111 魔界での一日2
睡眠を開始してから五時間と二十分、魔界で僕が暮らす石造りの塔に、侵入者が在った。
僕はほんの少しだけ意識を覚醒させて、……そしてまた眠りに落とす。
どうやら侵入者は僕が目覚めてしまわない様に気遣って気配を断っていた様だが、……他の世界でなら兎も角、此の魔界では例えピスカであろうとも僕からは隠れられない。
其れが僕の睡眠中であってもだ。
だからその侵入者、イリスの努力はまるっきり無駄なのだけれど、別に其れを指摘する必要は無いだろう。
木製のドアが静かに開けられ、イリスが僕の部屋へと入って来る。
彼女はベッドサイドに置いた椅子に腰かけて、じっと黙って僕の寝顔を見詰めていた。
僕の目覚めは後二時間と十分後。
もしかして其れまで、ずっとそうしてる心算なのだろうか?
……まあ良いや。
起こさない様に忍ぶって事は、此処で僕が起きれば気に病むだろうし、時間が来るまではのんびり睡眠を楽しもう。
そして二時間十分後、僕はパチリと目を開く。
「おはよう、イリス。ねぇ、飽きない?」
身体を起こして大きく伸びをし、其れでも此方を見詰めたままだったイリスに問う。
すると目の合ったイリスは嬉しそうに笑い、
「おはよう、レプト。えぇ、勿論飽きないわ。ねぇ、今日は私とデートしましょう」
なんて風に言った。
イリスとデートか。
特に用事も無いのだし、其れもきっと悪くない。
何時もなら、『じゃあ、私ともね』なんて言って来るアニスは、今はとある魂を堕落させる為に暫くは出掛けたままだ。
成功したならお祝いするし、失敗したならまた慰めるだろう。
ああ、だからイリスは、慰める際は僕とアニスを邪魔しない様に、今の間に構って欲しいのか。
「ん、良いけど、どこ行こう? 行き成りだからプランとか無いよ」
頷く僕に、イリスは顔を喜びに輝かせて、
「勿論、レプトとなら何処へでも良いわ」
と、そんな風に言う。
うん、でも其れ、一番何の参考にもならなくて困る返事だよ。
収納から水差しを取り出し、コップに注いで一杯飲む。
自分で生み出した水じゃ無く、汲んで仕舞って置いた水を。
「レプトって、知り合った頃からずっと其れしてるわね」
イリスの言葉に頷いて、僕は置き上がって着替えを始める。
じっと見られているけれど、配下は家族の様なものでもあるので、今更見られても然程羞恥は感じない。
確かに、朝に水を飲むって習慣は悪魔になったばかりの頃から、出来る限りは続けてた。
汲んだ水を飲む事で自然の気を取り込むってのは、僕に魔術を教えてくれたグラモンさんの教えだから。
「時々ね、最大のライバルはアニスじゃなくて、グレイなんじゃないかって思うの」
僕の着替えが終わる頃、不意にイリスがそんな事を言い出したので、僕は思わず苦笑いを浮かべる。
確かに僕は最初の召喚主であったグラモンさん、そして其の転生である巧が悪魔となったグレイを特別視はしてるだろう。
だけど其れはイリスにしても同様なのだ。
僕は人間だった頃のイリス、イーシャに召喚されて共に過ごした影響で、異性に対しての情欲と愛情を呼び起こされたのだから。
そして自分の嫉妬深さに気付かせてくれたのも、やはりイリスである。
勿論彼女だけでなく、ベラもピスカもアニスもヴィラも、特に信頼する高位悪魔の皆は、其々が僕にとって違う意味での特別だった。
例えばベラは相棒として。
因みに僕のグレイに対する特別視は、祖父に対する、或いは息子に対する感情が混じり合ったような物だと思う。
だから好みを言えば、グレイには枯れているか、もしくは子供であって欲しい。
でも其れをもし口にしてしまえば、きっとグレイは其れに応えようとして、その結果、彼を慕う女悪魔達が悲しむ事になる。
故に僕はそう言った気持ちは口に出さないのだ。
さてまあ、そんな事はどうでも良い。
準備を終えた僕は、イリスに向かって手を差し出した。
折角デートをするのなら、手を繋ぎたいと思ったから。
とは言え、僕の魔界で二人で遊べる場所なんて物は非常に限られている。
手を繋いだまま、僕等は実験区域に向かって歩き出す。
塔の前で蹲ってたベラがチラと顔を上げたけれども、此方の様子を見てすぐに、欠伸を一つして再び顔を伏せた。
うん、散歩はまた次回にして貰おう。
実験区域は僕の魔界の中でも、最も人口の多い場所だ。
悪魔以外の生物は、僕の魔界では此処にしか住めないし、だからこそ悪魔達も集まって来る。
そんな中を手を繋いで歩いたならば、当然ながら多数の視線に晒された。
