13.終わりなき死
城のダイニングルーム。ここは、ベル様と私が一緒に食事をした部屋だ。
だけど、暖炉に薪の焚べられていないその部屋は、私の知っている部屋とは似つかないほど、寒い部屋だった。
思わず身震いして、ダッフルコートのポケットに手を突っ込む。
だからベル様は、私のためにいつも火を焚いてくれていたんだ。
何もかもが無に返った世界で触れる、あの七日間に確かに注がれていた、ベル様の優しさの欠片。
それは、今となっては見ることができないもののはずなのに。切ないほどに、愛おしい光を放っていた。
「ベル様…………」
城の廊下を歩きながら、窓の外を覗く。音のない吹雪に包まれた、雪の庭が広がっていた。
白銀の中を、ベルガを連れたベル様がゆっくりと歩いているのが見える。
真っ白な世界に鮮烈に映える、ベル様の真っ黒な外套。その横をぴったりと寄り添って歩くベルガの姿もまた、美しく見えた。
息を詰めて、その姿を見つめる。
ベル様はふと足を止め、ベルガの頭を撫でた。満足げに目を細めるベルガが、寄り添うようにベル様に身を寄せる。
息苦しくなって、思わず目を逸らす。胸の奥を掴まれたような痛みが走っていた。
あの指先に撫でられる感覚を、私は知っている。
あの腕に抱き寄せられたことを、私だけが知っている。
けれど、それをベル様に伝えることはできない。
「……魔王様。」
ベル様ではない。今は魔王様なのだと。
声にならない言葉が、窓ガラスに落ちる。涙が頬を伝い、廊下の冷気がそれを乾かした。
窓の向こうで、魔王様がこちらを向いた。
一瞬、目が合った気がした。ベルガと雪遊びをして、目があった瞬間を思い出す。寒さに凍えないように、魔法をかけてくれた、優しい瞳を。
けれど、今はその瞳には何の感情も宿っていない。ただ、冷たい冬の色を湛えているだけだった。
私はすぐにカーテンの陰に隠れ、唇を噛み締めた。
もし、すべてを話したら。魔王様は私を、信じてくれるだろうか。
階段を登って、魔王様の部屋の前に立つ。最後の夜に、一緒に過ごした部屋。
シーツの感触を思い出すように、誰もいない部屋を見つめた。
魔王様の心臓に埋め込まれた悲しみを解放したいと思うのは、烏滸がましい願いなのだろうか。
だけど、そのために私はいま、この場所に立っている。
目的は、魔王様に私のことを思い出してもらうことじゃない。もう一度、好きになってもらうことでもない。
睨むように、窓の外の吹雪を見る。
例え魔王様に憎まれたとしても。あの異形の悪魔を討てれば、それだけでいいのだ。
城の重たい扉が開く音がした。
魔王様が、ベルガの散歩から帰ってきた。
「お帰りなさい」
迎えるように階段を降りる。魔王様はこちらを一瞥すると、眉間に皺を寄せた。
「どけ。邪魔だ」
階段ですれ違う。その姿を、呼び止める。
「魔王様っ!私がこの城に来た理由を、聞いてはくれませんか」
頭を下げる。魔王様が、階段の途中で立ち止まった気配がした。
「……いいだろう。聞いてやる」
顔をあげる。魔王様の指先が少しでも動けば、私は一瞬で消し去られてしまうような、そんな緊張感。
折れそうになる心を、なんとか保つ。引くな。前に進むことしかできないんだから、私は。
「私は、一度死んだ身なんです」
魔王様の視線に、殺気が帯びる。細まった瞳には、明らかな怒気が含まれていた。
悪魔の存在が、魔王様の脳裏によぎっている。そう確信するほどの、剥き出しの敵意。
「7日以内にあなたの奪った”悲しみ”を取り戻せと言われました。そうすれば、私を生き返らせると」
沈黙が落ちる。息をすることすらも許されない緊張。張り詰めた空気に、魔王様の赤い瞳が鋭く光った。
「なるほど」
魔王様の口元が、微かにあがった。鼻で笑う声。嘲笑うような、冷ややかな微笑みだった。
「人間の形を模倣するなど、考えたものだな。悪魔」
「違うっ」
「黙れ!!!」
怒号が響いた瞬間、重圧が襲いかかる。まるで世界から酸素がなくなったみたいに、城の中の空気が殺意を帯びた。
「私は魔王様と一緒に、あの悪魔を――」
私は魔王様を、ベル様を助けたいのに。それなのに。
侮蔑する視線へと腕を伸ばす。届くことはないと、分かっているのに。
「貴様が例え悪魔に操られた存在なのだとしても、殺さぬ理由はない。人ではないのだから」
人ではない。そのひと言に、言葉が消えていく。魔王様の言うとおりだった。
人が好きな心の優しい魔王様。そんな魔王様にとっては、私は敵でしかない。
