14.最後のループ
吹き荒れる雪の粒が、視界を奪った。
転移した先は、吹雪なんて表現すらも生易しいほどの、悪天候だった。
「何も見えない」
独り言のように呟いた唇から、白い息がこぼれる。
コートの生地は真っ白に染まり、視界が揺れた。
魔王城はどっちだ。
前回の転移よりも、天候は悪化している。
分かれ道にあるはずの看板も雪男の姿すらも見えない。
「寒い……」
意識が遠のきそうになる。
風の音が耳たぶを打ち、進むたびに体が重たくなった。
雪の深みに、片足を取られる。動けないまま、辺りに雪が降り積もる。
早く、会いに行かないと。ベル様のもとへ。
雪に覆われた身体が、ゆっくりと沈むように。
寒さすらも感じない暗い穴の中へと、意識が吸い込まれる。
「おい」
堆積した泥を掻きわけるように、低い声がした。
「おい、人間」
瞼を開ける。雪の向こうで私を見る、見慣れた人影。
雪に溶ける白銀の髪と、じっとこちらを見下ろす赤い瞳。
「お前、どこから来た?」
「…………」
会いたいと望んだ人が、もう一度、私の目の前にいる。腕を伸ばそうとして、雪に沈んでいることに気がつく。
「喋れないのか?」
「…………」
胸に込み上げるものは、濁流のように激しくて。だけれど、口にできるものは何もなかった。
私がどこから来たのか。ベル様からの質問には、答えようがなかったから。
悪魔との関係を仄めかせば、きっとまた殺されてしまう。
言葉が見つからず沈黙していると、ベル様は呆れたようにため息をついた。
「変な人間だ……城へ連れていく。お前は戻っていい」
ベル様が、隣の何かに話しかける。そこにいたのは、いつか見た雪男だった。
「全くつまらない魔王だ。今度はクールなジョークの一つくらい聞かせてくれよ」
「いいからさっさと行け」
雪男が、私のことをベル様に知らせてくれたのだろうか。
「眠るなよ、死ぬぞ」
ベル様が、私を雪の中から引きずり出す。そして、私の体を軽々と担ぎ上げて歩き出した。
「しばらく私の城に置いてやる」
それが、私が魔王城に留まることを許された理由だった。
* * *
三度目のベル様との生活は、感情をなるべく削いだような無機質な日々の繰り返しだった。
毎朝、暖炉には薪が焚べられていた。そして、机には硬いパンが置かれていた。ひと口齧るのがやっとなほどの、固くて冷たいパン。
それでも、何度も時を渡ってきた私にとっては、何にも代え難いものだった。
毎日、日が昇る頃に部屋を出て、ベル様の書斎へ行く。
そして日が沈むまで、本を読むベル様の横顔を眺める。それだけの毎日だった。
目の前には、確かにベル様がいる。けれど、私を抱き寄せてくれたベル様ではない。
私のことを知らず、むしろ警戒し、時には殺すほどの疑念を向ける魔王なのだ。
書斎の隅で寝転がるベルガの6つの瞳が、時折こちらを伺うように見る。悪戯好きで、人が大好きな魔犬。だけど、私は何をする気にもなれなかった。
静かな部屋に、ベル様がページをめくる音と、ベルガの欠伸をする音だけが響いた。
流れる時間は穏やかで、赤い瞳が私を捉えることもない。殺意を向けられることもなければ、愛情を向けられることもない。そんな、何の色もない時間だけが流れていく。
でも、それだけで十分だった。
十分過ぎて、時折こぼれそうになる涙を堪えては、私も本に視線を落とすふりをする。
私もベル様も、文字が読めないのに。
それなのに二人して、静かにページをめくる時間は、何とも不思議で。痛いほどに、愛おしいものだった。
そうして、あっという間に三日が過ぎた。
四日目の午前0時。
「折り返しだよ」
