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10.はじまり

 ベル様と帰った夜の魔王城は、普段よりも静まり返っていた。

 降り積もる雪も、暖炉の炎も。まるで今夜だけは、声を顰めているようだった。


 お城の正面階段を登り切った先。

 私とベル様が、初めて出会った場所。


「懐かしいですね。ベルガに突進されて、階段から転げ落ちたの。」

「レイが意識を失ったときは、困ったものだった。」

「ベル様が部屋まで運んでくれたんですか?」

「あのまま寝かせていたら、ベルガの涎まみれになるところだったからな。」


 初めて見たベル様の姿は、雪のように冷たかった。

 だけど、今は。

 滑らかな指先を握る。ベル様は払うことなく、私の指の先をわずかに握り返した。感触と温度。それ以上のものが、波のように私の心を伝わる。


「ベル様」

 

 左に曲がれば、私の部屋へと続く廊下。階段をもう一つ登れば、ベル様の寝室。

 立ち止まって、ベル様を見上げる。澄んだ瞳が、月の光のように私を見つめていた。

 

「…………今夜だけ、一緒に寝てもいいですか?」

「構わん。」


 腕を引かれるように、ベル様の寝室に招かれる。大きな窓からは、道のように青白い光が差し込んでいて、美しい部屋だった。

 もう、日付は変わってしまっただろうか。

 手を引かれ、ベル様の腕の中に収まるようにベッドにあがる。いつの間にかベルガも、寄り添うように私の背中にくっついていた。

 普段と変わらないぬくもり。

 ベル様の顔が、鼻と鼻が触れるほどの距離に近づいた。

 冬の日の夜のような、切ない香りだった。


「……お前の料理が食べられなくなるのは寂しいな」

「たまには料理するんですよ」

「考えておこう」

「……背くらべもしましたね」

「人間は背が伸びると言う。いつかレイは、私よりも大きくなるのかもな」


 銀の睫毛が、懐かしむように瞬いた。


「ならないですよ。ベル様、背が高いから」

「そうか?胴ならレイも……」

「それ以上言ったら怒りますよ」

「ふむ。人の心は難しいな」


 あとどれほどで、朝が来てしまうのだろうか。

 朝日で星が消えるように、夜が開ければ、私はベル様の前から立ち去らなくてはならない。

 消える瞬間を、ベル様には見られたくなかった。

 この夜がずっと続いたら、どんなにいいか。


「人間の村には、酒屋というものがあるんだ。中々美味いものを出す」

「ベル様も、お酒を飲むのですか?」

「気が向いたらな。いつかレイも連れて行ってやろう」

「私、まだお酒飲めませんよ……でも、楽しみにしてます」


 この日が来るって、わかっていた。ずっとわかっていたはずなのに、口から溢れるのは、他愛もない言葉ばかりで。

 ベル様の胸に、額を擦り付ける。

 どうかこの胸が、これからも綺麗なものだけで満たされるように。優しさだけが、ベル様のそばにあるように。

 悲しみなんて、世界から一生奪われたままであるように。


「……眠れないのか?」


 声を詰まらせる。

 眠りたくなかった。眠れば、朝が来てしまうから。


「私と同じだな。」


 ベル様が、私の前髪をそっと撫でた。そして、額に口付けをする。


「日が昇るまで、こうしていよう。」


 柔らかな腕が、隠すように私を抱きすくめた。

 重なる、小さな心臓の鼓動。

 言葉にできないものが込み上げて、堪えきれず頬を濡らす。

 この世界の奇跡を集めれば、ベル様といつかまたどこかで会えるだろうか。

 

「…………今日が最後なんです。ベル様といられるの。」

「明日、元の世界に帰るのか?」


 静かに首を振る。


「……何かにそう言われたのか?」

「……………………。」

「頼む、教えてくれ。」


 ベル様が私の瞳を覗く。

 その眉は、僅かに歪んでいた。


「…………私がこの世界に来たのは、ベル様からあるものを盗めと言われたからなんです。」

「それはなんだ。」


 一瞬、ためらう。

 だけど真剣なベル様の眼差しに、口を開いた。

 

