王都にて―図書室・上―
桜色の小さな唇がパクパクと開き、閉じる。
その様子を見たシドは小さく背を丸め、相手を窺う素振りで、
「どうした。苦しそうだぞ」
と訊ね、その後合点がいったと風に首を上下させた。
「無理をして陸の上に留まるからこうなる。早いところ海に帰るのだ。世代を重ねればいずれ地上で生活できるようになる。そうしたら改めて陸にあがるがいい」
マリーディアと名乗った女は目を瞑った。均整のとれた胸に手を当てると大きく息を吸い込んで、吐く。何回か繰り返すと顔の色が徐々に戻った。
「それはこちらの台詞だ! ――オマエこそ兵士に見つかる前に森に帰ったらどうだ? 人の社会は図体だけ巨大化した人もどきには優しくないぞ。オマエを見ていると何故オーガの知能が低いかがよくわかる。身体が大きすぎると頭にまで栄養が行き渡らないらしい」
無駄な時間を使わせた詫びも兼ねて珍しく気を使ったシドだが、返ってきた言葉は辛辣なものだった。
「……お前の体調を気遣った俺に対し云う言葉がそれとは。そっちこそ礼儀がなっていないようだな」
「……まともに会話も成立しないのか。悪いことは云わない。どこで拾ったかは知らないが、その紹介状を渡してここから立ち去れ。今なら見なかったことにしてやるから」
ズイ、と手を差し出してくるマリーディア。
シドはミアータから貰った紙を隠すように懐に戻した。ここにきてようやく悟る。この女はハズレだ。話すだけ時間の無駄である。知る知らない以前の問題だった。
「お前と話していても時間の浪費にしかならん。そこをどけ」
マリーディアは空ぶった手をぎゅっと握り締めた。表情を消すと冷たくシドを見据える。
「――イヤだね。どうしてワタシが道を譲らないといけないんだ?」
横に視線をやり、わざとらしく通路の幅を確認すると胸を反らして、
「一人しか通れない幅じゃない。先に進みたいならオマエが避けて行けばいい」
「いや、お前が道を譲るんだ。こればかりは議論の余地はない」
「イ・ヤ・だ・ね。ワタシにはオマエを優先する理由がない!」
「フ――」
シドは可笑しそうに口元を綻ばせた。
「愚かな女だ。理由ならあるではないか」
「……そんなものはない」
マリーディアはどうやら真面目な性格らしく、否定しながらも思い当たる節がないか考え込む素振りを見せる。
「お前はまだ子供だ。子供には圧倒的に経験が不足しており、無知な場合が多々ある。だからわからないのだ。これはお前のせいではないし、故に責めることもせん。今学べばいい事だからな」
シドは諭すように云う。マリーディアは、見た目から推察するに十代半ばを過ぎた位。片足は外に飛び出しているが、ぎりぎり子供の枠内に収まっているといっていい。
「いいか、よく覚えていろ。弱者は強者に道を譲らねばならん。厳しい事を云うようだがこれからは誰も逃れられぬし、時には譲る道が人生そのものになる場合すらある。それに比べたらお前は運が良いほうだ。歩む道を譲るだけでいいのだからな。しかも経験というおまけつきだ。次からは自分より強いものに出会っても失敗せずに済む。――さぁ、わかったらそこをどけ」
「ふざけるな!!」
マリーディアの顔が再び赤くなった。
「まともな事を云うかと思えば……!! ここは街の外ではない!! そんな主張が通るものか!!」
「もうお前と会話するつもりはない。どけ」
「絶対イヤだ! こうなったら意地でも譲らないからな!! オマエが避けろ!!」
シドは無視して歩き出した。マリーディアを脇に追いやろうと腕を伸ばす。
「ワタシに指一本でも触れてみろ!! 大声で悲鳴をあげてやるぞ!!」
その言葉に背後を振り返った。大勢いるらしき部屋を後ろに残してきている。いつ誰が出てきてもおかしくない。そうなる前にここを離れる必要がある。
