ミルバニアにて―雨天決行―
仕事から帰ってきたらアロワナが死にかけてる……
アーッ!!
荷馬車を手に入れて以降、シド以外の全ての者が移動を馬に頼るようになった。唯一の徒歩だったシドは常に相手の動きに注意を傾け、急げばその日のうちに接触できる距離を保たせていたが、敵が村に籠城して分けた少数の兵を北に送ったことを知って麾下を停止させた。
シドとターシャ、偵察から帰ってきたドリスのいる先頭に、最後尾のキリイと中央にいたベリリュース、ミラ、サラが集まってくる。
「どうしたんだ? ついに敵が諦めて突撃でも?」
とはキリイの言葉だ。かつてそうだったように、移動に使える馬を貰えて明るい顔だ。防具もまた変わっていた。キリイとベリリュースはシドが殺した騎士から剥いだ鎧を身に纏っている。硬革を金属の薄い板で補強した丁寧な造りで、インナーも含め足の爪先から指先まできっちりと一式揃えられており、胸甲に刻まれていた国の紋章は削られている。腰には剣を佩き、手には槍を、馬の鞍からは弩を下げていた。
「敵が部隊を分けた。分隊は百前後だ」
シドは言葉少なに云う。そしてキリイに向かって、
「黒っぽい鎧の連中に心当たりは? 数は多くない。今いる敵全軍の十分の一位だろう」
「え? 黒っぽい鎧?」
キリイは下を見て記憶の中を探りながら、
「騎士団にはそういう色の服装の部署は……あるにはあるけど、外には絶対と云い切ってしまえるほど出てくることがないからな。城の内部を守る近衛なら該当するが……」
まさかな、という風に首を振る。
「近衛なら王族が来てるってことだ」
周りがしん、となった。皆、なんと云っていいのかわからない顔だ。
「……その、近衛というのはどれくらいの強さなんだ?」
ベリリュースが訊ねる。彼は地方周りをする傭兵だったし、大きな戦争など滅多になく、王族が最前線に出ることなどもっとない。傭兵稼業をしていればなんとなく把握できることに近衛の戦闘力は入っていなかった。
「近衛は騎士の中から選ばれる。武器を扱う腕は勿論だが、息をするように魔法を戦闘に使えなきゃならん。それが最低条件だ」
「……そいつはきついな。まともにやり合えば死人が大勢出そうだ」
キリイとベリリュースの会話を聞きながら、シドは敵の意図について推測を立てていた。動きだけを見れば王族を逃して時間稼ぎに部隊を配したとなるが、問題は敵が既にトト達の存在に気づいているだろうということと、残す部隊は確実に飢えるだろうということだ。この二点についての敵の思考を追えれば、こちらの目的と併せて最適解が見つかるだろう。
「キリイ。その部隊の進行先をトト達でもって塞いだ場合、阻止できると思うか?」
「そいつは難しいだろうな」
キリイがそう答えるのに時間はかからなかった。
「もし全部がオーガで構成されてるなら勝てる。半分でもなんとかなるかもしれない。でも実際はほんの一部だ。殆どはゴブリンかオークだろ? 間違いなく突破される。オーガ達は全員殺されてそれ以外は散り散りになる」
「そこまでの差があるか……」
シドは自身が単体で追跡した際に起こる問題を考えた。位置を把握するためにドリスはこっちに付きっきりになる。時間を稼ごうとする近衛をあしらって捕捉するのにどれだけの時間を要するだろうか……。
「戦場に出てくる王族に心当たりは?」
「……そうだなぁ」
「奴等が一連の戦いを統率された魔物の討伐と考えていたと仮定して、だ」
「……まず、遠縁の奴等は除外されるだろうな。息子が生きてるのに無意味に他の影響力を増やす真似はしないと思う。王本人もこないだろう。今更この程度の経験を積んでもしょうがない。勝てると考えていたなら、一番可能性が高いのは第一位継承権を持つ長男だが……」
果たしてわざわざ継承者を危険に晒す真似をするだろうか。言外にそう滲ませるキリイ。
「代わりはいるのか?」
「ああ。今の王には息子が二人いる」
「ならば、王の考え方によってはあり得なくもない。兄弟の関係次第では次男の可能性も残るが――」
どちらにせよ、代わりがいるのなら決定的な影響力を及ぼすのは無理だとシドは判断した。一人殺しても士気が高まるだけだ。自分なら間違いなくそうする。片方の死を利用して国民を焚き付けるのだ。
