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卒業試験

 ――いよいよ、アカデミー卒業試験の日がやってきた。


 灰隠の空は、まるで何かを試すように重たく曇っていた。

 乾いた風が校舎の旗を鳴らし、砂を巻き上げながら訓練場を吹き抜ける。

 普段なら笑い声が絶えないこの場所に、今日はひとつの声も響かない。

 生徒たちは、皆、己の掌を見つめていた。

 その掌に刻まれた“印”こそ、彼らの運命を決めるからだ。


 ツバサもその中にいた。

 腰に巻いた古びた包帯の下――焔印が微かに熱を帯びている。

 昨夜から眠れなかった。

 ――“ここで落ちたら、もう二度と追いつけない”。

 その焦りが、胸の奥で鈍く脈を打っていた。


 「おい、ボンクラ焔」


 聞き慣れた声。

 振り返ると、カイが立っていた。

 黒い外套の裾を風が揺らし、指には卒業試験の証――銀の印輪が淡く光っている。

 戦場帰りの彼は、以前よりも少し精悍で、目の奥に“覚悟”が宿っていた。


 「ビビってねぇだろうな」


 挑発混じりの声。

 けれど、その奥には確かな信頼があった。

 ツバサは少しだけ笑って返す。


 「……誰が」


 それだけ言って拳を握ると、焔が小さく脈を打った。

 カイは肩をすくめ、去り際に振り向きもせずに言い放つ。


 「去年みたいに燃やすなよ、ボンクラ焔」


 ――試験の内容は、ただ一つ。

 〈印を一つ、成功させること〉。


 それだけ。

 けれど、誰もがそれを“命懸け”と呼ぶ。

 印は世界の理を語る“言葉”。

 その響きを誤れば、世界が応える。

 わずかな心の乱れが命を奪う。


 「去年のように暴発させなければ大丈夫だ」


 ハガネ教官の声が、低く訓練場を震わせた。

 その一言に、ざわめきが走る。

 誰もが知っていた。

 去年――焔印の暴走で訓練場の半分が焼け落ちた。

 その中心にいたのが、ツバサだ。


 あの日の景色が脳裏をよぎる。

 皮膚を焼く熱、耳を裂く轟音、そして仲間の悲鳴。

 “呪いの子”と呼ばれるようになったのは、それ以来だった。

 だが今、ツバサの眼には迷いがなかった。


 (俺はもう逃げない……)