ズンズン歩く。大柄な姿が目前に迫ったマリーディアが足を踏ん張って両手を前に突き出した。
「それ以上近づくな!! 近づくなと云って――」
シドとマリーディアが接触した。
シドが手を触れずにそのまま押していくと、マリーディアは転ばぬように必死に足を動かした。
「バカッ!! 止めろ!! あっち行け!! ホントに叫ぶぞ!!」
「………」
他の人間を探して通路を進む。
「待てって!! このままじゃ転んでしまうから!! お――」
シドはピタリと立ち止まった。転ばぬようにシドの外套を掴んでいたマリーディアは手が離れ、支えを失い尻もちをつく。
「――っつうぅ」
『マスター!! パンツ丸見えと云ってやるんです!! 今が攻め時です!!』
「………」
シドは応えず、通路の先に視線を固定している。
前方から男が走ってくる。その男は走りながら叫んだ。
「マリーディアさん! 講義中に勝手に抜け出すなと何度云ったら――」
男はシドの姿形に気づき、驚いたように言葉を中断した。顔を凝視し、その背丈に息を呑む。
マリーディアは四つん這いのままカサカサと動き、シドの後ろに回ると立ち上がった。渋面で顔を覗かせる。
「あの、貴方は……?」
ローブを着た線の細い男は恐る恐るシドに訊ねた。
「俺は怪しい者ではない。ここへは調べ物をする為に来た」
シドは慣れた手つきで懐からサッと紙を取り出す。
「お、お客さんですか」
男が安堵の息を吐く。
その様子にシドは改めて感心した。ミアータが寄越したこの紙の効果には素晴らしいものがある。元の世界にあった殺人許可証に匹敵するといえよう。
「これはいいものだ」
「――はい?」
「なんでもない。気にするな」
「はぁ。ところで、何故マリー――ウチの生徒と一緒に……?」
「単なる偶然だ。それより道を訊ねたい」
「構いませんよ。どこへ行かれるのですか?」
「書物のある部屋を探している」
「ああ、それでしたら――」
男の丁寧な説明に、どうやら全く見当違いの場所を歩き回っていたらしいとわかる。
「――わかりました?」
「うむ。問題ない。礼を云おう」
男は仁王立ちで頭も下げずにそう云うシドに呆気にとられる。しかし、自分の目的を思い出したのか、
「そ、それじゃお気をつけて」
そう云うと、目つきを厳しくしてシドの背後にいるマリーディアに向かって、
「それで隠れたつもりですか、マリーディアさん! いくら成績が良いからといって無断で抜け出すのはどうかと思いますよ!? きちんとした理由があるのなら認めるので事前に申請しろと何度も云った筈です!」
「申請しても認めないじゃないか! だったら抜け出すしかない! まずは自分達の行いを振り返るべきだ!」
「昼寝や買い食いのどこがきちんとした理由なんです!? そういうのを認めるわけにはいきません!」
「そんな事を云ったら抜け出す理由がなくなってしまうだろ! ワタシに講義を受けろと云ってるようなものだ!」
「当たり前でしょうが! 貴方は一体何故ここへ来ているんです!?」
「行かないと親が怒るからに決まっている!!」
「ぐっ――」
「つまりワタシには勉強をする理由がない! これで納得できただろう!」
「出来る訳がないでしょう! いいからこっちへ来るんです!」
男は実力行使に出た。シドの後ろに回り、マリーディアを捕まえようとしてくる。
それに対し、シドを間に挟むことで逃れるマリーディア。
二人は衛星のようにシドの周囲をくるくると回る。
「(ここは児童施設の類か)」
『時間の無駄なので行きましょう』
とりあえず最初の入口まで戻ることにするシド。だが、重力に引かれた衛星はその程度では離れなかった。
「いい加減諦めろ!」
「それはこちらの台詞です! 貴方こそいい加減諦めなさい!」
「講義はどうした!? 他の生徒が迷惑をしているぞ!?」
