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第3話 焔の灯火

 その日は、アカデミー卒業生が〈印輪〉を受け取る日だった。

 朝から灰隠の大通りには人の波ができ、

 誇らしげに立つ卒業生たちの胸元には、

 それぞれの印が淡く光を放っていた。


 アカデミーの門前。

 緋色の旗が揺れ、教官たちの声が響く。

 ひとり、またひとりと名前が呼ばれ、

 新たな印術師として〈印輪〉を受け取っていく。


 ツバサは門の外からその光景を見つめていた。

 風が砂を巻き上げ、頬に少し痛い。

 誰も彼に気づかない。

 それでも、目は離せなかった。


 その中に――見知った顔があった。


「カイ!」


 思わず声を張り上げる。

 振り向いた少年は、一瞬だけ目を見開いた。


 カイは白銀の髪を無造作にかき上げた。

 光を受けるたび、毛先が青白く瞬き、まるで稲光が髪の中で暴れているようだった。


 淡い灰青の瞳がツバサを捉える。

 その瞳は、普段はどこか眠たげなのに――“雷が走る前”のような冷たい光を秘めている。


「お、おう……ツバサか」


 カイは苦笑を浮かべながらも、

 ほんの少しだけ、距離を取るように立ち止まった。

 ツバサの右目の焔色が陽に反射し、

 それを見た周囲の生徒たちが小さくざわめく。


 ツバサは気づかないふりをして笑った。

「アカデミー卒業、おめでとう! 俺もすぐ追いつくぜ!」


 その声には強がりも混ざっていた。

 心のどこかで――もう同じ場所には戻れないと知っていながら。


 カイは短く息を吐き、わずかに頷く。

「ああ……すぐ来いよ」


 それだけ言って、背を向けた。

 彼の指先で光る〈印輪〉が、

 太陽の下で静かに黒く輝いていた。


 ツバサはその背中を見送る。

 胸の奥で、何かが焼けるように熱かった。


(俺だって……いつか絶対――)