「追うのは止めておくか」
シドはそう結論を出す。近衛とは戦ったことがない。もし逃げているのが現国王なら試しているかもしれなかったが、首のすげ替えがきく王子なら無理に追うことはないだろう。
それに北へ逃げたのが王族なら、残った部隊は捨て石だ。これは敵が食料が足りないと判断したことを意味している。足りているならこのまままとまって北へ進むか、どこかに籠城して援軍を待てばいいからだ。足りないからこそ分けた。北へ向かう少数を生かすために――。
つまり敵の動きで肝になるのは残った部隊に与えられた役割だろう――と、シドは思う。敵が馬鹿ではないと仮定して、残す部隊に何の役目も与えないとは考えづらい。分ける食料の比率によるが、ある程度の期間戦闘力を維持できれば荷馬車を利用するシド達の追跡を防げる。これは逃げる王族の安全にも係ることなので蔑ろにはしない筈だ。
「いいのか? 次期国王かも知れないんだぞ? 捕まえれば王を動揺させられるが……」
キリイは意外そうに云う。
「動揺するかどうかは王の性格による。次男ならさして意味はなく、長男でも代わりはいるのだろう? そして王本人である可能性は低い。どう動くかわからぬ敵を目の前に俺がここを離れる利益があるとは思えん。それに――」
シドは人の悪そうな笑みを浮かべた。
「もし逃げているのが長男なら面白いことになるかもしれんぞ」
「どういう意味だ?」
「騎士団を見捨てて逃げたのが長男なら、本国の奴等はどう思う? お前ならそんな奴を次の王に戴きたいと思うか?」
「……なるほど。騎士の大半は貴族の子弟か、それに連なる者だ。息子を見捨てて逃げた男に対して、何も思わずに仕えるのは難しいかも」
「そうだ。そしてそれには奴等に戦いの機会を与えてはならん。そいつ自身の思惑はどうであれ、一度も戦わずに逃げたという事実があるのなら云い訳のしようがない」
つまりこれでトト達の動きが決まった。逃げる近衛と衝突してはならない。もしやり合えば敵に一度とはいえ勝利を与えることになってしまうだろう。それは今後の兵の集まり、士気、従順さに影響を与える。騎士本隊は敗北したが、近衛でもって分隊を撃破したという、互角の勢力と判断される材料になるのだ。逆に近衛に戦う機会を与えなければ、彼等は味方を見捨てて逃げたと判断される。しかも一度も武器を使うことなく、だ。
「トト達と合流して目の前の敵を撃破することに注力する」
と、それがシドの出した命令だった。
周りにほっとした空気が流れる。目の前にいる騎士団は殆ど死に体だが、数はエルフ達の二倍以上なのだ。しかも近衛にどれだけの食料を渡したのか、日々どれだけ節約しているのかは不明なので戦う力を残している可能性もあり、何を狙っているかも推測でしかわからない。
シドは四頭立ての荷馬車から一頭を外させ、五十頭の馬を用意した。飼料と食料を背に積ませ、手綱を引くエルフを五十用意する。村を迂回するために街道を外れて進むよう命じ、トト達がそれと合流できるようドリスを北に飛ばした。
方針が決まり、手を打ったので歩みを再開する。
ベリリュースが馬を駆ってシドの横に並んだ。
「敵のいる村を包囲するのか?」
「いや。それは現実的ではない」
シドは歩きながら、
「北にいる部隊に村を迂回して補給を続けるのは敵に攻撃の機会を与えるだけだ。敵の目の前で兵を分散させるより、戦力を集中させて追撃できる状態で待機していたほうがよかろう」
「そうか」
ベリリュースは頷いた。隊を分ければその指揮は自身が執ることになる。まともにぶつかれば敗北は必定の部隊を率いるのはやりたいことではなかった。
「それがいいかもな。逃げれば体力勝負になるし、今の状況でそうなったらこっちが負けるわけはないものな」
そう云い残して戻っていく。
「お前達も戻れ」
キリイとベリリュースがいなくなるとシドは残っていた姉妹に云った。
「なによ。あたし達には何もないわけ?」
「お前達の出番はもっと後だ。せいぜい死なないよう気をつけていろ」
「あ、ちょっと――」
シドが速度を上げると、脚の長さの違う姉妹との距離がみるみるうちに離れていく。
最前と同じ速さで騎士団がいる村の一つ手前の村で休息を取らせ、自身は馬を引いた三人の伝令を連れて視認できる距離まで進む。
