ミルバニアにて―存在しない村―
ベリリュースは苛々と空を仰ぎ見、その後背後に目をやった。
平原を貫く一本の道に、二十台以上の荷馬車が列をなしている。夏の間に生育し、冬が近づくにつれ頭を垂れる茎の長い雑草が茂っており、ぐねぐねと無意味に曲がる道もあって最後尾の荷馬車は見えない。
だがベリリュースは見えなくとも確信していた。部下達はきちんと務めを果たしているだろう。なにしろ村を出るときに口うるさくがなり、尻を叩いたのだ。
ベリリュースとしてもせっかくの村での歓待の余韻を吹き飛ばすようなことはしたくなかったが、油断が一人の部下の死を招いたことを考えればそうも云ってられなかった。
「すっかり雰囲気が変わっちまいましたね」
気難しげな表情でむっつりと黙り込んでいるベリリュースに、隣を歩く部下の一人が声をかけた。
「皆沈んじまってまあ。それに、なんか嫌な予感がしますぜ。嵐の前の静けさっていうか――」
「つまらんことを云うな。こちらは百十人近いのだ。これだけの数を前にしてわざわざ襲うような盗賊がいるものか」
「そりゃそうなんですがね。でも予定と違う道を通ることにしたくらいなんですから、団長もホントはそう思ってるんでしょう?」
「俺達の仕事は雇い主を――できればその荷も――無事に目的地まで届けることだ。最悪を想定したに過ぎん」
「盗賊の一味ですか」
「そうだ」
ベリリュースは団員を殺した犯人は盗賊の一味だと睨んでいた。おそらくあの村で網を張っていたのだろう。そして夜中に団員から情報を引き出し、始末した。実際にどうやって情報を引き出したのかまではわからないが、誰も糞に塗れた死体を検分したがらなかったので仕方がない。仲間内で喧嘩になったという可能性もあるが、とりあえずは予定はばれていると想定しておくに越したことはなかった。
ベリリュースの機嫌が悪いのは、朝からの死体騒ぎと、これからの道程を急遽商人達と話し合ったからだった。
夜にも、思いのほか財布の紐が緩かった村人達のおかげで旅程を短縮してもいいのではないか、という意見が出て話し合いが持たれたが、結局は幾つかの村や街を経緯し、王都に向かう本来の予定を辿ることになっていた。
しかし早朝死体を発見した後ベリリュースは再び商人達を呼び集めた。そして盗賊に狙われている可能性があり、進路をまったく別の方角へ変えようという案を出したのだ。
結果は散々だった。雇用期間が延長し足が出ることを恐れて予定の進路を守ろうという商人達は首を縦に振らず、それどころかそういう万が一の時のために大金を支払って雇っていると云い放った。
ベリリュース自身、内心ではこの陣容で襲ってくる盗賊団などいないと考えていたのも影響したのかもしれない。
収穫の時期になると冬を越す金がない傭兵達が盗賊に鞍替えするのはよくあることであった。大抵は数人から十数人で細々と行い、団長連中は部下が盗賊行為に手を染めたとしても黙認する。
しかし現在のベリリュース達を襲って収益を出そうと考えるならば二倍から三倍は数が欲しい。圧倒しなければお互い散々な状態になってしまい、来年からの仕事に差し支えるからだ。だがそれほどの数が動けばどこの誰がやったかがばれるのは自明の理である。そういうわけからベリリュースは襲撃はないと踏んでいるのだ。
篭手を外し、顔の汗を拭う。荷物は荷馬車の上だが、商人達と違い歩いている傭兵達は汗だくだった。
左手にうっすらと森が見えている。北から南へ、終わりが見えない。煙ったようにくすんでおり、そこに住む者達を人間の世界から隠しているかのようだ。
今、ベリリュースは早まったかもしれないと思い始めている。部下にはああ云ったものの自身も嫌ななにかを感じていた。