耳元で、甘い囁きが聞こえた。
前回はいつだったか。確か、ベル様と初めて一緒にお風呂に入った後のことだった。
いまの私は一人。
ベッドに腰掛ける私に、窓枠に腰掛けるようにして、悪魔が微笑んでいた。
夜の闇に紛れるように悪魔の体は薄く染まり、微笑みは底知れぬ悪意に満ちている。
「あと三日、どうするの?」
問いかける声は優しいのに、音色は残酷なものだった。
あと三日。何をしたらいいのかなんて、分からない。
どう過ごしても後悔が残ることだけが、わかっていたから。
「…………魔王様から、悲しみを取り戻す。」
言葉に、絶望が重くのしかかる。
この穏やかな毎日は、別れの先延ばしに過ぎないことを思い出す。
「そう。楽しみにしているよ」
含むような笑い声とともに、悪魔の体は夜に消えた。
一人、ベッドに寝そべって天井を見上げる。
どうして私は、ベル様のことを愛してしまったのだろう。
瞬く度に、頬を濡らす筋。
私の抱いているベル様への気持ちは、燃え盛るような恋慕でもなければ、純真な片思いでもない。
光の消えた銀の指輪を、雪の降り止まない夜に翳す。
ベル様が、この指輪を私に寄越した意味を考える。
この指輪がなければ、孤独に苛まれることもなく、消えてなくなれたのに。
それなのに、この指輪だけが私とベル様の歩んだ七日間の、唯一の証跡になっているのは、何とも皮肉なものだった。
* * *
四日目の朝になった。
ほとんど食事が喉を通らなかったせいか。それとも昨晩、久しぶりに悪魔の姿を目にしたせいか。
この日の私は、ベッドから起き上がることすらできなくなっていた。
ベル様に会いに行かないと。時間が勿体無い。
そう思っているのに、どうしても体に力が入らない。心よりも先に、体が悲鳴をあげているようだった。
「……あいつに声をかけろというのか?」
動かない体とひとり格闘していると、扉の向こうからベル様の声が聞こえた。囁くような、隠れるような。そんな、小さな声だった。
そんなベル様の機微に気づかない、もう一匹の声も。
「ワン!」
「こら!静かにしろ、ベルガ」
「ワン!ワン!」
「…………はぁ。お前は面倒なやつだな」
しばらくの沈黙の後、部屋の扉がわずかに開く。
「おい。今日は来ないのか?」
いかにも不機嫌そうな声だった。
だけど、それでも。空気を吹き込まれたように、無気力だった体に、熱が満ちていく。
見えなくてもわかる。ベル様の表情。仏頂面で、きっとベルガを睨んでいて。その隣で尻尾を振る、三つ頭の黒い魔犬の姿も。
ベル様の声が、私を呼んでいる。
「いま、行きます」
初めて出た声は、ひどく掠れていた。
だけれど、ベル様にはちゃんと届いたようで。書斎の方へと足音が遠のく。
人の気持ちというものは、どうしてこうも単純なのだろうか。起き上がった体。頬を伝う雫が、シーツに落ちた。
ただひと言だけ、声をかけられただけで。枯渇していた全てが、息を吹き返す。身を裂かれるほどの痛みも、寂しさも。何も及ばないほどに、満たされてしまう。
「ベル様っ…………」
頬を伝う涙を拭う。廊下の先を歩く背中を追った。
書斎で物憂げに座る、ベル様の隣へ。
ベル様は何も言わなかった。何も言わずに本を読む静謐なその横顔を、盗み見る。
透き通る銀の睫毛。彫刻のように繊細な輪郭。儚さを孕んだ、茜色に染まる瞳。
ずっと眠れない夜を過ごしていたせいか、横顔を見つめているうちに、気がつけば浅瀬の波に攫われるようにして、夢の中へ落ちていた。
幸せな夢だった。
ベル様との最初の七日間に戻って、抱きしめられる夢。もう頑張らなくていいと、微笑む瞳に、重なる指先。抱き寄せられ、柔らかな日差しだけがある世界。