「貴方のせいですよ! 悪いと思うのなら今すぐ戻りなさい!」
「人のせいにするとはそれでも講師か! 恥を知れ!」
「あ、貴方という人は!!」
シドに合わせて移動しているし、視界が塞がれるわけでもない。狙ったわけではないのだろうが、歩くのに何ら支障はなかった。邪魔だといえば嘘になる。何も云わずにそのまま入口まで到達した。
先程選んだ通路とは逆を選ぶ。
「あ、あれは――!?」
そう云って男が立ち止まる。目は入口に釘付けだ。
当然のように歩くシドとぶつかって吹き飛ばされた。
「――うわわっ」
「邪魔だ」
「す、すみません」
謝りつつも、視線は入口に固定されたままだ。
「な、何故あんな所に穴が……」
男が見ているものにマリーディアも気づいた。しめた――と口元が緩む。
「誰か侵入したんだろう。こんなことをしている場合ではないのではないか?」
自分を捕まえに来た講師の気を逸らす絶好の機会を見過ごさず、云う。
シドも二人の見ている場所を見る。大きな扉があり、その真ん中に人一人が余裕で通り抜けられそうな穴が空いている。そこから誰かが侵入したのは明らかだった。
「(――まぁ、俺には関係のない事だな)」
『空けたのはマスターでしょうが!!』
シドは男の身体を脇にどかすと当初の目的を果たそうと教えられた場所へ向かおうとする。
「――ちょっと待て、オマエ!」
「………」
「待てと云っている! オマエには扉の破壊という容疑がかかっている! 疑いが晴れるまでここにいるんだ!」
「嫌だと云ったら?」
「警備の兵を呼ぶ!」
「………」
仕方なく立ち止まった。今回の目的は本だ。騒ぎが起これば読めなくなってしまう。そうしつつも男に目をやり、無言で援護を催促する。
「――し、しかし……夜間ならともかく、昼間は魔導石が嵌ったままになってる筈ですよ。何故扉に穴を開ける必要が……」
「開け方がわからなかったんだろう」
「それならば人に訊ねればいいことです。だいたい、壊すにしても警備の目を逃れて侵入する程の者がわざわざこのような証拠を残したままにするでしょうか……」
「正面から堂々と入ってきて、開け方がわからなかったから壊したんだろう。普通に考えればそうなる」
マリーディアはチラリとシドを流し見た。
「そしてそのことから、侵入者の思考が子供のように短絡的であることがわかる」
まさにオマエだ――マリーディアは言外にそんな意味を含ませて云う。
「普通じゃないから壊れてるんですよ。仮に、百歩譲って誰かが侵入したとします。それで、開け方を訊ねなかった理由はなんです? 短絡的だというのは貴方の推論でしょう」
「そ、それは――」
マリーディアは考える。容姿から推測される身体能力、外の門を素通りできる紹介状、そして短い会話ながらも滲み出ていた性格、その全てが目の前のシドという男が犯人であると告げている。
「な、何らかの理由で魔力を操作できなくなったというのはどうだ。それならば辻褄は合う」
「どうだ、ではありません。そのような憶測で犯人を断定して冤罪だったらどうするのです。責任がとれるのですか?」
「ならどうするんだ!? 今の状況で部外者であるこの男を野放しにするのか!?」
「……と、とりあえず誰か呼びましょう。原因追求はそれからです」
「待て」
シドは人に知らせようと背を見せた男を呼び止めた。
「人に知らせるのは構わんが、俺には用がある。教えられた部屋にいるから用があればそこへ来い」
「あ……いや、それは……」
「別に構うまい。ここでただ待っても時間の無駄になるだけだ」
「……わかりました。それと、犯人扱いするわけではありませんが逃げようとはしないように。外の門にいる警備の者には誰も出さないように指示が出ると思いますので」
