あたたかいと言った人
風が止んでいた。
焦げた大地の上に、まだ赤い余熱が漂っている。
焼け焦げた草が、ぱち、ぱちと音を立てていた。
その中心で、ツバサは膝をついていた。
両腕は黒く煤け、右目だけが――燃えるように光っている。
焔の中に、ほんのわずか“影”の色が混じっていた。
「……ツバサ!」
重い足音とともに、砂煙を蹴り上げて走ってくる影があった。
片腕の男、こうまハガネ。
その眼に宿るのは驚愕と――恐怖。
彼はツバサの肩を掴み、ぐっと顔を覗き込む。
「ツバサ、その目……」
ツバサの右目は、焔色の奥に黒い紋様が揺れていた。
まるで光と影がせめぎ合っているように、ゆらめいている。
「先生……俺、また……やっちまったのか……?」
ツバサの声は震えていた。
視界の端で、焦げた地面にムカデの足跡が残っている。
だが、その姿はもうどこにもなかった。
ハガネは唇を噛みしめた。
その目は、ツバサではなく――周囲の闇を見ていた。
「……誰かが、里に入ったな」
その言葉に、ツバサの顔が上がる。
「まさか……“无”か?」
「分からねぇ。だが、こいつはただの暴発じゃない。
お前を狙って、仕掛けてきた連中がいる」
ハガネは腰の印符を取り出し、素早く地面に叩きつける。
瞬間、焔の結界が展開し、周囲の気配を探る。
風が渦を巻き、草木の影が一瞬だけ逆立った。
「……外敵反応、確認」
声が低く響いた。
ハガネは立ち上がり、アカデミーの方角へ視線を向ける。
「ツバサ、里に戻るぞ。
これ以上、お前をひとりにしておけねぇ」
ツバサは頷いた――が、その右目はまだ静かに光を放っていた。
その色は、焔とも闇とも言い難い。
(……何なんだ、この感覚……。
炎なのに、冷たい……?)
ツバサは胸の奥の違和感を押し殺しながら、
ハガネの後ろを歩き出した。
⸻
同じ頃、灰隠から遠く離れた山間の地下。
古い遺跡のような空間。
無数の柱に刻まれた印文字が、青白く淡く光っている。
だが中央は、光を拒む闇だった。
底の見えぬ黒い液体のような影が、地面一面を覆っている。
その中心に、ひとりの男が膝をついていた。
全身に火傷を負い、息も絶え絶えの男――〈ムカデ〉。
「……し、しくじりました……が……確認は……取りました」
掠れた声。
上方の闇がゆっくりと動く。
闇の奥で、金色の瞳がひとつ、またひとつと開いた。
十、二十――数えきれぬほどの目が、ムカデを見下ろしていた。
「報告しろ」
低く響く声。
ムカデは苦しげに笑い、焼け焦げた腕を持ち上げる。
その掌に、小さな紅蓮の結晶が宿っていた。
「……王印の器、“焔印”の覚醒を確認。
対象は灰隠の少年、ひつぎツバサ」
闇の奥で、黄金の目がわずかに細まる。
「十五年ぶりか……“焔”が再び灯るとはな」
静寂を切るように、別の声が響く。
女の輪郭をした影が、ふっと笑った。
「……けれど、奇妙ね。
彼の焔には“影”が混じっていたわ。
ほんの一瞬だけど、闇に触れても崩れなかった」
ムカデは顔を上げた。
その唇から血がにじみ、笑みがこぼれる。
「……あれは偶然かもしれねぇが、確かに……耐えていた。
普通なら、“影”は焔に触れただけで焼き尽くされるはずだ」
その言葉に、影の集団がざわめいた。
まるで風のない場所に波紋が立ったように、
闇の中で微かなうねりが起こる。
「……ならば、“器”の素質は十分だ」
金色の目が細く笑う。
「影に触れても壊れない焔。
それは――王印を宿すための“耐性”」
女の声が続く。
「でも、まだ“馴染み”ではないわ。
あの子はただ、影を拒まなかっただけ」
「拒まなかった……?」
「ええ。焔は影を焼かず、影は焔を呑まなかった。
――どちらも“共存”を選んだ。
それが何を意味するか、まだ分からないけれど」
沈黙が落ちる。
やがて金の目がゆっくりと閉じ、低く呟いた。
「面白い。
ならば観察を続けよう。
あの少年が“自ら影を求める”その日まで」
ムカデの肩を影が撫でる。