「……悲しみです。魔王が世界から奪った、悲しみ。」


 ベル様は、静かに目を閉じた。

 何を思っているのだろう。

 きっとベル様がこの世界から悲しみを奪ったのには、何か大切な理由がある。だとすれば、それを無理に取り返す気は起きなかった。

 死んでも構わない、そう思っていたのだ。


「……そうか。それを取り戻せば、お前は元の世界に帰れるんだな?」

「はい。」


 頷く私に、ベル様が再び目を瞑る。

 数秒の間だった。再び開かれた瞳は優しいままで。愛おしそうに目を細めると、私の髪を撫でるように梳く。


「…………少しだけ待っていろ。」


 それだけ言って、ベル様は部屋を出て行ってしまった。

 残された私はひとり、ベル様の帰りを待つ。

 指輪の石を、月の光に翳す。

 ベル様から貰った大切な贈り物。どうかこれだけでも、元の世界に持って行けたらいいのに。

 ベル様、早く戻って来ないかな。

 その時だった。


「おめでとう〜!」

「うわぁっ!?」


 突然現れた、金色の光。

 それは光の粒子を纏った案内人だった。


「どうしてこんなところに?それに、おめでとうって……」

「何を言っているんだい?君は世界に悲しみを取り戻してくれたじゃないか。」


 軽やかに部屋を飛び回る案内人に、ベルガが低い唸り声をあげる。

 

「ベル様が、返してくれたってこと……?」


 案内人は眩い光を纏いながら、ご機嫌そうに鼻歌を歌っていた。

 世界に、悲しみを取り戻した。

 ということは、私は元の世界に帰れるということ。ベル様が返してくれたのだろう。私のために。

 

「ベル様はどこ?」

「あいつなら下だよ。」


 飛び起きて、階段を駆け下りる。

 元の世界へ帰れる。

 だけどそれでも、今日でベル様とお別れであることに、変わりはないのだ。

 残りの少ない時間を、少しでも一緒にいたい。お礼だって言わないと。


「ベル様っ」


 階段の下には、よく知っている外套。

 ずっしりと重たい黒の布地は、どうしてか床に寝そべるように広がっていた。


「ベル、様…………」


 飛び込む光景に、脳が固まる。

 花のように絨毯を染め上げる、鮮やかな赤色の血。鼻をつく、生臭い匂い。

 その真ん中で、ベル様は倒れていた。


「ベル様っ!!!」


 うそ、うそ、なんで。

 さっきまで普通に話していたのに。私を、抱きしめくれていたのに。誰かにやられたのか。いや、ベル様は魔王なのだ。そんなはずはない。

 動揺に、手足の血が冷え切っていく。

 脳とは反対に体は冷静で、階段を駆け下りた。


「ベル様っ……!おねがいっ、目を覚ましてっ」


 顔は青白いが、頬はまだ温かい。

 だけれど、広がる血は止まることなく。ベル様の左胸に空いた穴に気がつく。


「ベル様っ!どうして、そんなっ」

「当たり前じゃないか。この世界の悲しみは魔王の心臓に埋めてあるんだから。」


 ――魔王の心臓に、埋めてある。

 案内人の言葉が、頭の中を反復した。

 ベル様は、私のために心臓を。

 うそだ。こんなの、うそに決まってる。

 

「やはりお前の仕業か、悪魔…………」


 ベル様の、掠れた声。それはあまりにも弱々しく、今にも消えそうな声だった。

 

「ベル様っ!だめです、喋らないでっ!魔法で傷を塞いでくださいっ!血がこんなにっ」

 

 血を早く止めないと、だめだ止まらない。なんで。

 両手で、必死にベル様の胸の穴を抑える。だけど、流れ出す血の量は増える一方で。

 どうしてこんなことに。違う、そんなことを考えてる場合じゃない。今はベル様を。ああ、また血が。

 

「やっと君を殺せた。私の大切な食事を奪った君を」


 歌うように笑う案内人に、ベルガが飛びかかる。だがその牙は、光に触れたように通り抜けるだけで。翳した案内人の手のひらによって、ベルガの体は壁へと叩きつけられた。


「レイ、そこに、いるのか……」

 

 ベル様の瞳が、微かに開いた。

 薄く開かれた瞳に、これが最後なのだと。言われなくても伝わって。

 乾いた薄い唇を、私の涙が濡らす。


「……お前に会って、初めてこんなにも、人を知りたいと思った…………これが、悲しみか……懐かしいものだ」

「ごめんなさい、ベル様っ、ごめんなさいっ……」


 私のせいだ。ベル様が死んでしまうのは、私が全部話してしまったから。そのせいでベル様は。

 ――私が死ぬべきだったのに。


「……愛されるものにそんな顔をされると、こんなにも胸が痛むのだな……あの時には、分からなかった…………」


 嗚咽を堪える私に、ベル様の指先が私の血濡れた指先を絡ませた。


「泣くな……これでお前は、元の世界に帰れる……」

「いやだっ!こんなの、いやだよっ…………」


 冷たくなっていく指先。ベル様の声は、風に揺れる蝋燭のように弱々しくって。

 