誰かに見られているような落ち着かない空気なのだ。周りには何もなく、視界の下部を占める草葉は鬱陶しいが、待ち伏せができるほどの高さがあるでもない。条件としては悪くないはずなのだが――
節くれだった指に篭手を嵌め直す。
ベリリュースはもう四十を過ぎている。経験は十分で身体もまだ戦闘には耐えうるが、年齢からくる自分の思い通りにならない物事や未知の事態に対する苛立ちが思い切りや決断といったものを阻害しているのを自覚していた。
商人達は間違っている。ベリリュース達がいるのは万が一を起こさないためであり、そしてその万が一とは盗賊に襲われることではなく、命と荷を奪われることなのである。
「どこかの馬鹿が街を燃やしたせいでどの団も動きにくくなってますからね。こりゃひょっとするかも知れません」
「しても無駄な心配を垂れ流すのは止めておけ。出てきたら対応するだけだ」
今更引き返すなど契約者である商人達が許さないだろう。一度決めたことを翻すということは先だっての判断が間違っていたと認めることであり、報告されればギルドの評価が下がってしまう。渋々だろうがなんだろうが、頷いてしまったならばその責任はベリリュースにあるのだ。
「俺も年を取ったものだな」
若い時はこんな風ではなかった――とベリリュース。昔なら人の生死には代えられないと引き返していただろう。用心のため、村での滞在時にも単独行動を禁じていただろう。
団長としての十年間は良くも悪くもベリリュースにその年月に見合う影響を与えている。積み重なったものを無視することは中々難しいものであった。
「……団長。前から誰かくるようです」
「うむ」
ベリリュースは部下に返事をし、前方に目を凝らした。
馬と人が歩いてくる。距離が近づくにつれ、馬に女が乗り、歩いているのは三人だとわかる。
「旅人だろう」
「止めますか?」
「……そうだな。一応、その方がいいだろう」
部下が後続を停止させると、顔見知りの商人が荷馬車から降りてやってくる。
「どうしたのだ、ベリリュース」
「旅人のようです」
言葉少なに答える。
「念のために停止させました」
「警戒のし過ぎではないのか? 相手はたった四人だ」
旅人の数を数えた商人――ヘテロ――の渋い表情に、
「それが仕事ですから」
「やれやれ。警戒するならもう少し早めにやっておくべきだったな」
「………」
待っていると歩いているうちの一人が人間ではないことがわかってきた。
ヘテロは驚いた声で、
「エルフだぞ、あれは!」
「……そうですな」
馬に乗っているのは黒い髪の少女だ。その馬をもう一人の女が引いている。後の二人は男だ。
そして馬を引いている女はエルフだった。
「そ、そこの者!」
ヘテロはこちら同様停止した相手方に駆け寄ろうとする。
それをベリリュースが止めた。
「お待ちを。我々も行きます。――おい」
「はっ」
向こうより多くなるよう団員を呼び、ヘテロと共に近づく。
茶色の頭をした若い男が進み出て、値踏みするような瞳を向けてきた。
「なんだ?」
「済まないが、こちらの人が話があるようでな。付き合ってくれまいか」
「そりゃ別に構わないが……」
青年は視線を滑らしてヘテロを見る。
エルフを嘗め回すように観察していたヘテロは青年に向き直り、
「き、君! 後ろの女はエルフではないかね!?」
「そんなの見りゃ分かるだろう。エルフ以外のなんに見えるかね」
「そ、そうだろうそうだろう!」
相手が貴族ならともかく、そうは見えない年若い者に馬鹿にしたような口を利かれたことに一瞬むっとしたようなヘテロだったが、
「私は商人でヘテロという。王都に居を構え、地方を回り商いをしている者だ。今は帰途にある身だが、職業柄いい機会を目にしたら見過ごせない性質でね。失礼なこととは思うが訊かせて頂きたい。そのエルフは――」
「後ろの奴か。俺の友人だが――」
「ゆ、友人ですと!?」