 拳を握るツバサの焔色の瞳に、

 ほんの一瞬、影のような光がよぎった。




 訓練場の片隅。

 朝の光が砂の上を照らし、木の人形がいくつも焦げ跡を残して立っている。

 ツバサは汗だくのまま、何度も印を結んでは失敗を繰り返していた。


「ハガネ先生、早く印の制御の仕方教えてくれよ!」


 声には焦りが混ざっていた。

 両手の指先は赤く焼け、袖口には煤がついている。

 何度も暴発しそうになる焔を、必死に抑え込んでいた。


 だが、ハガネは腕を組み、少し離れた場所からじっと見ていた。

 その表情には、怒りでも呆れでもなく――心配が滲んでいる。


「待ってろ。お前は“特に”難しいんだからな」


 低い声が響く。

 ハガネの言葉は、叱責ではなく“釘を刺すような優しさ”を含んでいた。


「特にって……なんだよそれ!」


「言葉の通りだ。

 お前の焔印は、感情に直接呼応する。

 制御の仕方を“頭”で覚えようとするから、余計に暴れるんだよ」


 ツバサは歯を食いしばり、拳を握った。

 焔が手の甲を舐めるようにゆらめく。


「感情に……呼応……? じゃあ、どうすりゃいいんだよ」


「簡単なことだ」

 ハガネはゆっくり歩み寄り、ツバサの背後に立った。

 ごつごつした手が、ツバサの肩に置かれる。


「“抑える”んじゃねぇ、“受け止めろ”。

 怒りも悲しみも、全部お前の一部だ。

 印ってのは、心の形なんだからな」


 ツバサは小さく息を呑む。

 焔が一瞬だけ静まり、風が優しく吹き抜けた。


「……受け止める、ねぇ……」


「そうだ。焦んな。

 焦げついた木はまた燃えるが、灰の中にも火種は残ってる。

 お前は、その火を灯せる奴だ」


 ハガネの声が穏やかに響く。

 ツバサは俯いたまま、わずかに笑った。


「先生、時々カッコいいこと言うよな」


「時々じゃなくて、いつも言ってんだよ」


 ハガネはツバサの正面に立ち、

 腕を組んで静かに口を開いた。


「まずお前の〈焔印〉はな、普通の炎印えんいんとは違う」


 その声は、教科書のような説明でも、説教でもなかった。

 まるで、何かを“確かめるような”口調だった。


「普通の印は手で印を組み、魔脈を流して形を成す。

 だが――お前の場合、身体そのものが“印”になってるんだ」


 ツバサは目を丸くした。

「は? 身体が印って……そんなのどうしろって言うんだよ!」


 ハガネは小さくため息をつき、

 しかしその目には優しさが宿っていた。


「だから言ってんだ。“頭”で考えるな、“心”で感じろ。

 お前の焔は理屈じゃねぇ。感情と生きてるんだ。

 気持ちを抑えるんじゃなく、制御しろ」


「……心で、感じろ……」


 ツバサは拳を見つめ、息を吸い込んだ。

 焔印の刻まれた腕が、微かに脈を打つ。

 痛みでも熱でもない。

 胸の奥で何かが、静かに呼吸していた。


「よし、心だな」


 ツバサは目を閉じ、大きく深呼吸した。

 肺の奥まで空気を入れて、すべてを吐き出す。

 怒りも、焦りも、悲しみも。

 残ったのはただ、“生きたい”という願いだけだった。


 その瞬間、彼の身体を赤い光が包んだ。

 指先から零れるように、焔が灯る。


「……焔印・ともす」


 掌の上に、小さな焔が生まれた。

 だが、それは熱を持たない。

 優しく揺れながら、ツバサの心臓の鼓動に合わせて明滅する。


「……で、できた……?」


 ツバサが震える声でつぶやくと、

 ハガネは腕を組んだまま、ゆっくりと頷いた。


「ようやく見せたな、“お前の焔”を」


 ツバサは掌を見つめ、目を細める。

 その焔は、まるで彼自身が“存在している”ことの証のようだった。


「燃やすんじゃねぇ……灯すんだ……」


 ツバサの呟きが、風に溶けていった。

 


 ハガネは焔の灯を見つめながら、

 心の奥で、静かに恐れていた。


 ――ツバサの焔印が、本当に“あの印”なら。


 かつて世界を分断し、国と国を焼き尽くした封印戦争。

 九つの根印こんいんを巡って、多くの印術師が命を落とした。

 その火種が、再びツバサという少年に宿っている。


 (このままだと、あいつは……各国に狙われる。

  “兵器”として、あるいは“災厄”として……)


 ハガネは拳を握り、ゆっくりと空を仰いだ。

 灰隠の空は相変わらず曇っていたが、

 その奥にかすかな焔のような月が見えた。


 ⸻


 そして、その夜。


 ツバサはひとり、アカデミーの裏手を歩いていた。

 窓から漏れる灯り。

 談笑する声が、夜風に混ざって流れてくる。


「新しく入ったカイって奴、最初からすげー活躍したみたいだぞ」


「流石アカデミー首席だな。

 先生たちも絶賛してたってさ」


 ツバサの足が止まる。

 壁の向こうでは、数人の生徒が談笑しているらしい。

 彼らの声は軽く、どこか楽しげだった。


「……カイ……」


 ツバサは小さく呟く。

 昼間見た、あのまっすぐな笑顔が頭に浮かぶ。

 自分とは違って、誰からも認められ、

 未来を約束されたような少年。


 それでも、彼の胸の奥には確かに“誇り”があったはずだ。

 ――「すぐ追いつくぜ」と笑ったあの言葉。

 だが今は、それがただの“虚勢”に思えて仕方なかった。


 夜風が吹き、髪を揺らす。

 ツバサは壁に背を預け、拳を強く握りしめた。


(俺だって……頑張ってるのに……)


