洗脳
「も、もうこんな時間なんですね……」
恥ずかしさを紛らわすようにカーテンを開けると、メルトレーザ様はそう呟いた。
窓の外は既に暗くなっており、上弦の月が明々と輝いていた。
「はは……そうみたいですね」
「……ヒューゴ様は、本日はグレンヴィル家へお帰りになるのですか?」
「…………………………」
心配そうな表情を浮かべる彼女の問いかけに、僕は無言で唇を噛む。
本音を言ってしまえば、僕はもう、あの家になんて帰りたくない。
あんな……居場所もないところに。
「そ、その……今日は遅くなってしまいましたので、このままお泊りになられてはいかがでしょうか……」
すると彼女は、期待に満ちた瞳で僕の顔を覗き込みながらおずおずと尋ねた。
はは……こんなにも誰かに求められたことが……受け入れられたことが、今まであっただろうか……。
「でしたら、ぜひお願いしても?」
「! は、はい!」
メルトレーザ様は両手を合わせ、パアア、と咲き誇るような笑顔を見せた。
本当に……あなたという女性は……。
「で、では、すぐにでも食事の支度などしませんと! それと、本日お休みになられるお部屋のご用意と、それから……」
「はは。メルトレーザ様、落ち着いてください」
「あ……す、すいません……」
僕が苦笑しながら声を掛けると、張り切る彼女は恥ずかしそうにうつむいた。
「ですが……ふふ、ヒューゴ様は何かお嫌いな食べ物など、あったりしますか?」
「僕は、食べられるものなら何でもいただきます」
うん……グレンヴィル家では、酷い時は固くカビの生えたパンだけ、なんてこともあったからね……。
「ふふ! でしたら、うちの料理長に腕を振るってもらいませんと!」
「はは……」
僕を歓迎するだけで、彼女はこんなにも喜んでくれる。
僕は……この賭けに出て、本当によかった……。
「と、ところで、その……わ、私達はこれから、婚約者となります、よね……?」
「はい。ウッドストック大公家とグレンヴィル侯爵家同士で正式な婚約手続きを交わしてから、ではありますが」
「でしたら、私からお願いがあるのです……」
「お願い、ですか……?」
彼女の言うお願いとは、一体なんだろうか……。
何もない僕でも、叶えられるものだったらいいんだけど……。
「その……私のことを、“メルトレーザ様”という堅苦しい呼び方ではなく、他の呼び方で……」
「あ……」
よ、呼び方、かあ……。
確か、大公殿下は彼女のことを“メル”って呼んでいたよね……。
「じゃ、じゃあ“メル”様、でどうでしょうか?」
「……それはお爺様が使っておられますので、できればヒューゴ様だけの特別なものがいいです。それと、様もいりません」
「そ、そうですか……」
有無を言わせないとばかりにピシャリ、と告げられ、僕は思わず頭を掻く。
だ、だけど、“メル”以外の呼び方……“メルトレーザ”だから……。
“メルト”? ウーン……ちょっと違和感がある。
“メルレ”? これもなあ……。
首を捻りながら色々と思案した結果。
「…… “メルザ”、でどうですか……?」
僕は、彼女におずおずと尋ねると。
「“メルザ”……ありがとうございます……!」
彼女……“メルザ”は僕の手を取って嬉しそうにはにかんだ。
ホッ……どうやら気に入ってもらえたようだ。
「で、でしたら、僕のことも“ヒューゴ”ではない特別な呼び方をつけていただけますか? あ、ちなみに僕は“ヒューゴ”以外で呼ばれたことがありませんから、どんな呼び方でも、その……メルザ、が初めてです……」
うう……やっぱり、いきなり僕だけの愛称で呼ぶのは恥ずかしいな……。
「ふふ! でしたら、“ヒュー”と呼んでもいいですか?」
「あ、も、もちろんです!」
はは……僕の愛称は“ヒュー”か……ちょっと、いや、かなり嬉しい。
「ふふ、ではお爺様も首を長くして待っていますでしょうし、行きましょう、ヒュー」
「ええ、メルザ」
僕は彼女の手を取って翻ると。
「? ……ヒュー、少々失礼します……」
何故かメルザは、僕の背中をまじまじと眺める。
「ど、どうかしたんですか?」
「……これは、精神魔法の残滓があります」
「え……?」
メルザの言葉に、僕は思わず呆けた声を漏らした。
「どんな精神魔法がかけられているのか確認しますから、じっとしていてください」
「は、はい……」
彼女が僕の背中を調べる中、胸がどんどん苦しくなっていく。
だって、僕にこんなものをかけるのは、あの父しかいないのだから。
は、はは……父は一体、僕にどんな精神魔法を……。
そして。
「この術式……どうやらヒューは、魔法によって洗脳を受けていたみたいです。それも、特定の者に好感を持ち続けるように……」
メルザは、重い口調でそう告げる。
ああ……そうか……。
僕は……僕の家族になりたいっていうちっぽけなあの想いすら、僕のものじゃなかったんだ……。
僕は……僕は……っ!
「う、うう……うわあああああああああああああああああああッッッ!」
「っ!? ヒュー!」
膝から崩れ落ち、僕は叫びながら何度も床を叩く。
何度も、何度も、何度も。
アイツ等は……グレンヴィル家は、そんなことさえも、奪うのか……っ!
そんなことさえも、僕には許されなかったのかよお……!
「ヒュー! 私がいます! あなたには、この私がずっといますから! だから!」
「うああ……メルザ……メルザア……ッ!」
そう叫びながら抱きしめてくれるメルザに、僕はくしゃくしゃになった顔で彼女の胸に縋る。
あまりにつらくて……あまりに苦しくて……。
僕は……ずっと泣きわめき続け……。
――そのまま、意識を失った。
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