15.三度目のさよなら
七日目になった。
会話の少ない、それでいて穏やかな毎日。
絹で折られたような繊細な日々は柔らかく。まるで、悲劇から一番遠いところにいるような時間。
天国があれば、きっとこんな場所なのだろう。そう思わずにはいられない七日間だった。
夜になっても外の吹雪は止むことなく。
私と魔王様、そしてベルガをこの城に閉じ込めるように、今も吹き荒れている。
「外が気になるのか?」
書斎の窓から、星屑のような雪の結晶を眺める。
「この近くに、星が見える場所はありますか」
「城から離れれば、雪は止む。星の見える所くらいはあるが、行きたいか?」
「…………いえ、雪を眺めているだけで十分です」
ベル様ともう一度夜空を見上げれば、全部話してしまいそうな。そんな気がした。
「そうか」
ベル様はそれだけ言って、また本に目を落とす。ベル様の腰掛ける椅子にもたれかかるようにして、私も目を瞑る。
もう少しだけでいい。ベル様と同じ部屋で過ごすこの時間が、少しでも続いてほしい。
「今夜は流星が見られる。流星くらいは見たことあるか?」
「はい……流星は昨日ではないのですか?」
「星は数日間流れるものだ」
なぜ昨日だと知っている。そう咎められそうな気がして冷やりとしたが、ベル様は何も言わなかった。
眠る気も起きず。ただ本を眺める横顔を時折盗み見ては、目を閉じる。それだけの時間。
今、何時だろうか。
今夜0時が本当の最後。長かった私の旅、あるはずもなかった死後の時間が、ようやく幕を閉じる。
恐怖はなかった。後悔もない。私の心は夜の海のように、穏やかなものだった。
「そろそろ、寝ますね」
もう日付の変わる頃だろう。
立ち上がってベル様に告げる。返事はなかった。
美しいなんて言葉では、表現しきれない、雪の華のように繊細で冷淡な、その横顔を見る。
悪魔の言っていた魂のリサイクルが本当なのであれば。年百年、何千年先のどこかで、ベル様と再び出会うことがあったとき。この横顔を見て、思い出せるように。
「おやすみなさい」
ベル様の瞳は、私を映すことはなかった。
光を失った薬指の銀の指輪を撫でて、書斎を出る。
――よく似合っている。
いつか言われた、ベル様の言葉を思い出して。
戻った自分の部屋は、澄んだ夜の空気だけが降り積もる、静かな部屋だった。
冷たいシーツに横たわって、目を閉じる。瞼の裏ではベル様と過ごした二週間ほどの時間が、色鮮やかに踊る。
ベルガの突進、ベル様との出会い。雪遊びをして、お風呂に入って。地下室に忍び込んで、喧嘩もした。あの時に感じた身が裂けるほどの悲しみも、今では些細な喧嘩とすら思えてしまう。
時間とは不思議なものだ。そして、そんな時間に翻弄され、私は三度の旅をした。
何度時間を巻き戻しても、後戻りはできない。私には前に進むことしかできなかった。
そうしてたどり着いた、最後のループ。この結末が、正解だったのかはわからない。
合理的な結果なんて、何一つ残せてない。だけどそれでも、私の心は満たされていた。
例えこのまま死んでも、ベル様に思い出して貰えなくても。それでもいいと思えるものが、確かに私の心では、息づいていたから。
それは、思考なんかでは説明のつかない。論理の外にある、揺るぎないもの。
「あと10分だよ」
いつの間にか現れた悪魔が、ベッドに腰掛けていた。
「キミにはがっかりだ」
「お前には一生わからないよ」
「へぇ……まるで、私の知らない何かを知っているみたいな口ぶりじゃないか」
悪魔が口の端を吊り上げる。だけど、何の思いも湧かなかった。思えば、この悪魔を見るのも最後になるのだろう。
「お前が何度魔王様を殺そうとしても、魔王様は死なない。彼女を殺すことはできない」