ヘテロは仰天して、
「えええ、エルフの友人とは、ま、また珍しいですな!」
「そうなのか? 俺の村じゃ普通のことだが……」
「なななな、なんですとぉっ!」
「……なんだよ。そんなに驚くようなことか?」
「これはし、失礼を! そうですな! そんなに驚くようなことではありませんでしたな!」
ベリリュースは胡乱げな瞳をヘテロに向け、思った。この男はなにを云っているのだ。エルフの友人など珍しいに決まってる。それに先程から鬱陶しいくらい横目で合図をしてくる。まさか襲えというのではあるまいが……。
ベリリュースはヘテロを無視した。
「そ、それで、君の村はどこに――うほん、い、いや、実を云うと私達はもうだいぶ長いこと王都に帰っていないんだ。ずっと地方を回って稼いでいたものでね」
「……ふーん。それで?」
「やっと王都へ戻れると喜んでいたんだが、ここにきて厄介事が持ち上がってね」
ヘテロは上目遣いでチラチラと青年を見る。
「なんと昨日泊まった村で盗賊の一味らしき輩に護衛が一人殺されてしまったんだ!」
青年はヘテロの後ろに視線をやった。
「まだたくさん残ってるから大丈夫さ」
「とんでもない! 私は雇い主として大変心を痛めているのです! 彼等を無事王都まで送り届けてやりたいと!」
「そうかい。せいぜい襲われたら頑張って戦うんだな」
「いやいやいやいや、私は商人ですよ。戦いのことなどからっきしでして。商人である私にできることといえば、金で安全を買ってやることだけなのです」
「……さっきから何が云いたいんだ? 回りくどいことをせずにさっさと用件だけ云ってくれよ」
「つまりですな! エルフ達は魔法が使える者が多いですし、そんな彼等がいる村に滞在できたらとっても安全でしょうな!」
「ははーん。わかったぞ」
青年がニヤリとすると、ヘテロは焦った様子になり、
「別に他意はないのです! 私はただ安全を与えてあげたいだけで!」
「みなまで云うなって。俺にはちゃんとわかってるからよ」
「え……?」
「おっさん。あんたもだいぶ好きもんだな。その年になってよ」
「え、い、いや、それはその……」
「隠すなって。あわよくば妾でも探そうってんだろ? エルフの妾を持てば箔がつくからな」
「そ、それはですな……」
「いいっていいって。ただな、俺もエルフの友人を持つ身として危険な奴に村を教えるわけにゃあいかねえ」
「そ、それはわかります! さあ、私のこの目を見てください! 危険な人物には見えないでしょう!?」
ヘテロはベリリュースが止める間もあらばこそ、男に詰め寄ると顔面を突き出した。
「そんなに顔を近づけるなよ。俺にはそんな趣味は――あ、ああ、よくわかったぜ。おっさん、あんたからは邪気が感じられねえ。全くといっていいほどな」
青年は顔を背けてそう云う。
ベリリュースは吹き出しそうになるのを必死に堪えた。この青年の目はどうみても節穴だ。しかしこのまま黙って見ているわけにもいかないので、
「――ちょっと待ってくれ」
と、口を挟む。
「ヘテロ、勝手なことをされちゃ困る。寄る村はちゃんと予定を立てて決めてあるだろう。それに、云っちゃ悪いがエルフと人間が仲良く暮らす村なんて聞いたことがない」
「そりゃそうだぜ」
青年は平然と答える。
「仲良くなったのは最近だからな。魔物に襲われてるエルフを村長が助けたんだ。そして村長はそのせいで目が見えなくなった。その後目の見えない村長の世話をするために助けられたエルフが村に住み着いてな。それがきっかけさ」
「村長が魔物から助けたというのか?」
ベリリュースは半信半疑で訊く。たかが農村の村長如きが魔物と戦い、なおかつ襲われている者を助けだすなどできるだろうか。
「おうとも。あんた達も村長本人と会えば納得するだろうよ」
「ふーむ……」
「な、ならば場所を! 早く!」