ドリスの報告が朝のうちだったので、日が沈む前に目的の場所まで辿り着くことができた。
エルフ達は遠くにうっすらと見える村の姿に目を懲らしている。彼等には村があることはわかるが人がいるかまではわからない距離だった。
シドの眼からジ、と音がした。
「報告通りのようだな」
顔形までは判別できないが、いることがわかればそれでよかった。村には本来ならば誰もいない筈で、必要なのは識別でもなく認識でもない。検知である。多くの物体が存在し、尚且つ動いていれば判断材料としては十分であった。
「明日の朝までここで待機だ。野営の準備をしろ」
云われた三人のエルフは馬から荷を降ろした。馬に革袋から水を飲ませ、天幕を街道に建てる。そして馬と同じようにもそもそと食事をすると用を足し、二人はさっさと寝てしまう。もう一人は不測の事態に備え待機した。
シドはその傍らで一晩黙って立っていた。環境汚染が進んでいないためか、澄んだ大気は氷のように大地にのしかかっていて、日が沈む前から下がり始めた気温は深夜には人の営みに影響を与えるまでになっている。村では煌々と火が焚かれ、その周囲で横になっている騎士達を把握するために微光暗視装置と熱線探知を併用して焚き火にフィルタリングをかけた。
エルフ達は途中で不寝番を交代し、空がうっすらと白み始める頃起き出してくる。三人は水で顔と口を洗い、朝食を食べると天幕を片付けていつでも発てる状態になった。
シドは一人を朝に一人、昼に一人、そして夕に一人と南へ戻し、伝令を交代させる。おそらくは二、三日はこれが続くだろうと踏んでいた。
――敵が揃って撤退するには食料が足りないと判断したこと。
――残った騎士団は北へ逃げた王族に食料を分け与えているだろうということ。
間違いないと思えるのはこの二つだった。敵の援軍がいつ来るか。目の前の騎士団がいつ飢えるかは正確にはわからない。そしてこれの原因はわかっていた。キリイやベリリュースに物資集積所となっている都市までの距離を訊いても馬で何日としか返ってこないからだ。平時に多少余裕を持って町や村に到着すればその日の行程はそこで終わりになる。つまり馬で一日に進む距離と一日に進める距離は違うのだ。
敵が時間稼ぎを狙ってあの村に騎士を残したのなら、飢えが切実になるまでは動かない。その時間を利用してトト達と合流する。その後ドリスの偵察で情報を集めて攻略。それがシドの目論見だ。本音を云えば最低でもあと五、六日は時を置いて敵を徹底的に弱らせたかったが、もうその頃になると敵の援軍がいつ来ても不思議ではない。ドリスは確かに便利だが、その理由は地形を無視できるところにあって速度自体が図抜けているわけではなく、敵が後先考えずに馬を飛ばせば来襲を察知してから村を攻略、その後迎撃体制を整える時間的余裕はない、とシドは見ている。
村を眺めながら、万が一に備えて用意した伝令を入れ替えながら待つ。
そうして、二日が過ぎ去った。
その日、騎士の面々はなんとも云えない雰囲気を肌で感じていた。既に空腹は判断に影響を及ぼすまでに達していて、普段なら絶対に口にしないような家に住み着いた小動物すらも食料とみなすようになっている。幸いなことに水だけは飲み放題で、皆、井戸から汲んだ水をたらふく飲んで痛みすら感じられるほどになった空きっ腹を誤魔化しており、そのせいで冷えた身体を暖めるために盛大に火を焚いて夜を過ごしていた。
マントにくるまった騎士達はいつものように小さくなって寝ていたが、夜が明けて明るくなり始めた空に浅い眠りが中断される。また昨日と同じ空腹に耐える一日の始まりか――と、そのような思いで起き上がった騎士達だが、顔を上げて冷たい空気を吸い込み、明確にはそうとわからぬ違和感を抱いている自分に気づく。
それは、その日が本格的な冬の到来を予感させるほどに寒かったからかもしれず、また、東の空に暗雲が立ち籠めており、雨を予感させていたからかもしれなかった。
騎士達は腹を空かせたまま、雨を凌げる場所を求めて村内を彷徨う。