「人間のくせによく知っているね。少しだけキミを見直したよ」
ベル様は強い。悪魔が手出しをできないくらいに。そんなベル様は、一度命を落とした。
私なんかのために。
「そんなに悲しみが食べたいなら、私のを食べればいい。お前をしばらく満足させられるくらいには持っているよ。四人分くらいはね」
悪魔の、紫紺に澱んだ瞳をまっすぐ見つめる。
この悪魔のせいで、四回の死を味わった。居眠り運転にはねられて、この悪魔に二回も殺されて。そして、ベル様にも。
随分と、散々な目にあった。だけど、そんな日々すらも、散りばめられた想いによって、愛おしいと思える。
泣きたいくらいに。
「私は、お前に食べられてもいいよ」
悪魔は一瞬、虚をつかれたように眉を上げた。そして、ケタケタと肩を揺らして笑う。
「ははははっ、面白いこと言うなぁ。がっかりしたというのは取り下げよう。こんなに面白いものを見たのは久しぶりだ。豪胆なのか愚かなのか」
ひとしきり笑うと、悪魔の肌が脈打って、どろどろと溶けていく。その内側から溢れるのは、いつか見た狂気。
反響する呪詛と、虫の脚のように蠢く、捩れた腕。
「――遠慮なく食べさせてもらうよ。キミの悲しみを」
赤黒い口が、ぱっくりと開く。乱雑に生えた刃のような歯が見える。それは、世界から私を切り離すようで。巨大な魚がプランクトンを吸い込むように、迫った。
視界が、黒に飲み込まれていく。
長い長い旅の終焉。
無と化した世界で、白い夢を見る。
白い雪。白い肌。白い風。
――――さようなら、ベル様。
「やはり、お前の仕業か」
目を開く。暗闇に、光が差す。
それは肉の壁に走る、数千もの線。
「この世界はすべて私のもの」
いくつもの肉片へと散る悪魔の体。
吹き荒れる風が、欠片を散らせる。その向こうには、銀の光が立っていた。
「この世界にお前のいる場所はない」
どんな想像すらも届かない。美しく清廉な、雪の魔王。
どうしてベル様が、ここにいるのか。
だけど細かく刻まれた悪魔の体は、パンの生地のようにくっついて、すぐに元の少女の姿へと戻っていた。
「無駄だよ。分かっているだろう。キミにはボクを殺せない。それにこの人間は、一度死んでいる。魂は私のものさ」
「ふん。相変わらず姑息なやつだ。これだから弱いものは嫌いなのだ」
嘲笑うような悪魔の笑みに、ベル様の瞳に憎悪が宿る。
「さぁ、どうする?このままだと、この人間はいずれ私に食べられる。キミが心臓を抉って悲しみを寄越すのなら、考えてやらないこともないけどね」
「ダメです、ベル様っ!」
悪魔の口車に乗ったらだめだ。もう指輪の力は残っていない。ここでベル様が死んでしまったら、取り戻す術はない。巻き戻せないのだ。
それは、最悪の結末。
「やはりこれは、私がお前に渡したのだな」
ベル様が、私の左手を取った。そして、薬指からそっと銀のリングを抜く。
ベル様の手に収まったリングは、光を失っても尚、夜の青白い光で輝いているように見えた。
「これは、時渡りの指輪。光の数だけ時を戻し、違う運命へと誘う」
「だけど私は、もう全て使い果たしてしまいました。だから、もうその指輪は……」
もしもこの指輪がベル様のもとにあれば、もっといい使い方ができたのかもしれない。だけど、私には結局、何も成せなかった。
どうすることもできず、ただベル様の姿を追いかけることしか。
「よく守ってくれた、人間――――この指輪の本来の姿を、覚えているな」
それは、呼び声だった。
魔王の忠実な魔犬が、暗闇から美しく強大な姿を現す。
それは暗い光となって、ベル様の薬指に収まった。鋭く重たい光を放つ黒の指輪。石座で輝く、銀の光。纏う光の粒が、天の川のように立ち昇る。
指輪を撫でたベル様は凛然と。何かを読むように、宙に立ちのぼる光を見つめていた。