 彼は静かに目を閉じた。

 ユナの声が心の奥で蘇る。


 ――「炎を抑えるんじゃなくて、灯すの」


 深く、ひと息。

 胸の中心に焔が灯るイメージを描く。

 それは怒りでも、恐怖でもない。

 “誰かを守りたい”と願った日の小さな光。


 その想いを燃やす。


 「……行くぞ」


 ツバサが両手を組み合わせる。

 焔印が赤く輝き、掌の中に熱が集まっていく。

 だが今年は違う。

 熱は暴れず、脈のように呼吸と同調している。


 空気が張り詰めた。

 観覧席の生徒たちが息をのむ。

 ハガネの片眼が光を捉える。


 ツバサの手の中で――紅蓮の焔がゆっくりと花開いた。


 それは、去年のような爆炎ではなかった。

 穏やかで、優しく、それでいて確かな力を感じさせる焔。

 風に揺られても消えず、むしろ空気を包み込むように形を保っている。


 掌の上で焔が小さくゆらめく。

 まるで、彼の“命”がそこに在るかのように。


 「……成功、だな」


 ハガネの口元がわずかに緩む。

 訓練場を覆っていた沈黙が解け、誰かが小さく息を吐いた。

 そして次の瞬間――拍手が起こる。

 最初は一人、次に二人、やがて全員がその焔を讃えるように手を叩いていた。


 ツバサは焔を見つめたまま、静かに息を吐く。

 去年と同じ印。

 けれど今、燃えているのは恐怖ではなく――“想い”だ。


 「……やっと、灯せた」


 小さく呟いたその声は、風に溶けて消えた。

 だが焔は消えない。

 太陽の光と重なり合い、朱い粒となって空へ舞い上がっていく。


 ――それはまるで、彼の新しい人生を祝福するかのように。

 ツバサの焔は、確かに“灯った”。


 訓練場に静寂が戻る。

 ツバサの掌の上で灯った焔は、やがて風に乗って消えた。

 ハガネは隻腕で腕を組み、ゆっくりと歩み寄る。

 その顔に、わずかながら誇らしげな色が宿っていた。


 「……よくやったな、ツバサ」


 短い言葉。だが、それだけで十分だった。

 ハガネが生徒を褒めることなど滅多にない。

 ツバサは深く息を吐き、胸の奥に小さな達成感を覚える。


 「ありがとう先生!」


「俺ってばやっぱり天才なのかも!」


 そう言ってピースをして見せた

 ――これで、やっと終わった。

 そう思った瞬間だった。


 「だがな、ツバサの試験は――これで終わりじゃねぇ」


 ハガネの声が低く響く。

 周囲の空気が一変した。

 ざわめきが再び広がり、生徒たちが顔を見合わせる。


 ツバサは思わず顔を上げた。

 「……え?」


 ハガネは背中の懐から一枚の封筒を取り出す。

 赤い封蝋には“灰隠印術連盟”の刻印――それはこの国の頂点、印術師を統べる組織の印だった。


 「上からの通達だ」

 ハガネが紙を開き、ゆっくりと読み上げる。


 「――“焔印を持つ者、ツバサに対し、特別試験を課すこと”。」


 その言葉が告げられた瞬間、場の空気が凍った。

 ざわめきが渦となり、ツバサの心臓が一拍遅れて跳ねる。


 「特別……試験……?」


 ハガネは頷き、苦笑いを浮かべた。

 「どうやらお偉いさん方は、焔印を“観察対象”として見てるらしい。……試験の内容は――」


 その時だった。


 「俺からハチマキを取ること!」


 場の端から、明るい声が響いた。

 皆が一斉に振り返る。

 砂埃をかき分けるようにして、ひとりの男が歩み出てきた。


 年の頃は二十前後。

褐色の肌に、灰色の短髪。右耳には焦げた金属の飾りが揺れ、

 首元には灰を編み込んだような布を巻いている。

 片目の下に刻まれた黒い印が、彼の戦場の記憶を物語っていた。

 笑っているのに、どこか“獣”のような圧を放っている。


 その存在感に、周囲の生徒たちは一瞬で息を呑んだ。

 誰もが知っている――彼の名を。


 「……あれ、“灰隠最強”の……!」

 「本物かよ、エースのクロウじゃねぇか!」


 ざわめきの中、ツバサはただ呆然とその姿を見つめていた。

 リンは軽く顎を上げ、ニッと笑う。


 「よぉ、新入り。“焔印のツバサ”ってのはお前だろ?」


 ツバサが答える前に、リンは首の後ろのハチマキを軽く叩いた。

 風で布がひらりと揺れる。


 「試験の内容は単純だ。俺からこれを取ってみろ」


 ツバサの目が見開かれる。

 「……は?」


 「逃げてもいいぜ? でもそれじゃ卒業どころか、印術師の未来も閉ざされるかもな」


 クロウは片手をポケットに突っ込んだまま、焔を纏ったような笑みを浮かべる。

 その瞳は、戦場の獣のように光っていた。


 ハガネが短く言い添える。

 「ツバサ。特別試験――“実戦印術戦”。お前の焔が本物か、確かめさせてもらう」


 訓練場に再び風が吹いた。

 砂が舞い上がり、太陽が雲間から顔を出す。

 ツバサの焔印が、再び淡く光を帯びた。


 ――この戦いが、本当の“卒業試験”だ。


 訓練場の空気が、ふっと変わった。

 砂が舞い、風が渦を巻く。

 その中心に、ひとりの青年が立っていた。


 砂色の髪を後ろで束ね、風に揺れる外套の裾が翻る。

 腰に巻かれた風車の紋章がかすかに鳴り、足元の砂が風圧で舞い上がる。

 瞳は透き通るような灰青――

 その眼差しは穏やかだが、底には刃のような鋭さが潜んでいた。


 「大丈夫。俺も本気は出さないから」


 その言葉はあまりに軽く、冗談のように聞こえた。

 だが、周囲の生徒たちは誰も笑わない。

 リン=クロウ――灰隠最強の風遁使い。

 “戦場で風そのものになった男”と呼ばれる伝説の存在。


 「じゃ――よーい、スタート」


 軽く指を鳴らした瞬間、風が走った。

 砂塵が舞い、クロウの姿が揺らめく。


  ツバサは息を吸い込み、足元を踏みしめた。

 (こんな試験、すぐ終わらせてやる!)


 焔印が赤く脈動し、体中に熱が巡る。

 筋肉がきしみ、血流が加速する。

 地を蹴った瞬間、砂が爆ぜた。


 ――焔印・身体強化〈紅ノ脈〉。


 赤い残光を引きながら、ツバサの身体が疾走する。

 狙うは一撃。クロウのハチマキ。


 拳、肘、膝――連撃。

 まるで火花が人の形を取ったかのような速度。


 だが、クロウは微動だにしない。

 足の位置をわずかにずらし、肩を回し、腕で受け流す。

 全ての攻撃が“当たる前に消える”。


 ツバサの拳が風を切る。

 クロウの掌がわずかに添う。

 ――力が霧散する。


 「まっすぐすぎる。焔は“通す”んじゃねぇ、“導け”。」


 その声と同時に、クロウの肘がツバサの胸をかすめた。

 軽い一撃――なのに、肺が焼けるような痛み。


 (……強すぎる! 何も見えねぇ!)