「そのような心配は無用だ。ここへ来た意味がなくなってしまうからな」
「――そんな勝手が許されるか!! 容疑が晴れるまでここにいるんだ!!」
シドは喚くマリーディアを無視した。
先へ進むその姿にマリーディアは、
「――くそっ! 人の云う事を聞かない奴だ! ワタシはあいつが逃げないよう見張っている! それでいいな!?」
と講師に云うや後を追いかける。
「いいなって……。答えを聞かないで行くんでしたら許可を求めるなと……」
男はそう漏らしながら、変な事になってしまったと溜め息をつき、学長に知らせるためにこの場を去る。
去り際の小さい呟きは、駆けてくる足音と共にシドの耳に届いた。
『あの女、ついてきますよ』
「(………)」
物的証拠もなしにシドを疑い続ける女は、無言の威圧を放ち、一定の距離を保って後を追ってきた。もしシドが実際に犯罪者で襲って逃げようとした場合、どのように対処するつもりなのか。
云われたままに通路を曲がり、階段を上がる。目算で建物の端の方まで来たとわかった。
「(ここで間違いないな?)」
『はい』
目の前にある木で出来た扉に手をかけ、ゆっくりと押す。
「(……動かん)」
『押すのではなくて引くのでは?』
「(押してダメなら引いてみろ、というヤツか)」
軽く引っ張ってみる。しかし、扉は頑としてシドを受け入れなかった。
「(壊れているのか、この扉は)」
『鍵がかかっているのでは?』
「(あの男はそんな事は一言も云っていなかったぞ)」
『しかしマスターが訊いたのは行き方だけですよ。訊かれなかったから教えなかったんでしょう』
「(……仕方がない。壊すか)」
『後ろで見ていますが……』
「(バレなければ騒ぎになるまい。要はその瞬間を悟らせなければいいのだ)」
『私は知りませんよ……』
シドはナイフを取り出した。スイッチを入れ、普通なら取っ手のある部分に嵌っている石から真横にある隙間にそっと押し当てる。施錠機構は魔法仕掛けのようだが、開閉部分は既存の物と変わらない。開閉に邪魔となる部分だけ切断すれば開くだろう。
準備が整うと後ろからではどうやっても見えないように目一杯体躯を寄せ、何気なく通路の先に顔を向ける。そして――
「あれが犯人ではないのか!?」
驚いた素振りで左手を勢いよく上げ、通ってきた通路の方を指差した。
「――なにっ!?」
マリーディアは弾かれたように指差す方向に首を回す。
「(所詮は子供よ)」
シドは右手のナイフを上下に動かした。確かな手応えを感じる。魔法がシドの前に膝を屈したのだ。
微かに響いた切断音に、顔が戻ってきた時には全ての仕事が終わっていた。何かしたという事には気づいただろう。
扉を開け放ち堂々と入った。扉の鍵部分を明らかな疑いを持って凝視するマリーディア。しかしシドが進むと迷った末に調べるのを中断する。
中は広く、足元にはふかふかの敷物、螺旋状の階段が左右にあり吹き抜けになっていた。上も下も本棚が立ち並び、中身もぎっしり詰まっている。入ってすぐ右手に机、本棚の手前にも長机が規則正しく並んでいる。
階段を上がるのは厳しい。下の階の棚に行き、適当に一冊引き抜いてみる。
パラパラとめくる。挿絵など微塵も存在しない。びっしりと詰まった読解できない記号の羅列が強烈に目に焼き付いた。
「(素晴らしいコレクションだ)」
シドは本棚を眺め、感嘆する。ここにある書物を全て読めばこの世界の誰よりもこの地の事に精通できるかもしれない。このような場所が他の国にもあるのならば是非行かねばならないだろう。知識がシドを呼んでいた。
とりあえず手に取ったそれを戻し、最も簡単な発音と文字の相関が記載されている書物を探す。言葉は解るのだから文字の発音さえ知れば読めるようになる。初めは簡単な書物を船に転送、解読し、徐々に難解な物に変えていけば行き詰まる事もない。