村は騎士の数に比して狭く、また壊されている家屋もあって皆が屋根の下に滑り込めるほどの余裕はない。まだ一滴の雨すら降っていないというのに、家屋の中はまるで家畜小屋のように人がひしめいており、それでもなお中に入ろうとする仲間に先に入っていた男達は罵声を浴びせた。
「無理だ無理だ! 別の建物へ行け!」
「家具を外に出せばまだ入れるだろ!」
「他人に頼るんじゃない! 出したいなら自分で出せ!」
良かれと思って動いたら、二度とは入れぬ屋根の下。一度場所の確保に成功した者は梃子でも外に出ようとはしない。この寒さに加え、弱り切った身体で雨に打たれたならば致命的な状態になると皆わかっていた。
「ここはもう一杯なんだ! 見りゃわかるだろう! それより寒いから戸を閉めろ!」
ぬっと腕が突き出され、中に入れろと喚いていた男を突き飛ばす。よろめいて背後の仲間にぶつかった男の目の前で無慈悲にも扉が閉められた。
「――くそっ」
悪態をついた男は逃げ場所を求めて周りを見回した。しかしどの家屋も中は勿論、外の庇の下まで人で埋まっている。一等いい場所を求めたが故に、男は雨から身を守る盾を得損ねたのだ。
男の周りには同じような境遇の仲間がたくさんいた。彼等は皆、ここへ来た時から当たり前のように屋根の下で過ごしている隊長連中のいる建物へ恨めしげな目を向ける。
そして建物を見る男の胸中にある疑念が持ち上がった。とっくに食事は配給制になっているが、建物の中で食事をしている隊長連中が他の騎士達と同じ分量を食べているという証拠はどこにもない。この期に及んでなお立場による待遇の差を当たり前のものとして享受するのなら、食事もそうではないと誰に云い切れるだろうか。
「あそこならまだ余裕がある筈だ」
この台詞が発せられるのは当然のことだった。どこからともなくあがった声に、騎士達は据わった目をして指揮官の寝泊まりする建物を取り囲んだ。
とうに飢えという名の忍耐を限界まで強いられている彼等にはこれ以上の我慢は無理で、圧政に立ち上がった民衆のような面持ちで扉を叩く。
「どうした!? 敵が来たのか!?」
「いえ。お願いがあって参りました」
顔を覗かせた百人隊長に、最前列の男が云った。
「もうじき雨が降りそうです」
「……それがどうした」
「もしよろしければ雨を凌ぐために場所をお借りできればと思いまして……」
「なにぃ?」
目玉をぎょろつかせた百人隊長は顔を突き出して空を見上げる。
「雨など降っておらんではないか!」
「じきに降ってくるかと思います」
「――この馬鹿モンがぁっ!」
百人隊長の顔があっという間に赤くなり、どこにそんな力が残っていたのか、と周りが訝しむほどの大声で怒鳴りつける。
「濡れたくないなど何様だ!? ここは戦場だぞ!? 雨が降るから戦えませんとでも云うつもりか!?」
「……いえ」
「だいたい人数を考えろ、人数を!」
外で手持ちぶたさにしている騎士達を睨めつけた百人隊長。どうにかしたくても不可能だ。俺は悪くない、とばかりに、
「いくらなんでもこの人数が入るのは無理だ! それともお前は一部の者だけを中に入れろと云うのか!? 俺にそのようなえこ贔屓をしろと!?」
「………」
「寒いのはお前だけじゃないんだ! 我侭云わずに大人しく待機していろ!」
そして勢いよく扉が閉められる。
男はさすがに全員平等に雨に打たれるべきとは云えず、肩を落として仲間の元に戻るが、やり取りを聞いていた他の騎士達の表情には強く不満の色が見えていた。
しかし状況が状況でなければ隊長の云ったことは正しく、彼等は不満を押し殺して少しでも風除けのある場所を探すことにする。
出遅れた幾つかの集団の一つである彼等は、方々に散って家や倉庫、家畜小屋、果ては厠の軒下まで利用して濡れることを防ごうとし、程なくそれは報いられることになった。
「あ……」
という声がそこかしこで上がり、手を空に向けて掲げる。上を向いた掌に、ポツリポツリと冷たい雨が落ちてきた。
小降りだった雨はすぐに勢いを増し、哀れにも覆いを得られなかった者達をしとどに濡らす。兜の表面を滝のように流れた水は肩口から染み込み、体温を容赦なく奪った。東にはまだ真っ黒な雲が浮かんでいて、時が経てば今以上に雨が降るだろうと思われた。