 ツバサは息を荒げ、砂を蹴った。

 反撃。回し蹴り、跳び膝、掌打。

 だが、クロウは再び“いなす”。


 それは防御ではない。

 “風そのもの”が、彼の体を通して流れていた。


 ツバサの蹴りが届くたびに、風圧が逆流し、勢いが奪われる。

 拳が風に包まれ、止まる。


 「くっ……!」


 それでもツバサは退かない。

 紅ノ脈が再び脈打つ。

 体中の熱が一点――心臓に集まる。


 (押すな……通せ……導け……)


 呼吸を整える。

 重心を下げ、手の力を抜く。

 次の瞬間――ツバサの動きが変わった。


 “燃える”から、“流れる”へ。


 クロウの受け流しが、一瞬遅れた。

 ツバサの拳がかすかに頬をかすめ、火花が散る。


 「……ほぉ」

 クロウの目が細まる。

 空気が震える。


 「なら、風の本当の速さを見せてやる」


 瞬間、ツバサの視界からクロウが消えた。

 次の瞬間、背後から衝撃――膝が崩れる。

 地に倒れる直前、掌をついて回転。


 (見えない……でも……感じる)


 紅ノ脈が限界まで脈を打つ。

 ツバサは地を蹴る。

 風の中へ――真っ向から突っ込んだ。


 クロウの姿が霞む。

 風が刃のように肌を裂く。

 それでも止まらない。


 拳と拳がぶつかる。

 風と焔が交錯し、爆音が訓練場を揺らした。

 衝撃で二人の足元の砂がえぐれる。


 「……やるじゃねぇか」

 「まだ……終わってねぇッ!」


 ツバサが低く沈み込み、肘を突き上げる。

 クロウがそれを腕で受け流す――だが、

 ツバサの軸足が砂を切り裂いた。


 回転。

 焔を通した膝がクロウの肩口にめり込む。


 クロウの体が一瞬だけ浮く。

 その瞬間、ツバサの手が額当てに伸びた。


 ――掴んだ。


 だが、風が逆巻く。

 奪われたと思った瞬間、風が絡みつく。

 まるで“逃がすための意思”を持つように。


 (まだ……終わってねぇ!)


 ツバサは全身の熱を一点に集中させ、

 風を“押す”のではなく――“流れに乗せた”。


 風の渦を切り裂くように、手を滑り込ませる。

 指先が、確かに布を掴んだ。


 ビッ――


 焔が弾け、風が止まる。


 クロウの額当てが、ふわりと宙を舞った。

 赤い焔がその布を包み、優しく地に落とす。


 沈黙。


 風が止み、砂が落ちる音だけが響く。

 ツバサは膝をつき、荒い息を吐いた。

 全身が痛み、視界が滲む。

 それでも――笑っていた。


 クロウは額に手をやり、ゆっくりと笑みをこぼした。

 「……まいったな。取られたのは、十年ぶりだ」


 ハガネが遠くからゆっくりと歩み寄り、

 その光景を見て口元を緩めた。


 「合格だ、ツバサ」


 ツバサは膝をつき、焔を消した。

 その胸の奥では、穏やかな熱が確かに灯っていた。


 ツバサはまだ息を整えながら、クロウと向き合っていた。

 風遁の達人はいつもの飄々とした笑みを浮かべ、手に小さな銀の輪を掲げる。


 「おめでとう、ツバサ。

  じゃ――プロポーズのように、印輪をつけてあげますか」


 ニヤリと笑いながら、膝をつきツバサの手を取る仕草。

 周囲の見学生たちが「えっ」「えぇ!?」とざわつく。


 「なっ……そんな付け方されたくないってば!!」

 ツバサが慌てて手を引っ込める。

 耳まで真っ赤だ。


 クロウはけろっとした顔で笑い、輪を放り投げた。

 印輪は空を描いてツバサの手元に落ちる。

 「じゃ、自分でつけな。

  それが、お前自身で灯した“焔の証”だ」


 ツバサは小さく息を吐き、

 震える指で印輪を右手の指に通した。


 その瞬間――

 焔印が淡く光を放ち、彼の掌に紅の紋様が浮かぶ。

 それは確かに“呪い”ではなく、“誓い”の印だった。


 「……これで、やっと並んだな」

 ツバサが小さく呟くと、

 観覧席の向こうからユナが駆け寄ってきた。


 「ツバサ君!」

 風に銀の髪がなびき、桃色の瞳がまっすぐ彼を捉える。

 「すごかったよ、本当に……灯せたね」


 ツバサは少し照れくさそうに笑いながら、

 「……見てたのか」


 ユナはこくりとうなずく。

 「もちろん。だって――ツバサ君の焔、誰よりも優しかったから」


 クロウが腕を組み、にやにやと口角を上げた。

 「おーおー、青春だな。じゃあ次の特別課題は“両想いの印結び”にするか?」


 「うるせぇー!」


 ツバサが叫ぶと、訓練場に笑い声が広がった。


 灰隠の空に、風と焔がゆるやかに交わる。

 その日、ツバサの中の炎はもう――

 痛みではなく、確かな光として灯っていた。

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