27.越冬
「何……これ」
今の今まで見えていたツバメの背中が見えない。そっと手を伸ばしてみれば、確かにそこに壁がある。ほんの数歩先にツバメが通り抜けたはずの場所に。
「ツバメ!」
呼んでみても返事はない。ツバメならすぐに気づくと思うのに。
「紫陽様。いいですか」
飛燕が場所を空けるよう身振りで示したので、少し下がる。アーチの隙間から見える範囲で視線を巡らせれば、今まで木々や茂みだと思っていた庭の境目が、高さ二メートルほどの黒い壁になっていた。
私は紅余さんを振り返る。彼の手には端末が握られていて、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
「あちらも同じ状態のようですね。そこにいますが、遮音されているようです。解除を試みたようですが、弾かれた、と」
「通信も遮断しないと、筒抜けか。なるほど傍にいなくてもいいわけだ」
するりと伸ばされた手を、飛燕が素早く反応して掴まえる。私と紅余さんの間に身体を滑り込ませると、紅余さんが笑った。
「ボディガードらしい。だが、わかっていれば、対処法はある」
捻られそうになった腕を同じ方向に身体ごと回して抜け、流れるように背後に回り込んだ。かと思うと、手にしていた端末の端を飛燕の首に軽く当てる。バチっと大きめの音がして、飛燕はその場に崩れ落ちた。
「飛燕?!」
「再起動には問題ない。少しの間眠っててもらうだけだ。どうせ、ゲートも小鷹が解除するだろうし、そのくらいの時間だ」
「そう長くない時間だと言うなら、なんのために!?」
「嫌がらせに決まってるだろう」
紅余さんは手にした端末の画面を私に向けた。数字がゆっくりとカウントダウンしている。十二、十一、十……一桁になったところで彼は一度それを止めた。
「わかるか?」
数字の横には「℃」の記号。私は黒い壁を振り返った。
と、腰に腕を回され紅余さんに抱きすくめられる。
「危ない人間からは目を離しちゃいけない。お嬢さんに恨みはないが、まあ教訓だと諦めてもらおう」
紅余さんは片手で器用に端末を操作して数字を動かし始める。それを少し遠くに投げ捨てると、私を石のアーチの柱に押し付けた。
「マイナス五度くらいで勘弁してやる。悔しいが、凍える前には解除されるだろう。凍えてくれれば笑ってやるんだが」
言いながら私の両手首を合わせて頭上に持ち上げ、片手で拘束しながらブラウスの一番下のボタンに手をかけた。
「……細っせえな。もっと肉付きのいいのが好みだと思ってた。安心しな? 最後まではやんねーよ。あいつがやったのと同じとこまでで許してやる」
「……ツバメが、何をしたの?」
「訊かない方がいいんじゃないか?」
紅余さんは慣れた手つきで片手でボタンを外していく。全て外し終えると、素肌の上を指が滑った。ジーナさんに教えられたあの感覚が肌をざわつかせて、突き飛ばさなきゃと思うのに痛いくらいの拘束は解けそうにない。羞恥と悔しさで一度だけぎゅっと目を閉じた。
ふと、紅余さんの手が止まる。覗き込むようにしていたその顔は、痛みを思い出しているかのように顰められていた。
「ツバメは、何をしたの?」
震える声で同じ質問を繰り返せば、彼の瞳は私を見た。
「俺の女を、無理やり抱こうとしたんだよ」
「その頃のツバメは、ずいぶん見境なかったんですね?」
「……いや」
紅余さんの目が泳ぐ。
「じゃあ、紅さんの彼女さんのこと、だいぶ好きだったんですね」
「それも、ない。そんな素振りひとつも……だから!! 何のつもりで!!」
当時の怒りの炎が再燃したかのように、彼の瞳が燃える。すごく好きだったんだろうなと解るのだけど、きっと私と同じように違和感も抱えてる。
「ツバメ、そんなことするかな」
「したんだよ。踏み込んで、引き離して殴りつけて、あいつは言い訳もしなかった」
だから、苦しい。
「『俺を殴りたきゃ殴ればいいさ』」
「……なに?」
「ツバメが父に言ったセリフです。私を傷つけようとしたのは別の人だったのに。それに、『他人のものに興味はない』とも。『繋がってる相手に下手な誤魔化しはしない』とも。紅さんは『繋がってる相手』だったんじゃないんですか? そんな相手の彼女を、ツバメは理由なく襲ったりしない」
紅余さんは、一瞬呆けて、でも次の瞬間にはまた眉をひそめた。
「だから、なんだ。無理やりではなかったとしても、翠蘭は確かにあいつと抱き合ってた。この目で見たんだからな」
ごうっと冷たい風が吹き抜けた。
振り向けば、所々髪の白くなったツバメが幽鬼のように現れて、そのままずかずかとやってくる。
紅余さんは私から手を離し、ツバメに向き合った。ツバメは立ち止まらずに、そのまま容赦ない一発をお見舞いする。
「あー、くそ。ムカつく」
一メートルくらいは飛んだだろうか。紅余さんは覚悟の上だったのかもしれないけど、私まで身が竦んだ。
紅余さんは小さく笑い声を漏らしていて、おかしくなったのではないかと心配になる。
「……早いだろ。まだ、何もしてねえ」
「してたら殺してるとこだ」
物騒なことを言いながら、ツバメは何か掌に収まるくらいのものを紅余さんに投げつけた。紅余さんに当たって落ちたそれは、淡い緑の文字列を宙に浮かび上がらせている。
「……タグ?」
「俺が仕込んだもんを、残しとくんじゃねーよ。何年経ってると思ってる」
「お前が入り込んだら判るようにだよ。こんな仕組みにしてたのか」
紅余さんは体を起こして、その宙に浮く緑の文字列を拡大したりスクロールしたりし始めた。
「それも置いてく。元々は不測の事態でアクセスできなくなった時に直接呼び出せるように仕込んでたんだよ。もうお前らに関わる気はなかったんだ」
不機嫌にそう言い放ってこちらに視線を流したツバメは、ぎょっとしてすぐ反対を向いた。
「ボタン!! ボーっとしてんじゃねーよ!!」
「あっ。うん」
そうだった、と慌てて背中を向けてボタンをかけていく。上から半分くらいまでかけたところで、ふと、手を止めた。





