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宙の花標  作者: ながる
第二部 地上の星に舞う蝶は

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09.外出

 目覚ましの音が、いつもより遠くで聞こえた。

 手探りで探すけれど、どうしても見つからない。仕方なく目を開けて見渡すと、丸くなったアンドゥの横で端末が軽快な音楽を流し続けていた。

 しばらくうだうだとして、ようよう布団から抜け出す。アラームを止めると、アンドゥがちらりとこちらを見上げた。


「おはよう。アンドゥ」

「にゃあ」


 安藤が答えてくれないので、机の上に置いておいたイヤホンを装着すると、ようやく「おはようございます」と聞こえてくる。


「家でもこれ必要なの?」

『紫苑様は油断なりませんからね。念のためです。ツバメに連絡つきましたよ。滞在はこちらのホテルです』


 パッと端末に地図が映し出された。

 空港からほど近いホテルで、あのまま直行したに違いない。


崋山院(うち)の系列じゃないのね」

『避けたのでしょう。どうします? ツバメは秋葉原に行くと言ってましたが』

「ケーブルも買わなくちゃいけないし……一緒に行ってもいいのかな……」

『偶然を装いますけどね。どの辺りで落ち合うか決めておきます。紫陽(しはる)さんはゆっくり支度なさってください。どうせ、ツバメはまだ寝てますから』

「そうなの?」

『昨夜遅かったですからね。さすがに、起きられないでしょう。昼前には起こします』


 いつもの朝食の時間に食堂に行くと、父さんが背広を手に立ち上がるところだった。

 ついてきていたアンドゥが、足元に隠れるように身を寄せる。屋敷をうろついても不審に思われないように、しばらく連れ歩いてほしいと言われたのだ。人の姿が見えるたびに物影や私の足の間に身を潜ませるので、みんなと同じように、父さんも微笑ましそうに猫を見下ろした。


「もう仕事に行くの? 今日までは休んでもいいんじゃなかった?」

「安藤君の件でね。招集がかかった」

「え……」


 どきりとした。


「概要は聞いてるんだけどね。立ち会ってくるよ。紫陽は? 授業かい?」

「う、ううん。授業は後で配信で受ける。ちょっと、買い物に」

「そうか。誰か連れて行った方がいいんじゃないのか?」

「え。そんな大げさにしなくていいよ。お婆ちゃんと出掛ける時以外はボディガードなんてついたことないもの。防犯ブザー代わりに、アンドゥを連れていくし」

「アンドウ?」


 父さんの目が見開く。


「undo。安藤じゃないよ」


 猫を抱き上げると、父さんは苦笑した。


「変わった名前だな」

「……ツバメがつけたの」


 嘘だったけど、父さんは頷いた。


「ああ。彼のセンスか。そういうの得意だって話だったな」


 「じゃ、お先に」と父さんはアンドゥの頭をひと撫でして足早に出て行った。



 ☆



 秋葉原までの道々、安藤から昨夜の話を聞いていた。

 安藤本体のブラックボックスを解析して、安藤が管理していたはずのデータをサルベージする作業が、ほとんど夜通し行われていたらしい。


『ジーナさんから、悲鳴のようなメールが届いたと笑ってました』

「ツバメにはヘルプは来なかったの?」

『社外秘扱いでしょうから、それは無理ですね。まあ、あちらに夢中でいてくれたおかげで、こちらは自由に動けましたけど』

「え? そうなの? 動くって?」

『ツバメに『Kazan』のサーバーに侵入してもらいました』

「ええ?」


 それって、まずいんじゃないの?


『大丈夫です。それがツバメの仕事のひとつですから。ホテルの回線を使ってますし、侵入を許したジーナさんは頭を抱えるでしょうが。詳しくはツバメに聞いてくださいね』

「え? う、うん。それで、何をしてきたの?」

『悪いことは、何も。データのチェックと監視カメラの映像を覗いたくらいです』

「……どういうこと?」

『本体の調査がどう行われて、どのデータを参照するのか。気になりますからね』


 朝出て行った父さんの背中を思い出す。


「父さんが聞くはずの報告をもう知ってるってこと?」

『カスミ様は判断がお早いですから』

「何か、まずそう?」

『いえ。紫陽さんは呼ばれなかったでしょう? 新しいボディを用意して、再び『安藤』として運用する方向みたいですよ。ボディがくるまでは、休暇扱いでしょうかね。その場の全員に箝口令(かんこうれい)が敷かれました』


 再び安藤として……


「え? じゃあ、安藤がもうひとり?」

『顔はそうでしょうね。でも、体は市販の物でしょうし、何より学習データが残ってませんので、私のようにはいきませんよ。再教育の過程で別物になるのは間違いありません』


 そうだろうけど……実際その姿で目の前に現れたら、私、きっと混乱しちゃう。

 落ち着かない気分に油を注ぐように、端末がメールの着信を知らせて震えた。

 電車もちょうど駅に着いたところで、私は改札を出てから端末を取り出した。

 知らないアドレス、それもランダムな文字列のもの。詐欺メールか何かかと開かずに削除しようとした指先が画面に触れる前に、そのメールが勝手に開かれた。

 え? と驚いている間に文面が飛び込んでくる。画面にはひとこと『くるな』とだけ。

 え? なにこれ。間違い?


『ツバメですよ。何かあったのでしょうか』

「え? そうなの? っていうか、見えてる?」

『昨夜無線で繋いでそのままでしょう? 外のフリーWi-Fiでは私との通信が不安定なので、そちらに送ったのだと思います』

「え? え? こっちに来たの、共有されちゃうの? っていうか、私ツバメに何も教えてないけど!」

『勝手には覗きませんよ。そのアドレスがツバメからだとわかっていたので。紫陽さんのアドレスは私が教えました。すみません。事後報告になりましたね』


 ツバメや安藤のことが分かってくると、なんだか少しずつ怖くなってくる。

 安藤のことは信用してるけど、それでも簡単にデータを参照されたり機器を操作されたりするのはびっくりする。

 ツバメのスキルを知っていたなら、伯母様が彼を疑って警戒するのも無理はないのかもしれない。

 つい先日の安藤の言葉の重みが、今になって解ってきた。


『紫陽さんが成人するまでの二年、私がサポートすることになります。それがどういう意味か、彼の方がよく解っているということを頭に置いてくださいね』

『紫陽さんは覚悟がありますか? 私を紫陽さんのものにする覚悟です』


 ツバメと安藤が協力すれば、遠い星にいても崋山院を掌握できるのかもしれない。指先ひとつで終わらせることも、無理じゃないのかも。

 いまさら、背筋に冷たいものが走った気がした。


 端に寄って端末に視線を落としていた私に誰かが近づいてきた。ヒールの音が目の前で止まる。

 ハッとして画面を閉じ、顔を上げる。

 初めに、明るいオレンジと赤で染められた髪が目に飛び込んできた。次に絵に描いた星空のような不思議な色の瞳。背が高くて、モデルのような女の人が、私ににっこりと笑いかけてくる。


「紫陽ちゃん、みーっけ♪」

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