騎士達がよりよい場所を求め右往左往すると、硬い鉄靴で踏み躙られた地面はまるで泥沼のように形を変え、激しくなってくる飛沫に視界の下半分が烟ったように白く濁る。重くなったマントと下穿きを身体に纏わりつかせた騎士達は一刻も早く雨があがることを願って天の仕打ちに耐えていた。
「……くそっ」
騎士達がここに来て最初に直した、村の周りを囲う防柵の横で見張りをしている男がぶるりと身体を震わせる。彼等見張りは最初から濡れずに済ませられるなどとは考えていない。このような時に見張りをせねばならなかった己の不運を嘆いていただけだった。
男は急に催した尿意に、
「すまん。ちょっと小便に行ってくる」
と、近くの相方に声をかける。
「ここでしちまえよ」
相方の騎士は苦笑しながら、
「この雨だ。どこでしたって一緒さ」
「……それもそうだな」
見張りの男は同意すると柵に身体をベッタリと寄せた。力なく震える指を駆使して鎧下をまくり、陰茎を出して柵の外に向ける。
「この雨だ。脱がなくたって一緒さ」
「そいつは御免だぜ」
男は小便を出しながら開放感に身を委ねる。それと同時に、小便から湯気が出ているのを見て、せっかく温めた水分がもったいない、と思った。
「それにしてもひどくなる一方じゃないか。外の様子が全然わからないぞ」
「ああ。しかし、いくら雨がひどいったって、普通ここまで見えなくなるものか……? まるで霧と雨が同時に発生したみたいだ」
「飛沫も霧も大元は水さ。小便もな」
「………」
「でもこんなんじゃ見張りなんか意味ないよな。皆集まって武器でも抜いてたほうがまだ気が利いてると思うぜ」
「……なぁ、何か聞こえないか?」
相方の騎士が唐突にそう訊ねた。訝しげに目を細め、周囲に耳を澄ましている。
「……俺の小便の音か?」
「違う」
「……水の音しか聞こえないぞ?」
「……微かに聞こえたんだ」
相方の騎士はなおも云い募った。
「荒い息遣いのようなものが――」
云いかけてハッと目を見開く。
「――おい! 前!」
「へ?」
小便をしていた男が不思議そうな顔で前に向き直ると、水煙の中から小さな人影が飛び出してきた。
「ギョエエエッ!」
槍を構えてバチャバチャと走り寄るゴブリン。目玉は血走り、剥き出した黄色い乱ぐい歯は雨とも涎ともつかぬもので濡れている。
それを見た男は慌てて股間を弄った。
「クソッ! 小便は急には止まらねえ!」
「馬鹿野郎! 早くそこから離れろ!」
「たかがゴブリン如きに!」
男は股間もそのままに、柵に立てかけておいた槍を手に取った。それはゴブリンが持っている槍と同じで、その事実に気づいた男はカッと頭に血が登る。
「こいつめ!」
ゴブリンが突き出した槍を横に躱すと柵の隙間から同じように突き出し、こちらは命中させた。当たった首筋から血が吹き出し、ゴブリンは柵にもたれかかった。
「敵襲だぁーっ!」
別の方角から叫び声が上がる。雨音に混じって鐘と笛の音が響き渡った。
白い壁があるかのように視界が遮られているなか、次々とゴブリンが湧き出してきて、二人は柵に取り付こうとする相手を容赦なく突き殺していく。
しかし――
「『凍れる時』
雨音に混じって透き通るような声がし、異変を感じた騎士は己の腕を見る。
「ああっ」
騎士は真っ白に霜が貼り付いた二の腕に悲鳴をあげた。鎧から滴り落ちる雨粒が凍りつき、それは瞬く間に全身に拡がる。
「お、おい――」
喋ろうとした口元も凍りつき、顔からつららが垂れ下がる。目を開け放ったまま時が停止したかのように動きを止めた相方に、股間を剥き出しにした男は後退った。
「『氷の牙!』
再びの声。
男が素早く声のした方に目を向けると、ゴブリン達の背後に杖を持った小さなエルフが二人、確認できた。
「はっ――おおおおぅっ!?」
突如として股間に湧き起こった激痛に、男は堪らず呻きを漏らす。視線を下げると地面から突き出た氷の柱が股に突き刺さっており、山頂から湧き出る清水のようにその表面を赤い川が流れていた。
失われていく血液に、ただでさえ萎んでいた陰茎がみるみる縮んでいき、
「お、俺のちんぽが……」
男は柱を掴み、ぬるぬると滑るそれを引き抜こうと力を込める。
痺れるような冷たさと共に感じる温かさ。
薄れゆく意識のなか、男はもったいない――と思った。