だが、いざ探そうという段になると壊れた人形のように動きが停止した。文字が読めねば題名すらもわからない。そもそも最初の予定ではそれはターシャなどに教えてもらおうと思っていた。どうせ大量の書物が必要になるのだし、その最低限の知識もここで手に入るだろうと考えたのだが……。
急いた己を責める。ミアータの屋敷にあった僅かばかりの書物で始めるべきだったのだろう。しかし、だからといってここまで来て引き返す事は出来なかった。今は読めないが夜には読めるようになっている筈だし、ミアータの持っている書物はその立場上政治的な物が多いと予想する。つまり、ここの書物を持ち帰れば来た事は一応無駄ではなくなる。
居座って転送することも考えたが、いつ警備の兵がやってきてもおかしくはないので持ち帰ったほうがいいだろうと結論を出す。こうしている今も、穴も空けよと睨み続ける女に訊くのは論外だった。
「(ドリスよ)」
シドは相談役に声をかける。
「(ここの書物を持ち帰りたい)」
『え……』
「(ここの書物を持ち帰りたい。策を云え)」
『……こういう場所では貸し出すシステムがある所もあります。まずはそれを確認するのが先かと。この世界は情報が電子化されていませんので紙などに記録してあるかと思います』
「(なるほど。形として残っているなら探せばいいわけだな)」
最も入口に近い机に行き、周辺に何があるか調べる。
付箋で仕分けされた書物が車輪付きの荷台に並べてあった。貸し出す場合は記録する為の何らかの記号が付与されていてもおかしくはないので、手に取ってその有無を調べる。
一番最後のページに小さな紙片が貼り付けてあり、記号のような文字が書いてあった。
机の内側に入り、引き出しを次々と開ける。脇にあった棚も調べ、中に入っている資料を片っ端から机の上に並べた。
「――な、何をやっているのだ、オマエはっ!!」
いきなり物色し始めたシドに、とうとうマリーディアが口を出した。
「見てわからんのか。調べ物をしている」
「関係者以外でそこに用があるわけがないだろ!」
「それはお前の決めつけだ。俺はここにも用があるのだ」
「嘘を云うな! そこには本の目録や貸し出し用の記録簿しかない!」
「……それを先に云え。俺の探す書物がここにあるのかと疑ってしまったではないか」
「正気か、オマエ!?」
丁寧に書類を元あった場所に戻す。そして戻し終わったシドの手には一枚の付箋が握られていた。
同じく見つけたペンと一緒に懐に入れ、一度は離れた本棚へと行く。なるべく分厚い書物を適当に選び出すとそれを重ね持ち、再び机の所へ。
一冊づつ、末のページに書かれている記号を付箋に書く。最後に、
【――以上の書物を借りていく。シド】
と、元の世界の文字で記入すると目に付きにくい場所に隠すように置いた。
両脇に持てるだけの書物を抱え、出口へ。
シドのやる事を逐一観察していたマリーディアは徐々に表情を険しくしていったが、シドが隠した付箋に目を通した瞬間爆発した。
「――この、こそ泥め!!」
シドの前を塞ぐと、手にした付箋を突きつける。
「なんだこれは!!」
「それは貸し出しの内容を伝えるカードだ」
「こんな字が読めるか!! それに部外者には貸し出し不可だ!! 何も知らないようだから黙って見ていたが、オマエにはまともにここの規則を守ろうとする気がないのがこれではっきりした!!」
マリーディアはシドの書いた付箋を破り捨てた。
「兵が来るまで大人しくしているんだ! 逃げようなどとは考えるなよ。ワタシはこれでも体術には自信があるんだ。痛い目を見たくないなら黙ってそこにいることだな」
「………」