「場所はこの先だよ。ちょっと進んだところにある道を左に曲がればいい。森のほうに少し進むとある」
「村だと?」
ヘテロは小間使いにすぐに地図を持ってこさせた。顔を近づけて眺める。
「……なるほど、この村か。しかしここは地図上では――」
「廃村になってますな。勿論予定にもない」
「お前は黙っとれ! 金になるとわかれば変更されるのが商人の予定なのだ!」
怒鳴られたベリリュースは鼻を鳴らした。
「んじゃ俺達はそろそろ行くぜ」
「おお! 貴重な情報をありがとう! 次の村まで気をつけてな!」
「そちらさんもな」
四人がベリリュースの横を通り抜けていく。
横目でそれを見るベリリュースとエルフの目が合った。
(……気に食わんな)
蔑んだ色があるのはわかる。だが何かが引っかかった。見ている方向は同じなのに、違うものを見ているような感覚だ。それに馬に乗った若者の妹という少女の表情も気になる。哀れむような、居た堪れないような、そんな感情を向けられているのを感じる。
「とうとう私にも運が向いてきたぞ! これまで真面目にやってきた甲斐があったわい!」
振り向いたヘテロの顔は醜く歪んでいた。
「大量のエルフを手に入れられればこの商売からも足を洗える! 最近暑さ寒さが身体に応えてきてたところなんだ! 数人残して売り払ってやるわ!」
「邪気だらけだな。というか、俺達は犯罪の手助けはしないぞ」
「犯罪ではない! エルフの友人達に王都を案内してやるだけだ!」
「……手伝わんからな」
「よく考えろ、ベリリュース。お前ももう年だ。そろそろ剣を振るのがつらかろう。ここで賭けにでねばいずれ野たれ死ぬのがオチだ。成功した時と比較してみるがいい」
「村人達はどうするのだ。エルフを守ろうと抵抗するに決まってる」
「どうせ大した村ではあるまい」
ヘテロは声を小さくした。
「殺してしまえばいいではないか」
「正気か? とても商人の言葉とは思えん。盗賊に鞍替えしたほうがいい」
「黙れ。儲けのためなら予定を変えるように性根も変える。それが優れた商人のやり方なのだ」
「止めておけ。上手くいきっこない。それにあの男の言葉が真実であるという保障もないのだ」
「それは行ってみればわかることだ! もし嘘だったとしても少しの損で済む。だがもし真実だったならば、これから先二度と出会えないであろう機会だ!」
「行くんなら一人で行くんだな」
「そういうわけにはいかん! これにはお前達の協力が必要だ!」
ヘテロは目を細くしてベリリュースを凝めた。
「私はこのことを他の商人や傭兵達に教えるつもりだ。お前が反対していると知ったならば彼等はなんと云うかな」
「貴様――」
ベリリュースは怒りのあまり視界が真っ赤に染まった気がした。
ヘテロは負けじと睨み返し、
「お前は村で部下を死なせている。他の面子が団長失格の烙印を押したとしても私は驚かんぞ」
「俺を脅す気か? お前がやろうとしていることは犯罪だぞ? 露見すれば縛り首になる」
「ばれなければいいのだよ。そのためのお前達だ」
「き、貴様という奴は……」
最早言葉もなかった。この男は傭兵を自分の手駒かなにかと勘違いしている。
「他の団員達も商人仲間も私に賛成するだろう。その時反対の立場をとったただ一人の団長はどうなるかな?」
「………」
ベリリュースは一抹の希望を持ってこの場にいる団員達に目を向けた。
「……済まないが、団長。俺もヘテロさんの言葉に賛成だ。最後に一度汚い仕事をやるだけで安全に暮らしていけるんならそっちの方がいい」
一人が云うと揃って頷く。
「お、お前達……」
「悪いな、団長」
「……くそっ」
ベリリュースは折れた。
それを見て取ったヘテロは手を叩き合わせると、
「よし! さっそく他の者達と相談してくる! まあ答えは決まっているだろうが! ベリリュースよ、しばらく小休止だ!」
