伸ばして。
私は、階段のてっぺんから飛び降りた。