シドはヒラヒラと舞う紙片を凝めた。あの付箋に書かれた一文はシドがこの世界で初めて書いた文字だった。この世界の文字と、シドの元いた世界の文字が混じっていた、云うなれば二つの世界の架け橋のようなものだ。それが今破り捨てられた。シドがこの世界のやり方に合わせて作った新たな歴史の一ページは紙屑となったのだ。
むくむくと雷雲のように黒い怒りが胸中に湧き上がるのを感じた。しかしここで暴れて今までの努力を無駄にするほど愚かではない。グッと堪える。
シドは我慢が出来る男だった。
「……そこをどけ」
「断る! 通りたいなら力づくで行け!! 人生が終わってもいいならな!!」
「――マリーディアさん!! 無事ですか!?」
このまま押し通るしかない。シドが押し退けて帰ろうとした時、入口から男達がなだれ込んできた。あの、ここへの道順を教えてくれた講師の男も混じっている。残りは武装した兵達だ。
兵士達はシドを扇型に取り囲む。剣は抜いていないが剣呑な雰囲気だ。
「遅いぞ」
「済みません。貴方が無事でホッとしましたよ。生徒を侵入者と一緒に行動させて何かあったら――」
「――そんな事はどうでもいい。それよりこの男が犯人だという証拠が見つかったのか?」
「いえ、それはまだですが、扉が破壊されたと思わしき時間帯に外からきた人間は他にいなかったのですよ。最後に使用した人間もわかっていますし、その人が通ったあとに扉が壊れていないのも確認できました」
マリーディアは勝ち誇った顔でシドを見た。その目には気に食わない男をやり込めた満足の色があるが、微かにそれ以外の感情も混じっている。
自分を愚弄するかのような言動を繰り返したシドを眺めながら、
「観念する時が来たようだな。近頃の男にしては中々骨があったが、如何せん計画が杜撰過ぎた。今の世の中は力だけで渡っていける程優しくはないのだよ。罪を償いながら勉強し直すんだ」
「……いつ、誰が力だけで世の中を渡ったというのだ」
シドは両脇に抱えた書物を床に下ろしながら訊ねる。
「オマエだ! 入り方がわからないからと扉を破壊し、文字も書けないくせに適当に記入して本を持ち去る! 典型的な傭兵共の行動だろう!」
「勘違いをしているのはお前達だ」
「――何だと!?」
云い合いを始めたマリーディアに、講師の男が後ろからそっと話しかける。
「あの、マリーディアさん。何かあるといけないので一応下がっていてもらえないでしょうかね……」
「この男を発見したのはワタシだぞ! 捕縛を見届ける権利があるのだ!」
「そんなものある訳ないでしょう。いいから早く下がってください」
「断る!」
打てば響くように言葉を返す。
「……仕方ありませんね」
講師の男は兵士に目で合図した。
意を受けた男が一人、マリーディアを外に出そうと手を伸ばす。
マリーディアはその手を自然な動作で躱すと、流れるように股間を蹴り上げる。
「ぐアっ!?」
兵士は目を剥くと脱力して床に転がった。身体を小さく丸め、痛みに悶絶する。
残りの十人近い男達の眼差しが険しくなり、講師は慌てて、
「マリーディアさん!? 何てことをするんです!!」
「うるさい! いきなりワタシに触れようとする変態には当然の報いだ!」
生徒が危険だと云われ急いで駆けつけた挙句、仲間が股間を潰され変態呼ばわりされた兵士達と、マリーディアとの間に刺々しい雰囲気が漂った。
マリーディアはシドとも、講師とも等しく距離を取ると、足を少し広げどのような動きにも幅広く対処できるスタンスを取り、
「さあ、話の続きだ。何が勘違いなのか云ってみろ」
と、シドに先程の続きを促す。だが、
「――どれ、良ければ私もその話に混ぜてもらえんかね」
シドが続けようとすると、またしても邪魔が入った。
入ってきた男は皺深い老人で、頭髪も顎鬚も真っ白だった。背中は曲がっておらず、高い身長もあって老人とは思えない威圧感を周囲にバラ撒いている。ローブのようなゆったりとした上着を羽織っているが、動くたびに下に着込んだ鎧が覗く。講師の男はサンダルだが、老人は兵士と同じ鉄靴を履いていた。