「……わかりました」
気まずげな沈黙を引きずったまま隊に戻る。
ベリリュースは大きな溜息をついた。
どうにも妙なことになってしまった。旅の安全を制御する筈が、事態は既にベリリュースの手を離れてしまっていた。それに、村を出た時からつきまとっている嫌な感じが強くなった気がする。
顔を振って振り払う。村で部下が死んだせいで必要以上に過敏になっているに違いない。用心は大切だが、それも度が過ぎると偏執狂と変わらない。気をつけねばならなかった。
お湯が冷めるくらいの時間でヘテロが戻ってきて、隊商は出発した。しばらく進み、青年の言葉通り分かれ道を左に曲がる。使われなくなって久しいらしく、教えられなければ素通りしていただろう荒れ方だった。
剣で草を切り払い、道を拡げながら進んだ。
高かった太陽が真横に並び、さらに位置を下げる。
気がつけば木々がうっすらと視認できる距離までに森に近づいていた。
ヘテロ以外の誰もが青年の言葉を嘘だと思い始めたとき、それは見えた。
「おお! 村だ! 見ろベリリュース! あの男は嘘を云っていなかった!」
「……みたいだな」
ベリリュースは投げやりに返事をした。
「しゃきっとしろ! ここからはお前達の手にかかっているのだぞ!」
「……ふん」
村をじっくりと観察する。
ここに至るまでの道のり同様、村も荒れ果てていた。ただ人は住んではいるようで、廃村であったという記載から、最近になって誰かが村を再建したのだろうな、と思う。
周囲には隙間だらけの柵が並び、掘っ立て小屋のような、残骸のような家々が三十ばかり並んでいる。
驚きだったのは大量の肉が干してあることだった。農地が見えないことから狩りで生計を立てているのだろうが、普通ならばありえないと断言するその生活を納得させられる量だ。
並んでいる肉を目で追ったベリリュースはぎょっとして動きを止めた。
生皮を剥いだ巨大な生き物が丸太で組んだ櫓からぶら下がっている。
「要塞熊だ」
団員の誰かが呟いた。
特徴的な四本の腕がバラバラになって一緒にぶら下がっている。地面は黒い染みだらけだ。
ベリリュースの額から嫌な汗が流れる。凄まじく血生臭い村だ。小さな虫が大量に飛んでおり、人間とエルフが仲睦まじく暮らす楽園にはとても見えない。戦場暮らしの猛者でも躊躇うような異様な雰囲気があった。
それに、森に近いこの場所でこの肉の量。狩りの腕のほどがわかろうというものだ。魔物からエルフを助けたというのもあながち嘘ではなさそうである。どう考えても一筋縄ではいきそうにない。
「み、みみみ見ろ、ベリリュース! ええええエルフがあんなに!」
ヘテロは涎を垂らして阿呆のように口を開けている。
村の中には確かにエルフがいた。男も女もいる。人間の男達と混ざり、何かを作っているようだった。
「――おい、そこの子供……らしき者!」
ヘテロが通りがかった相手を呼び止める。らしき、というのもフードを深く被っており顔が見えないからだった。粗末な長袖のシャツと長ズボンを履いており、非常ながに股である。
「ギ……」
背中を見せたままその子供は呻くような声をあげた。
「ぎ?」
ヘテロが首を傾げていると、背丈の小さなその人物はあっという間に走り去ってしまう。
「なんだ、あいつは! こちらを見もしないとは! 失礼な村だな、ここは!」
「………」
ベリリュースの嫌な予感はますます高まっていった。今すぐここから逃げ出したい気分だ。
「そこの人!」
ヘテロが諦めずに声を張り上げる。
近くにいた三十前後の男が振り返り、こちらにやってきた。
薄汚れており、無精髭が生えている。見るに耐えない姿だ。
「……なんか用かい?」