彼の身体が音もなく崩れ、闇に溶けていく。
床に広がった血だけが、赤く残った。
「灰隠を見張れ。
焔が生まれた地に、必ず“影”は寄る。
そして――寄らせる」
低い笑いが響き、遺跡全体がうねった。
柱の印が青白く点滅し、壁に刻まれた古代の文様がゆっくりと動き出す。
その中心、黒い湖面のような闇の中で、
ひとつの焔の残光が、静かに揺れていた。
――焔と影。
その二つの運命は、まだ交わっていない。
だが確かに、互いの存在を感じ取り始めていた。
少年は知らない。
この夜が、世界の均衡をわずかに傾けたということを。
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印の世界 ― 五大国と小国の均衡
この世界は、“印”によって形づくられている。
祈りも、武力も、記憶さえも――すべては印によって刻まれ、伝えられる。
だがその印を巡る覇権争いの果てに、世界は五つの大国へと分かたれた。
それぞれが異なる印術体系を持ち、
今もなお、表と裏で“印の支配”を競い合っている。
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焔牙国 — 「炎で秩序を築く国」
火の大地にそびえる軍事国家。
“印は力なり”を信条に掲げ、幼い頃から子どもたちに印術兵教育を施す。
印を戦術に転用した最初の国であり、
爆発・衝撃・灼熱を操る〈攻撃印〉と〈爆印術〉の研究が最も進んでいる。
「焔の紋章」を持つ者は国の誇りとされるが、
同時に“戦場で死ぬまで燃え続ける兵士”として扱われる。
力と犠牲、両方の象徴――それが焔牙国である。
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翠風国 — 「理の風を継ぐ者たち」
無数の風車が回る、草原と砂丘の国。
かつて世界で最初に印の理論体系を築いた“学術の国”でもある。
〈知識印〉や〈幻印術〉を駆使し、
他国の戦争を避けながら“情報”で均衡を保ってきた。
彼らにとって印は“心の科学”であり、信仰ではない。
ゆえに聖光国とは思想的に敵対している。
だが、裏では全ての国の情報網を握る“風の諜報連盟”を動かし、
戦場に立たずして戦局を左右すると噂される。
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鋼印国 — 「鉄に宿る魂」
山岳地帯に築かれた要塞国家。
“印を刻む”ことそのものを芸術とし、
剣・槍・鎧などの武具に〈錬印〉を刻む独自の文化を発展させた。
その技術は他国に比べて異質で、
彼らは“印を使う”より“印を鍛える”ことに重きを置く。
また、“無印術”と呼ばれる特殊技能を継承しており、
印を消し、無効化する技を持つ唯一の国でもある。
表向きは中立を保っているが、
各国の兵器開発に密かに関与しているとも言われる。
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聖光国 — 「印は神の言葉」
広大な砂漠の中央に築かれた宗教国家。
印を“神々の言葉”として崇拝し、
印術を用いることを“神意の顕現”と定義している。
白い聖堂群の内部では、
古代から続く“神印”の解読が続けられており、
世界で最も多くの古印文書を保有している。
だが、彼らの信仰は次第に狂信へと変わり、
他国の印体系を“邪印”として弾圧。
印の純化を目的とした“聖印粛清”を進めている。
現在も、灰隠に潜む“焔印”を“禁忌の神敵”として追っているという。
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灰隠 — 「灰より生まれ、灰に還る里」
かつて封印戦争の最前線となった小国。
無数の封印陣が張り巡らされ、
土地そのものが“印の墓場”と化している。
