28.金魚
「ツバメ」
まだ向こうを向いているツバメの手を取って、自分のお腹に触れさせる。慌てたように指が跳ねて、振り向いた顔は赤らんでいた。
「ばっ……何、してる!?」
「前の時も拭ってくれたじゃない」
「あれは……!」
「ツバメが、綺麗にしてくれるよね?」
シャツの裾を少し摘まみ上げれば、ツバメはジリ、と後退った。
一連のことを紅余さんが動きを止めてポカンと見ている。私の視線を追ったツバメが振り返って、眉をひそめた。
「……お嬢さん?」
「単に好みの問題かもしれないし、若いツバメはもっと情熱を有り余らせてたのかもしれないけど、それでも無差別に手を出そうとはしないって、今ので判りますよね?」
私も本当は聞くのが怖い。けど、できるだけ冷静に問わないとツバメは答えないから。
呼吸を整えて、深く息を吸い込む。
「紅さんの彼女とどうして寝ようとしたの?」
「は?!」
私から訊かれるとは思ってもいなかったのだろう。ツバメは大いに動揺した。
「さっき、ツバメは「何かしてたら殺してた」って言ったわ。私に対してそこまで言うのなら、当時紅さんの彼女だってわかってた人にそういうことしたらどうなるか……解らないわけないもの。理由があったんじゃない?」
ツバメは紅余さんと私に視線を往復させながら息をつめてた。視線を泳がせて、頭を掻きむしって、それから観念したようにぼそりと言った。
「……取引したんだよ」
「取引?」
紅余さんが身を乗り出した。
「なんの」
ツバメが口を引き結んだので、私はもう一押しする。
「その取引って、成立したのかな?」
はっとツバメが私を見た。紅余さんは「あいつがやったのと同じとこまで」と言った。一線は越えてないはず。
「……確かにしてねぇ、が……今、あの女どうしてる?」
「お前が消えて、しばらくして走り書き一つ残して消えた」
「……クソ女」
舌打ちひとつして、長く息を吐くと、ツバメはちょっとそっぽを向きながら口を開いた。
「たまたまな、見かけたんだよ。ロシア男っぽい外人と話してんのを。それから注意してて、何度目かに密会部屋に踏み込んだんだよ。浮気ばらすぞって脅そうと思って。そうしたら……まあ、浮気もしてたんだろうが、それはついでで、その外人に内部情報横流ししてやがったんだよ」
「……は?」
「お前がうっかり漏らしたのか、他のやつからやっぱり体使って聞き出したのかは知らねーけど、まあ、見たとこそこまで重要でもないもんだったし、浮気の証拠と一緒にバラしてやるって脅したら……もうしない。あんたとも寝てやるから、黙っててくれって抱きつかれて……まあ、それで収まるんならそれでもいいかって。正直、組織の情報なんてどうでもよかったから」
「お前……」
紅余さんのこぶしが握られたのを見て、ツバメは慌てて手を振った。
「なんだよ。あの時さんざん殴られてやっただろ!? クソ女、先に追い出した男がお前連れて来るって知ってたんだよ。全部うやむやにしやがった」
「そうじゃなくて! なんで早く言わない?! そうすりゃ……」
「言って、信じたかよ? それに、聞きたくないだろ、そんな話……」
紅余さんは片手で両目を覆って深くため息をついた。
そわそわと落ち着かなさそうなツバメは、まるで私が悪いとでも言いたげに顔をしかめて、まだ開いていた私のボタンを留め始めた。
「お嬢さんも! 不用意なことはするなって、言っただろ! くそっ。飛燕! 起きろ! この、役立たず!!」
それはあからさまに八つ当たりで。うっかり笑ってしまう。
「でも、ツバメ。私、きっとツバメなら大丈夫な気がする」
ぴたりと手を止めたツバメは、窺うように私を見上げて、目が合うと顔をひきつらせた。
「う……うるせーぞ! 何が大丈夫なんだよ? この、未成年! どいつもこいつも、俺をハメようとするんじゃねぇ!!」
一番下まできっちりと留めて、まるでツバメが呼んだタイミングで起き出したかのような飛燕を抱き起しに行く。
「くっそ。大丈夫か? 不具合は?」
「……面目ありません。一部壊れたデータはありますが、修復可能だと思います」
「帰るまで保たせろ」
「はい」
私も飛燕の様子を見に行くと、彼は深々と頭を下げた。
「ご無事でよかった……申し訳ございません」
「相手が悪かったもの。少しは学習になったんじゃない? だから、飛燕もまた強くなる。これからもよろしくね」
顔を上げさせれば、きりりと端正な顔に力強い瞳の光が宿った気がした。
それから私たちは何事もなかったように『冬の庭』を見学した。
今までの庭と違い、鳥や虫の気配がない。ひんやりと張りつめたような空気はどこか清浄で、彩度の薄い景色に咲く赤い椿や山茶花がより鮮明に見える。
見学コースの最後には、いい香りの蝋梅が植えられていて、また春へと続く四季の庭を感じさせていた。
庭から裏玄関の方へ移動すると(裏と言っても普通に大きな玄関口だった)、飛龍さんが待っていた。にやりと笑って、ツバメに「無事だったか」なんて声をかけている。
私も挨拶しなきゃと足を踏み出しかけたところで、つい、と肘を引かれた。
「お嬢さん。これを」
紅余さんが手に何かを握らせた。なんだろうと確認しようとしたのだけど、彼は開きかけた手を上から握り込むようにして「後で」と笑う。
「……もしも、あのロクデナシに裏切られたり、役に立たないときは、俺が死ぬまでに一度くらいなら手を貸そう」
「え? あの……」
「縁はない方がいいだろうから、口約束だが」
「大丈夫です。記録しました」
すこし冷ややかな飛燕の声に紅余さんは肩をすくめて、そのまま踵を返してしまった。
飛龍さんにも、「もう来ないように」と笑顔で手を振られて、微妙な気持ちになる。
無人タクシーの中で手を開いてみると、可愛らしい赤い金魚のキーホルダーだった。
「金魚は中国では吉祥の意味を持つ八つの宝の一つで、特に金運上昇の意味があるようですよ」
「なんか変なモンもらったのか? ったく、油断も隙もねぇな」
そう言いながら、ツバメは助手席で大あくびをした。
紅余さんをそのあだ名で呼ぶ意味を邪推して、こっそりと笑う。
私もちょっと気が抜けた。端末をチェックしてから少し眠ろうかなと開けば、カスミ伯母様からメッセージが入っていた。