 掌の焔印が、わずかに赤く光った。

 怒りとも、嫉妬ともつかない感情が、

 胸の奥で燻りはじめていた。


「……なんで、俺だけ……」


 その焔の灯は、穏やかな赤から、

 ゆっくりと――闇に近い色へと変わっていった



 ――そして、闇の中に紛れ、侵入してきた者がいた。


 夜の灰隠。

 霧のような闇が地を這い、風は止まり、虫の声すら途絶えている。

 その静寂の中を、ひとつの影が音もなく進んでいた。


 肥えた体格に似合わぬ俊敏さ。

 泥のような足音を立てながらも、気配はまるで消えている。

 その男の名は――〈ムカデ〉。


 の一員であり、

 各国で“人影狩り”として指名手配されている危険人物だった。


 体型こそ滑稽だが、その動きは異様だった。

 指をひとつ鳴らすだけで、影が蠢き、

 闇そのものが形を持って這い寄ってくる。

 その顔には、気味の悪い笑みが張りついていた。


「……いた、いた。焔印のガキ……」


 ムカデは舌で唇を舐めながら、

 里の外れ、小さな崖の上に立つ少年を見つめた。


 ツバサだった。

 ひとりで焔の制御の練習をしていたが、

 集中が途切れて座り込んでいる。

 焔印はわずかに赤く光り、夜の中で微かな灯のように揺れていた。


 その灯を見て、ムカデの目がぎらりと光る。


「ツバサくーん。……ちょっと、あそぼー」


 ねっとりとした声が、闇の中から響く。

 ツバサは眉をひそめ、顔を上げた。


「は? 誰、おっさん」


 闇の中から現れた男は、満面の笑みを浮かべていた。

 太った身体を揺らしながら、ゆっくりと手を広げる。

 だが、その背後の影が――

 まるで生き物のように地を這い、ツバサの足元へと伸びていた。


「おっと、怖がらないでよ。

 ただ君の“印”をちょっと見せてほしいだけさ」


「……焔印のこと、知ってんのか?」


 ツバサの声が低くなる。

 焔印が反応するように、掌の奥で熱を帯びる。


 ムカデはにやりと笑った。

「もちろんさ。

 それは“王印”の欠片だろ? 君、特別なんだよ」


「は……?」


 ツバサの視界の端で、影が動いた。

 気づいた時には、足元の地面から黒い触手のようなものが伸びていた。


「なっ……!」


 ツバサが飛び退いた瞬間、地面がえぐれる。

 影がムカデの腕と繋がり、まるで生きているかのようにうねっていた。


「さぁ……“遊ぼう”か」


 ムカデの瞳が真っ黒に染まり、

 その周囲の空気が、影のように沈んでいった。


 闇がざわめき、ムカデの影が生き物のように地を這う。

 湿った音を立てながら、ツバサの足元へと伸びてきた。


「――っ!」


 反射的に跳び退いた瞬間、背後から別の影が迫る。

 闇が刃となって地面を切り裂き、土と火花が爆ぜた。

 熱気と砂煙がツバサの頬を叩く。


「おいおい、逃げるなよ、ツバサくん」


 闇の中で、ムカデの声がねっとりと響く。

 太った腹を揺らしながら、影を操る指先が踊る。

 四方八方から伸びた影の腕が、ツバサを包囲した。

 百の蛇が蠢くように、地面がざわざわと波打つ。


「怖がらなくていい。……痛いのは一瞬だから」


 影が一斉に襲いかかった。

 ツバサは地を蹴って後ろへ跳ぶ――が、

 ひとつの影が背後の岩肌にぶつかり、石が弾けた。

 破片が頬を裂き、赤い筋が走る。


「チッ……!」


 焔印が熱を帯びる。

 だが焦るたびに炎が暴れ、指先で小さな爆発が起こる。


「制御ができてねぇなぁ」


 ムカデが笑い、影を分裂させた。

 次の瞬間、ツバサの視界が真っ暗に塗りつぶされる。

 影が天井のように覆い被さり、逃げ場を塞ぐ。


 喉を掴まれ、体が宙に持ち上がった。

 冷たい圧力。首筋に締めつけが走り、呼吸が途切れる。


「よく見せてごらん、焔印のガキ。

 その力がどんな味か、俺が確かめてやる」


 ムカデの影が、まるで吸い上げるようにツバサの腕を這う。

 焔印の光が奪われていく。


「ぐっ……や、めろっ!」


 必死にもがくが、腕も脚も闇に縫いつけられて動かない。

 目の前が赤黒く滲む。

 呼吸音と鼓動が耳の中で反響する。


(やばい……このままだと、また……!)


 そのとき、胸の奥で“焔”が鳴った。

 心臓の鼓動に合わせ、右目が熱を持つ。

 視界の端で、世界の色が反転した。


(心で……感じろ。

 頭じゃねぇ……心で!)


 ハガネの声が脳裏をよぎる。

 ツバサは唇を噛み、全身の力を絞り出した。


「焔印――ともす!!!」


 その瞬間、音が消えた。

 ツバサの身体から光が爆ぜ、空気が震える。

 紅蓮の焔が一瞬にして闇を焼き尽くした。


「うわああっ!?」


 ムカデの影が焼け焦げ、黒煙となって弾け飛ぶ。

 ツバサの足元に残ったのは、真円に溶けた大地。


 だがムカデは怯まない。

 「おもしれぇ……!」と叫び、影を再び地に叩きつけた。

 無数の黒い鎖が地面から突き出し、ツバサを縛り上げる。


「くっそぉ……!」


 ツバサは拳を握りしめ、再び焔を集中させる。

 掌の中の炎が、渦を巻くように螺旋を描いた。

 赤い残光が夜の闇を裂く。


 ――無意識に振るった拳から、螺旋状の焔が噴き上がった。


「な、なんだ今の……!」


 紅蓮の衝撃が走り、焔の螺旋がムカデを直撃する。

 巨大な火柱が上がり、夜空が赤く染まっ


 ツバサの拳が闇を突き破る。

 焔の螺旋がムカデを直撃し、巨大な火柱が上がった。

 夜空が赤く染まり、地を這う影が一瞬で蒸発する。


「ぎゃあああああああああッ!?」


 ムカデの叫びが夜に響く。

 肥えた体が地面を転がり、黒い煙を吐きながら焦げ落ちた。


「ば……化け物が……! 王印の器め……!」

 呻きながら、ムカデは口角を歪めて笑った。


「……ククッ。これ以上やると“気づかれる”……か」

 焼け焦げた手で影を掴む。

「今日は“味見”だけで充分だ。焔印の味は、悪くねぇ……」


 呻きながら、ムカデは影の中へと沈み込む。

 その瞳だけが、黒い光を残して消えた。


 ツバサは膝をつき、荒い息を吐いた。

 地面は焦げ、空気がまだ熱を帯びている。

 右目が焼けるように痛い。

 手で押さえると、焔色が深く、黒味を帯びていた。


 まるで“闇を吸い込んだ焔”のように。


「……これが……俺の……力……?」


 焔印がゆらりと明滅する。

 その赤は、夜の闇をわずかに照らす小さな灯のようだった。


 だが――遠くの崖の上から、その灯を見ていた影が一つ。

 その口元がゆっくりと歪む。


「焔印、覚醒確認……面白くなってきたな」


 男の瞳が金色に光り、夜の闇に溶けていった。


 ――灰隠の静寂は、完全に破られた。

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