「なるほど…………私は、愚かなものだ」
ほんの僅かな一瞬の間。それはまるで、何年もの記憶を覗いているような、悠久。
こんなことが、あるのだろうか。こんなに、幸せなことが。
宙へと向けられていた瞳が、しなやかな光を帯びて私を見る。それは、星空の下で私を見たあの瞳。
「すまないことをしたな」
「ベル、様…………」
ベル様の手に、白銀のナイフが現れる。握られた刃の先は、迷うこともなくベル様の左胸にあてられていた。
薬指の黒銀の指輪。ベル様の突き立てた、輝くナイフ。
その意味することに気づく。
「いやだっ、ベル様っ……!!!」
やっと、また会えたのに。
やっと、思い出してくれたのに。またお別れなのか。
ずるいよそんなの。私は何もできなかったのに。ベル様は。
突き立てられた刃を止めようと、手を伸ばす。
困ったように微笑む、魔王様へと。
「私を許してくれるな?……レイ」
伸ばした指先は届くことなく、濁流のように溢れ出した時が、私を押し流す。
ベル様が、何かを呟くのが見えた。だけどその声は、届くことなく消えていく。
遥か遠く。運命も論理すらも届かない、宇宙の端へと。
最後に聞いたベル様の声は、忘れ難いほど苦しくて。そして、泣きたくなるほど優しいものだった。
* * *
『十二月五日金曜日。時刻は午後十八時になりました。毎週金曜日のミュージックウェーブ』
流れ出す、テンポのいい音楽とパーソナリティの小気味よいトーク。
私の胸に、居心地の良い空気が入り込む。
『ミュージックウェーブでは、皆様からのアツいリクエストソングをご紹介しています。早速ですが、一曲。ペンネーム雪男さん。"ふたご座流星群まで、あと一週間になりました。流れ星を見ると、いつもこの曲を思い出します。遠く離れた人を思う気持ちを星になぞらえた、名曲中の名曲です。"』
歌はやっぱりいい。懐かしい音楽が肌の内側を温めるように、言葉のシャワーとなって私の体を巡る。
信号が青に変わる。交差点へと踏み出す。
吹き付ける冷気。控えめな冬の気配に、顔をマフラーに埋める。
キャメルのダッフルコートの袖に、花のような結晶が浮かんで消えた。
「雪」
夜空を見上げる。今朝の天気予報では、雪は夜明けからだと言っていたけれど。
コートの上から、刺すような冷気を感じて身震いする。
早く行こう。
雪に見惚れそうになって、思わず前を向く。このまま積もったら、明日は校庭で雪遊びでもしようか。友達を誘って。雪だるまが作れるくらいに、積もったらいい。
歩き出した横断歩道が、突然真っ白に染まった。
爆発するように、甲高いクラクションが鳴り響く。
認識した瞬間に、脊髄反射で振り向いていた。
「うそ」
視認する。目前に迫るトラック。
運転手、居眠りしてるじゃん。完全に信号無視だ。いくら私が頭の回転が早い天才的な女子高生でも。この距離は避けられない。
――――死ぬ。
その瞬間だった。誰かにコートの首元を強く引っ張られ、二本三歩と仰け反る。
鼻のすぐ先を、トラックが通り抜けていった。
巻き起こる風に、スカートがはためく。
「たすかった…………?」
居眠り運転のトラックは、少し先のガードレールに接触して停車していた。
よかった、怪我人はいなさそうだ。
一瞬頭によぎった走馬灯。それを思い出す間もなく、振り返る。
トラックが迫ったあの瞬間、確かに誰かに後ろから引っ張られた気がした。
だけど、私の後ろにはトラックの事故を見る野次馬ばかりで。私を気にかけるような人影は見えない。
気のせいだろうか。
コートの首元に触れる。冷んやりとした水滴。それはまるで、雪が溶けたあとのようで。
「私の日頃の行いがいいから……?」
そういうことにした。