私がいなければ、魔王様は死ぬこともなく、ずっと魔王様でいられるのだから。"はじめまして"すら必要がないということに、今さら気がつく。
だとすれば、憎むべきは魔王様ではない。愚かで傲慢で、何もできない。ここに立つ自分以外に、誰がいるのか。
魔王様が手をかざす。私に指輪をはめたその指先が、私の方を向く。
「ベル、様」
「――――死ね」
灼熱の閃光が視界を焼き尽くした。
燃え盛る光。それは、これが私の運命なのだと。
消えない焼印を押すようなほどの、眩しい光だった。
* * *
小さい頃。たぶん、幼稚園くらいの時だった。お父さんが私の壊した玩具を、修理しようとしたことがあった。
ボタンを押すと音声や音楽が流れる、たったそれだけの単純な機能を持った、犬のぬいぐるみだった。
「こんなのすぐに直せる。捨てるなんて勿体無いだろう」
そう言って修理にかかったお父さんは、中々直らない玩具にだんだんと苛立っていった。
「なんで壊すんだ!お前がもっと大事に扱わないからこんなことになるんだろう!」
勝手に直すと言い出して、うまくいかないと怒鳴り出す。そんなお父さんに、お母さんまでも「いつまでやっているのか」と不機嫌になっていった。
やがて不穏な空気は、両親の怒鳴り合いにまで発展して。このまま自分のせいで、家族がバラバラになってしまうんじゃないかという不安を抱いた。同時に、「それなら修理なんてやめて、さっさと捨ててしまえばよかったのに。頭が悪いな」なんて。
こんな大人にはなりたくないと、幼いながら思ったものだった。
そんな両親との摩擦によって、私の合理性ばかりを気にする性格は、形づくられたのかもしれない。
「唯坂レイ。悲しみのない世界で、魔王から悲しみを取り戻してくれ。そうすれば、もう一度生き返らせてやろう。ただし、期限は七日間だ。」
まただ。
また、戻ってしまった。
「………………っ!」
こみ上げる絶望に、涙が滲む。
「ぐ、うっ………………!!!」
薄く張った水の上に拳を振り上げる。水音が虚しく響いた。
ベル様に信じてもらえなかった。信じてもらえないまま、私はベル様に殺された。
これで、また最初からベル様に会いにいくというのか。もう一度、ベル様に殺されにいくのか。
指輪の石を見る。光はもう残っていない。これが最後だ。これで死ねば、私は本当の死を迎えることになる。
「うっ、ぐ………………っ!」
私は、人ではない。
ベル様に言われた言葉が、私の心臓を握りつぶす。
そんな心理のせいか、空を映した水の大地は脈打っていた。
「随分と混乱しているようだね。まぁ死んだばかりだし、無理ないか。どれだけ嘆いていようが、ここは死後の世界。誰もキミを責めたりはしない」
悪魔が猫なで声で囁く。
耳を貸したらだめだ。そう分かっているのに、考えてしまう。
もう私は十分頑張ったんじゃないか。ここで手を引くのが、合理的な選択なんじゃないかと。
そうでなければ、ベル様のことすら恨んでしまう気がした。子どもの頃に見た、両親のように。
「私はっ………………」
どうすればいいのかわからない。どう判断したら、私の望む未来に辿り着けるのか。
私が求めている未来。悪魔を倒して、ベル様の心臓から悲しみを解放する未来。
最善の選択なんて、わかりきっていた。
悪魔の提案を飲んで、ベル様に危険が迫っていることを伝えて。疑われたまま、私はベル様に殺されること。
そうすれば、ベル様が悪魔に殺されることはないだろう。差し向けられた人間に、容易に心を開くこともないだろうから。
それが最善で合理的な選択だと、頭ではわかりきっているのに。
「嫌だよ、ベル様…………」
水に映る、醜い自分に呟く。
どうしても選べなかった。頭でわかっているのに、心が嫌だと。私の選択を拒んでいた。
「もう一回、会いたいよっ……」
涙が、鏡面を揺らす。
ベル様に出会って、痛くて苦しいことばかりなのに、それなのに、まだ振り切れないでいる。
出会うまでは知らなかった感情が、私の合理性の檻から抜け出そうと、もがいていた。
「答えは決まったかい?」
運命なんてものは、きっとない。
近づこうとすればするほど、遠くなっていく。
だけど、それでも。
「……私は魔王様に、会いに行きます。」
殺されるためじゃない。悪魔を倒すためでもない。
ただ七日間、隣で。あの美しい横顔を眺めるためだけに。
これは、私と魔王様の七日間の記録。
寡黙で心優しくて、美しい。不器用だけど人間が大好きな。
そんな魔王様に奪われた悲しみを取り戻すために、転生した私の。
最後の七日間の記録だ。