でもそんな視線のどれもが、何やら微笑ましい物を見たかのような、暖かさの込められた物だったけれども。
因みにその視線を向けて来る誰よりも僕とイリスは年上なのだが、……まぁ良いか。
ちょっとだけ恥ずかしそうなイリスの手を引き、向かった先は店舗街。
召喚や派遣に不向きな悪魔や人間の多くが、此の店舗街で働いている。
此処で売り買いされる物の大部分は、主にアニスが異世界から仕入れて来た品々になるが、最近は魔界で採れた物や、その加工品等も並ぶ様になって来た。
他にも召喚や派遣を受けた悪魔や人間が、アニスが仕入れない様な品を持ち帰り、高値で取引されてるらしい。
僕は其の取引の事を闇取引と呼んでいるが、一番良く取引されるのは矢張り大人向けの商品で、次に娯楽の為の品だ。
闇取引は悪魔や人間達が自主的に考えて始めた事なので、あまり制約を加えたくはないが、今の所は二種類だけ制限を掛けている。
即ち薬物類の魔界への持ち込みは一切禁止と、武器として使い得る品への検閲だ。
薬に関してはアニスが厳選して仕入れているし、そもそも悪魔の多くが治癒魔法を使う。
程度の低い物を持ち込む意味は無いし、人間性を破壊する麻薬の類は論外だった。
武器に関しても同じ事で、此方から与えてる装備類以上の物は、そう簡単には手に入らない。
僕等は人間性を見極めて武器の所持許可を出しているので、其れ以外の人間に武器を使わせる気は無いのである。
此の魔界の存在は、悪魔も、人間も、全てが僕の物だ。
自主性は尊重するが、僕の物を損なったり、その価値を下げる事は許さない。
此れを破ると、魔界からの追放や、僕の機嫌次第ではもっと重い罰を下すだろう。
幸い、未だそう言う事態になった事は無いけれども。
……なので闇取引用の店なんかも、覗いてみれば掘り出し物があったりと、結構面白かったりするのだ。
買い食いをしたり、時に気に入った物を買いながら店舗街を抜ければ、次の目的地までは結構遠い。
魔法を使えば転移したり、空を飛ぶ事だって出来るけれども、此処まで歩いて来たのに魔法に頼るのは少しばかり無粋な気がした。
なので、僕は森の上空を飛んでいた幻獣を手招きして呼び、
「ねぇ、君、乗せてくれないかな?」
頼んでみた所、彼は直ぐにやって来て、背に乗り易い様に伏せる。
その幻獣はヒポグリフ。
雄グリフォンと雌馬の間に生まれた子とされるが、グリフォンは馬を好物として狩る為、本来なら存在しないとされる幻獣だった。
誇り高い性格故に、礼を尽くして認められねば其の背を許す事は無いとされるが、死に掛けの彼を癒して此の世界に連れて来たのは僕なので、頼めば割と気軽に乗せてくれる。
イリスと二人でヒポグリフの背に乗って、向かう先は、最近創ったばかりの海。
淡水の湖は以前からあったが、とある世界で人間に滅ぼされ掛かっていた海洋種、マーメイドの受け入れの為に海を創らざるを得なくなったのだ。
海が出来た事を知った人間からは、海で泳ぎたいって要望も出てるけれども、許可を出すにはもう少し時間が必要だろう。
マーメイド達の生活が落ち着き、彼女達が居た世界の人間と、魔界に住む人間は別物だと理解して貰えるだけの時間が。
だからこの海辺には、今は僕とイリスしか居ない。
ヒポグリフは気を遣ったのか、僕等が降りたら木陰に寝そべりに行ったから。
でも海を創るには物凄いコストが掛かっているので、マーメイド達が落ち着けば、どんな形でも良いから活用したいと思ってる。
海を含めると、実験区域は僕の魔界の1/4程を占めるまでに大きくなった。
そろそろ実験区域も、別の名前を考えた方が良いだろうか。
「あー、ありがとう、イリス」
岩に腰掛け、足で海水を混ぜながら、僕は隣に座ったイリスに礼を言う。
家を出る時には気付かなかったが、今日イリスがデートに誘って来たのは、多分僕の為である。
僕の胸の奥に刺さったままの棘に、きっとイリスは気付いてたのだろう。
今日一日、連れ出された先で、僕は色んな事に思いを馳せた。
店舗街や闇取引や幻獣や、目の前の海の活用法等に。
其れは多分イリスにも伝わってしまってるのに、けれども彼女は一度も、デート中なのだから自分を見ろって言葉を言わなかったのだ。
「私はレプトと一緒に出掛けたかっただけよ。……でも、元気が出たなら良かったじゃない」
イリスはそう言い、僕の肩に頭を預けた。
魔界の中ではあるけれど、実験区域には夜が来る。
海の色が少しずつ変わって行くのを、僕等はずうっと、眺め続けた。