「大丈夫。きっとまた会える……そのときは、今度こそ………………」


 ゆっくりと閉じる瞼。まるで、眠りにつくように、静かな最後だった。

 ――――ベル様が、死んだ。


「うわああああああ」


 うそだ。さっきまで一緒にいたのに。

 人間の酒場に連れて行ってくれるって。一緒に本を読んでくれるって。たくさん約束したのに。

 胸を迫り上がる、痛いほどの慟哭。

 だけど、優しく繋いでいた指先からは力が失われ。無情な現実は、何も変わらないままだった。


「君には感謝しているよ。本当さ。あの魔王が取り上げてしまった悲しみを、世界に取り戻してくれたんだから」

「……………最初から、こうさせるつもりだったのっ!?」


 案内人は、紫紺の瞳を細めた。そして、力無く跪く私に、ケラケラと肩を揺らす。


「人間は素晴らしい生き物だ。魔法すら使えないのに、魔王でさえも支配してしまうのだから。ああ、段々と魔王の精神が脆くなっていく様は、見ていて実に痛快だったよ。もちろん、屍になった今の姿が一番傑作だけど」

「どうしてこんな酷いことするのっ!?」


 案内人が、腕を振り翳す。その手のひらに現れる、禍々しい漆黒の杖。


「酷い?どうしてだい。これでキミは元の世界に帰れるじゃないか」


 遊具で遊ぶ子どものように、案内人は宙を舞った。


「あんなに帰りたいと言っていたじゃないか」

「こんな結末なら、死んだままでよかったのにっ!!!」


 私が大人しく死んでいれば、こんなことにはならなかった。

 ありったけの憎悪を込めて、案内人を睨んだ。

 そのはずだった。


「わかったよ」

 

 案内人の一言とともに、衝撃が私の体を穿つ。


「え」


 見下ろすと、私の胸部からは真っ赤な血に染まった腕が、生々しく突き出していた。


「死んだままがいいなら、叶えてあげるよ」

「あ、あっ……」


 引き抜かれる案内人の腕と共に、鮮血が空気を染めた。

 終わりだ。私もここで死ぬんだ。

 せっかくベル様が、私を元の世界に戻すために、命を賭けてくれたのに。それなのに。

 倒れていく体。視界には、ベル様の亡骸があった。

 ごめんなさい。私のために。ごめんなさい。


「あ、あ………………」


 全身から、力が抜けていく。白と黒に侵食された視界で、最後の力を振り絞って手を伸ばす。

 ベル様。最後だけでもそのお隣に。


「ベル、さま………………」


 伸ばした指先。突然、白銀の光が迸る。

 薬指にはめていた指輪が、眩い光を放っていた。


「お前っ、その指輪は!!!」


 叫ぶように、怒りを露わにする案内人。

 振り翳した案内人の手のひらに現れる、漆黒の杖。

 だけど、その杖から闇が放たれるよりも早く。

 案内人の姿が、瞬く間に遠くなる。

 指輪の眩い閃光とともに、ベル様の姿も、遥か遠くへ、消えていく。

 砂時計をひっくり返したように、無数の色が溢れ出した。

 

 色とりどりの光となって、思い出が私を覆うように流れ出す。

 時間が、巻き戻っている。逆流していく。ベル様と共に過ごした、あの幸せな時間が。

 一緒に見た星空。お風呂で触れた指先。ベルガとの雪遊び、ベル様との出会い――――。


「やめて!!!いかないでっ!!!」


 無かったことにしないでと、思わず伸ばした。指先の間を。

 優しい記憶が、ただの温もりとなって砂のようにすり抜ける。手の届かないほど、遥か遠くへ。

 

 ――いやだ、いやだ。やめて、返して。

 

 光が消えていく。私の何もかもを奪って。

 瞼の裏に感じる、淡い光。真っ白になった世界で、私はただ跪いていた。

 気がつくとそこは、自分だけの世界。

 それは時折脈打って。薄く張った水に映る自分の姿だと気づく。


「唯坂レイ。悲しみのない世界で、魔王から悲しみを取り戻してくれ。そうすれば、もう一度生き返らせてやろう。ただし、期限は七日間だ。」


 金色に輝く"悪魔"が、歌うように笑った。

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