11.怪物
見渡す限りの、張り詰めた空。鏡のような世界。
間違いなくここは、ベル様の世界に行く前に辿り着いた世界だった。
私はこの場所で、あの悪魔の提案を受け入れてしまったのだ。ベル様から悲しみを取り返すと。悪魔の口車に乗って。
――やっぱり時間が、巻き戻っている。
「どうしたんだい?選ばないのかい?」
金の髪を揺らして、悪魔が首を傾げる。
闇のように深い紫色の瞳。水面を遊ぶ指先に、自らの死に際が脳裏によぎった。
無意識に胸元に手を当てるが、そこには傷のようなものは何もない。
「…………選ばないと、どうなるの」
「このまま死ぬだけだよ」
涼やかな声が響く。
金の粒子を纏った悪魔は、まるで何事もなかったかのように、穏やかな笑みを浮かべていた。
確かに見たはずの、ベル様が自らの心臓を抉った姿。
確かに聞いたはずの、悪魔が自分を殺した瞬間の、冷たい声。
私の時間は巻き戻っている。だけど、目の前の悪魔にはあの未来の記憶は失われているらしい。
つまり、私だけが過去に飛んだということ。
時が巻き戻る前に、白い輝きを放っていた指輪を見る。オリオンのベルトのように三つあったはずの青緑色の宝石が、一つ消えている。
時間の逆流の原因は、きっとこの指輪。ベル様がくれた、私への最初で最後の贈り物。きっとそれが、私の命を救ってくれたのだ。
「さぁ、答えを聞こう」
考えろ。目を瞑って俯く。
瞼の裏に蘇る。桜のように散る雪。その下で手を引く、無愛想な横顔――私の目の前で、冷たくなっていく体。心臓に直接刻まれたような、苦痛溢れる未来の記憶。
もう二度と、ベル様を失わないように。
今度こそ、最善の選択を。
この理不尽な運命を、終わらせるために。
悪魔を見据える。
「…………わかった。」
努めて平静を装いながら、静かに答える。
けれど、もう騙されはしない。
天使のように笑う案内人。その本性は、人間に似せた肌を被った、恐ろしい怪物。悪魔だ。
ベル様が人々の悲しみを封じていたのなら、それを奪おうとしていたのは。目の前で笑うこいつこそが、本当の『魔』だ。
人の姿に偽装した怪物。
悲しみを食らい、絶望を糧にする闇の化身。
まさに、悪魔。
「……お前が、全ての元凶。」
呟くと、右の手のひらを握って、強く念じる。
一度目にこの悪魔と出会ったとき、このウユニ塩湖のような場所は、私の想像の世界だと言っていた。
人間が想像する天国の姿に、移り変わっていると。
だとすれば。
「…………ふぅん?」
悪魔の笑みが、かすかに歪む。
それはまるで、私に興味を示すような反応だった。
「何をするんだい?」
「決まってる……お前を、殺す!」
悪魔へと飛びかかる。想像のまま、私の握った右手に現れる刀剣。それは、ベル様の宝物庫で見た光輝く銀色の剣。
やっぱり推測通りだ。この世界では、私の想像したものを具現化させることができる。
これなら、倒せる。
確かな重さを持つ刀剣の柄を両手で握りしめる。
そして、渾身の力で悪魔の脳天へと振り下ろした。
——だけど。
「人間の悲しみはね、増殖するんだ」
瞬間。
悪魔の形は、まるで壊れた人形のように歪む。半透明の白の皮が、メッキのようにボロボロと剥がれ落ちる。
露わになったのは、闇。
「倒懸惨痛、甘美で堪らない感情」
深く、深く、果てしなく広がる暗黒。
その向こうから溢れ出す、ねじれた無数の腕、異形の眼、裂けた口から響くのは呪詛のような声。悪魔だなんて言葉でも足りない。それはさながら、地獄の門。
「ひっ」
膨れ上がった絶望。
真っ赤に裂けた悍ましい口が開いた。並んだ百もの歯は、銀の刀剣を容易く噛み砕いて。
「ああ、君の悲しみも美味しそうだ」
悪魔の声とともに、私の意識は黒に飲み込まれていった。
* * *
海に沈んだ鉛のように、重たくなった体。強烈な眩暈と吐き気。
反復する耳鳴りの向こうで、声がする。
「唯坂レイ。悲しみのない世界で、魔王から悲しみを取り戻してくれ。そうすれば、もう一度生き返らせてやろう。ただし、期限は七日間だ。」
聞き覚えのある声。
見覚えのある光景。
鳥肌が立つほどの忌々しい微笑みに。
私は嘔吐した。