かつては封印と鎮魂の印術で知られた穏やかな里だったが、
封印戦争で最強の印兵を送り出した結果、
多くを失い、今では衰退の一途を辿っている。
〈封印・鎮魂印〉は今も一部の者に受け継がれているが、
印術の継承者が激減した今では、
“無印の子”であるツバサのような存在も珍しくなくなった。
しかし――
この灰隠こそが、かつて九つの“根印”が封じられた地でもある。
ツバサの中に眠る〈焔印〉は、そのひとつに過ぎない。
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……世界が静かに均衡を保とうとする、その裏で。
ひとりの少年の焔が、少しずつその均衡を狂わせ始めていた。
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夕陽が、訓練場の砂を黄金に染めていた。
風はぬるく、遠くで鐘の音がかすかに響く。
ツバサはひとり、焦げた木人を前に立っていた。
掌を握るたびに、焔印が脈を打つ。
炎が爆ぜ、制御を失って砂を焦がす。
息は荒く、額から汗が滴る。
「……っ、また暴発かよ」
拳を振るたび、焦げた煙が立ち上る。
右腕の焔印は、赤黒く光っていた。
その火はまるで――怒りと痛みを混ぜたように、熱かった。
ツバサは肩で息をし、拳を地に突き立てた。
もう何度失敗したか分からない。
けれど、やめられなかった。
(……俺が制御できなきゃ、誰も信じちゃくれねぇ)
その時――
「……痛くない?」
柔らかい声が、背後から降ってきた。
あまりにも穏やかで、ツバサは一瞬、反応が遅れた。
振り向くと、そこにひとりの少女が立っていた。
風に揺れる灰銀の髪。
夕陽を透かして淡く光り、まるで砂の中の月光のようだった。
肩までの髪の端はほんのりと桃色を帯び、風が吹くたびに儚く踊る。
瞳は薄桃色――しかしよく見ると、光の加減で金の粒が混じっている。
その瞳は、火でも水でもない、不思議な温度を持っていた。
白に近い水色のローブを纏い、腰には細い医療印具の袋。
首元に刻まれた小さな印――〈癒印〉が淡く光っていた。
「あんた……誰?」
ツバサは警戒を隠さず、距離を取るように立ち上がった。
彼女は驚くでもなく、静かに微笑んだ。
「篝ユナ。……同じクラスでしょ」
「そうだっけか、俺の事冷やかしに来たのか?」
「ちがうよ」
彼女は静かに首を横に振った。
「焔の“痛み”を、少しでも楽にできるかと思って」
そう言って、ユナは歩み寄る。
砂の上を裸足で歩くように、静かな足取りだった。
ツバサが一歩下がるより早く、彼女の手が伸びた。
指先が、焦げた腕に触れる。
その瞬間――
ツバサの焔印が、ふっと静まった。
赤黒かった炎が、桃色に近い柔らかな光へと変わっていく。
「……っ!?」
驚いて腕を引こうとするが、ユナは離さない。
手のひらから、ほんのりとした温もりが伝わってくる。
それは熱くも冷たくもない、“人の温度”だった。
「……なんで、怖くねぇの」
ツバサの声はかすれていた。
この印に触れようとした者は、皆、焼けどのように弾かれた。
だが彼女だけは、平然としている。
ユナはほんの少し笑った。
その笑みは、どこまでも優しく、曇りがなかった。
「焔は、あったかいでしょ?」
ツバサは息を呑む。
誰もが“危険”と呼んだその焔を、彼女だけは“あったかい”と言った。
その一言が、胸の奥でゆっくりと広がっていく。
燃えるような痛みが、少しだけやわらいだ。
「……お前、変なやつだな」
「よく言われる」
ユナは楽しそうに笑った。
風が吹き、灰銀の髪がツバサの頬をかすめる。
ツバサは、ほんの少しだけ目を細めた。
まるで、胸の奥に小さな灯りがともったような感覚。
焔でも、印でもない。
ただ、“人のぬくもり”という名の光。
その時、彼の焔印が静かに明滅した。
いつもよりも穏やかに、
まるで彼女の癒師に呼応して、微笑むように。