「学長!?」
講師の男がそう云い、マリーディアは渋面を作って老人を見やる。
学長と呼ばれた老人はつかつかと無造作に近付くと、これまたシド、マリーディアと微妙に距離のある場所に陣取った。
溜め息をついてマリーディアに、
「また君かね。お転婆も結構だが、そういうのは家でやりなさいといつも云っているだろう。ここは子供の我儘を主張する場ではないのだよ」
老人の目には長い歳月によって感情が擦り切れ、冷たくなった光があった。皮膚が滑らかになった顔は、能面のように表情が固定されていて、声をかけられたマリーディアは背筋に震えが走るのを感じた。
老人が捻くれた杖でコツコツと床を突くと、誰も言葉を発しない中に硬質な音が虚ろに響く。
老人は追い詰められた小動物のように攻撃的な気配を発し始めたマリーディアから目を外すと、そのままシドに向けた。
「――さて、お客人。我々が何か勘違いをしていると云ったように聞こえたが、よろしければ説明していただけないかね」
「いいだろう」
シドは先程までと何一つ変わらぬ口調で云う。マリーディアがはっと目を見張った。
「お前達は扉に穴を空けた事を犯罪だと思っているようだが、それは勘違いだ」
「ほぅ」
「こう考えてみるがいい。扉に穴を空けるのがいけないのではない。穴を空けなければいけない場所に扉を設置したことがそもそもの間違いなのだ、と」
「――なに?」
聞き間違いかと、老人が口元を歪めて訊き直す。
「耳が遠いようだな。穴を空けたのが罪なのではなく、扉をあそこに設置した事こそが罪なのだと考えろ、と云っているのだ。そうすれば穴が空いていた事は問題でなくなるどころか、寧ろ当然だと納得できるだろう」
老人の身体から力が抜けた。軽く頷くと、
「――云いたい事はそれだけか?」
と、訊ねてくる。
シドはそれを受け、ここぞとばかりに懐に手を入れた。
「云っておくが俺は怪しい者ではない」
その台詞と動作に感じるものでもあったのか、マリーディアが可哀相なものを見るようにシドを見る。
「これが紹介状だ」
そう云って懐から紙を取り出し突きつける姿は、マリーディアと初めて対面した時と何一つ変わらない。
老人は目を瞑ると、身体の前に立てた杖の頭に両手を乗せた。嵌め込んだ石を撫で回す。
「お、おい――」
マリーディアがそう声をかけるのと、老人が目を開くのは同時だった。
かっと目を見開いた老人の動きに呼応して、シドは突き出していた手を戻す。
ミアータから貰った紹介状がはらりと床に落ちた。シドは手の中に残った半分を眺める。
「――さて、どこに紹介状があるのかね」
老人は引き抜いた仕込み杖を戻しながら首を傾げた。
「年のせいかどうも最近視界が悪い。だがまぁ、本物か偽物かの区別くらいはつくさ。ささ、見せてみろ」
「………」
シドは手の中の紙片を握り潰した。
「……どうやら、死にたいようだな」
「なんだ、紹介状があるというのはやっぱり嘘だったのか。――いかんなぁ、そんな嘘をついては。貴族の紹介だと騙るのは重罪だぞ」
老人はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。
「たまにおるのだ。お前のように紹介状があれば何をしてもいいと勘違いする輩がな」
「………」
「そういう輩は殆どが相応の末路を辿ることになる。――聞いているか? お前のことだぞ、若造」
口元は笑っているが、目は冷たいままだ。
兵士達は姿勢を正して老人の様子を窺っている。
マリーディアは死刑宣告を出されたも同然のシドに申し訳なさそうな目を向けていたが、
「――ま、待ってくれ!」