「よくぞ訊いてくれました! 私達は旅の商人です! 偶然この村のことを知ったのですが、なんと地図の上では廃村となっている。さぞかし困っているだろうと思って立ち寄ったわけです!」
「ここには肉しかないぜ」
「大丈夫ですとも! 肉は生活に欠かせませんからな! 余っている肉があれば是非とも買い取らせていただきたい! こちらには穀物も干し野菜も酒もありますぞ! それと、ぶしつけなお願いなのですが――」
「ああ、ちょっと待ちな。村長を呼んでくるからよ」
「あっ」
ヘテロはぴしゃりと額を叩いた。
「これは私としたことが! まずは村長に挨拶すべきでしたな!」
「気にするな。村長はそれくらい笑って許してくれるだろうよ」
男はそう云うと村の奥に入っていく。
「よし、よし!」
「これからどうするんだ?」
ベリリュースは上機嫌なヘテロに問いかける。
「予定通りいくのか?」
「うむ。まずは相手の人数とエルフの数の確認だ。宴会でもてなすよう誘導し、酒をがんがん飲ませるのだ」
「……今ならまだ間に合うぞ?」
「臆したかベリリュース。これほどの宝の山を前にして尻を見せるなど男のやることではないわ!」
「……背中だろ」
程なく建物の影からさっきの男が出てくる。
後ろからは大きな男とエルフの女がついてきている。
「あれが村長……か……?」
ヘテロは呆気に取られたようだった。
ベリリュースも目を見開く。あれほど大きな人間は見たことがなかった。と、同時に得心する。あの男ならばオーガにだって引けを取るまい。そのうえ他人を魔物から助ける性根の持ち主とくればエルフが懐いたのも頷ける。
大きな男はつぎはぎの服を身に纏い、目には包帯をしている。青年の云った通りだった。
ベリリュースは天に感謝した。あの男がもし目に怪我を負っていなければ、こちらの被害は甚大なものになっていただろう。
「ようこそ、お客人。俺が村長のシドだ」
金髪のエルフに誘導された男はベリリュース達の前までくるとそう云った。
「なにもない村だが、ゆっくり休んでいくといい」
「それはありがたい。私は商人でヘテロといいます。こちらで商売をさせてもらっても構わないでしょうか?」
「勿論構わない」
「失礼ですが目が?」
「うむ。魔物共に不覚を取った」
「それはそれは。しかしこういってはなんですが、そのような美しいエルフに世話をされるのでしたら本望でしょうな。代われるような代わりたいものです。――おい、ベリリュース! 挨拶くらいしたらどうだ?」
ベリリュースは云われ、はっとなって、
「これは申し訳ない。私は護衛の傭兵団を率いているベリリュースという。短い間だが世話になる」
「……傭兵団か」
村長は声のした方をじっと見た。
ベリリュースは、見えていない筈なのに視線で射抜かれるような感覚を確かに味わった。
ベリリュースは思い切って訊ねることにする。
「素晴らしく鍛えられた身体だが、何故このような村に? それほどの身体と狩りの腕があったなら――」
「失礼だぞ、ベリリュース! 人には人の事情があるのだ!」
「いや、しかし――」
「気にすることはない。……そうだな。その話は夜にでもしよう。幸いここには肉だけは大量にある。盛大に振舞おう」
「それなんだが――」
ベリリュースの第六感が鳴らす警鐘は今や最高潮に達していた。これまで経験したことのない危機感で、胸がむかむかしてくる。
「あそこにぶら下がっているのは魔物の肉だろう? 魔物の肉は食えたものじゃないという話を聞いたことがあるが……」
「魔物の肉もあれば、そうじゃないのもある。夜に供すのは猿の肉だ」
「猿……? ここら辺りに猿など……」
「いるのさ、それが」
村長は大きな笑い声をあげた。
それは、まるで底なしの穴から響いてくるようで、
「ここら辺りでは猿がよく獲れる」
ベリリュースは背筋に冷たいものが走るのを止められなかった。