――けれどそれは、一瞬にして悪魔の手によって壊される。
ベル様の胸には刃が突き立てられ、繋いだ手は真っ赤に染まる。どろどろと、崩れていくベル様の姿。
「ベル様っ!!!」
自分の叫び声とともに、目を覚ました。
心臓がばくばくと鳴って、背中は不快なほど冷や汗で濡れている。
気がつくと、ベル様が私を覗き込んでいた。
「……大丈夫か?」
怪訝そうに眉を寄せて、ベル様の手のひらが私の指先に触れた。
久しぶりに触れる、ベル様の温もり。
まだベル様は生きてる。それだけで、涙が溢れた。
泣いてばかりだ。
「ごめんなさい、何でもないです……」
ベル様は立ち上がると、ベルガを呼んだ。散歩に行くつもりなのだろう。
「お前も来るか?」
ほんの気まぐれだろうか。
いや、多分違う。様子のおかしい私を、気遣ってくれているのだ。
「無理強いはしない」
振り返ったベル様に、私は頷いた。
* * *
雪の中を歩く。
ベルガが先を歩き、私とベル様がゆっくりその後を進む。
「眠れていないのか?」
「……悪い夢ばかり、見てしまうので」
「そうか」
ベル様の魔法のせいなのだろうか。城の周りだけは、吹雪はわずかに弱まっていた。
静かな白い庭を、ベルガの足跡を辿るように並んで歩く。
「人間にこの国は寒いだろう」
前にも、同じことを言われた。
「さっきお前の言っていたベルとは、誰なんだ?」
ベル様の足は止まって、赤い瞳が私を見つめていた。
ちらつく雪が、ベル様の外套に降りかかっては、儚く消えていく。
胸の奥が痛むのを感じながら、唇を噛み締める。何でもないことだと。自分に言い聞かせるように。
「私の、好きな人の名前です」
ベル様からの返事はなかった。朱に染まったベル様の瞳には、何の感情も見えない。
残りの三日間で、私はベル様に何を残せるのだろうか。
「この近くには人の村がある。数少ない、人間の村だ。」
「人間は、少ないのですか?」
「数百年前に、悪魔が現れたせいでな。」
心臓が跳ねて、唾を飲み込む。
私とベル様の命を奪った、あの悪魔のことだろう。
「……いま、その悪魔は?」
「休戦中みたいなものだ。だがそのせいで、この城は冬のまま。雪が止むことはない」
冬が終わらないのはきっと、ベル様の心臓に悪魔の餌となる悲しみを封印しているせいなのだろう。
「吹雪が落ち着いたら、その村へ行くといい。雪男にでも案内をさせてやる」
「……ありがとうございます」
ベル様が、再び歩き出す。その背中を見つめる。
「魔王様、人間はお嫌いですか?」
「ふん。弱いものは嫌いだ」
私が最後のループを終えた後、ベル様はずっとこのお城でひとり暮らすのだろうか。
世界中の悲しみを、その胸に抱いたまま。冬の中に閉ざされたこの城で。
「魔王様っ」
「……なんだ?」
何か声をかけたくて、詰まる。
残りの数日で、私に何ができるというのだろうか。
運命を追い越す力なんて私にはなくて、ベル様の未来に私はいない。
「…………お風呂って、知っていますか?」
「何だそれは」
「お風呂は、大きな容器にお湯を張ったものです。体をつけると、あったかくて気持ちいいんですよ」
「そんなものか。くだらない」
先を行く外套の背中を追いかける。
もしも、いつか。
私のいない遠い未来で、ベル様を愛する人間が訪ねてきたら。ベル様も、その人間を愛するのだとしたら。
「いつか、魔王様も入ってみてくださいね」
雪の舞う空。その奥まで手を伸ばすように、遠くを見上げる。
降り止むことがないのだとしたら、この雪だけが、ベル様の未来を見守ってくれるのだろう。