と、勇気を振り絞り老人に待ったをかける。
「この男は確かに扉を破壊して侵入したが、紹介状は本物だった! 扉を壊しただけなら――」
「――黙れ」
老人は一歩出たマリーディアをピシリと杖で叩いた。
「誰に向かって口を利いているつもりだ。君の家では言葉遣いも教えていないのか」
マリーディアは打たれた箇所を手で押さえ痛みに呻いたが、気丈にも耐えると老人を燃えるような瞳で睨みつけ猛然と食ってかかった。
「オマエが切ったのは本物の紹介状だ! この罪人め!!」
「……君にはどうやらきつい仕置きが必要なようだ」
兵士や部下の前で罪人だと断言された老人の目が引き攣る。
「紹介状を切り捨て、罪を偽造するとは! 犯罪者が犯罪者を断罪するなど滑稽だ! オマエにはそんな権利はなくなった! ここはワタシ達に任せて出頭するがいい!」
「マリーディアさん!!」
講師の男が悲鳴に近い声を上げて掴みかかる。
「離せ、貴様!!」
「誰が貴様ですか!! いいから大人しくしなさい!!」
痛みに動きの遅くなったマリーディアはあっさりと捕まってしまう。
「くそっ! この変態め!! 捕まえる相手が違うだろうが!! この老いぼれこそ捕まえろ!!」
「お願いですからそれ以上話さないでください!!」
講師の男は老人におそるおそる、
「彼女には私からきつく云っておきますので――」
「拘束して学長室に連れていけ」
「い、いや、しかし――」
「拘束して学長室だ」
「は、ははいっ!」
老人に見られた講師の男は竦みあがった。
「ふざけるな! ワタシは何も悪い事はしていないぞ!!」
「……済みません」
謝るという講師の対応がマリーディアの暗い未来を暗示している。兵士が加担して引きずられ始めたマリーディアは藁にも縋る思いでシドを見た。
「オマエに頼るのは癪だが仕方ない! こいつらを何とかしてくれ!!」
「ふむ……」
シドは顎に手を当てて、
「理由がないな。今となってはお前を助けるということはこの国の兵士を敵に回すことと同義だ。それなりの利益がなければな」
「くそっ! この人でなしが!! 金ならあるだけくれてやる!!」
「そんなものは必要ない。いつでも稼げるからな」
「なにっ!?」
机にしがみついて抵抗していたマリーディアは驚きで固まった。しかしそれも一瞬で、何であれば取引の材料に使えるかと頭を回転させる。
その目が、シドの周囲に落ちている書物へと向けられた。
「――本だ!! ワタシは貴重な本をたくさん持っているぞ!!」
一縷の望みをかけてマリーディアは云った。
「………」
「こうなった以上もうオマエはここの本を読むことなど出来ないだろう!?」
さすがにこれではダメか――そう思って瞳に諦めの色がよぎる。
しかし――
「――あ」
マリーディアは自分の身体がふわりと浮くのを感じた。
「いいだろう。取引成立だ」
「え……?」
「お前の家で読書する事にした」
「そ、そう……か」
一体何がどうなってこうなったのか。すっぽりはまり込んだシドの腕の中で、呆然と見上げる。
呆気にとられたのは連れ去ろうとしていた講師と兵士も同じだ。まさに電光のような速さで、気づいた時にはマリーディアの身体は取り上げられていた。
講師の男は困ったような顔で老人を見る。
老人はそれを無視して顎をしゃくった。
鈴の鳴るような音をさせ、次々と剣が抜かれる。
シドはマリーディアを左肩に乗せると右手にナイフを持ち、兵士達と対峙した。穏便にここの書物を手に入れることが出来なくなった以上、瑣末なことにこだわる必要はない。優先順位は、まずマリーディアの書物、その次がミアータの屋敷のものだ。一家庭が持つ量だ。その気になれば馬車に詰め込める筈である。
「気をつけろ。あの老人は強いぞ」
そう囁いたマリーディアが、ぎゅっとシドの頭にしがみついた。




