【番外編2】私だけの飼い犬
『あら、犬がいっちょまえの男の眼をするようになったじゃないの』
その時の言葉に偽りはなかった。
『……いいわ。解放してあげる、あんたをそんな眼にさせたお嬢さんの傍にいなさい。別にそれで契約を打ち切るほど私も父も狭量ではないわ。第一、竜堂寺と切れたらうちも損失が大きいもの』
だけど背を向けた時、頬に何かが伝ったのも事実で。
10の頃から、可愛がっていた、私の飼い犬。
私なりの愛情を注いでいたつもりだったのだけど、彼にはそれが屈辱的な行為としか認識されていなかったらしい。
だったら、そろそろもう、解放してあげましょう。
私は、彼を傷つけたいわけではなかったのだから。
……ああ、だけど淋しい。
大好きな飼い犬と別れるのは、とても淋しいわ。
「……変な夢」
目が覚めた時、泣いていた。
夢の中の別れが、悲しくて。
夢の中で私は、お金持ちのお嬢様で、同じ年齢の少年を犬として飼っていた。
「……私はただの、しがないOLなのにね」
先日オタク気質な同僚から、「箱庭の虜囚」という乙女ゲームについて熱弁されたからかもしれない。
私はゲーム全般に興味がないから、適当に聞き流していたのだけど。
『顔は全然違うんだけど! 雰囲気がね。貴女、女帝様と似てるのよ!』
そんなことを言うものだから、妙に印象に残っていたのよ。
「それにしても……夢の中の私は随分と未熟だったわね。あれじゃあ、逃げられるのも分かるわ」
思わず苦笑いが漏れた。
10代の少女だから仕方ないのかもしれないが、あの調教のやり方じゃ飼い犬に逃げられるのも道理だ。夢の私は、ただ自分の愛し方を押し付けてただけなのだから。
愛を受け入れられたいのなら、まず相手が望む形の愛を与えなければならない。そのうえで、ゆっくりと自分の愛し方が受け入れられるように仕向けていかなければ。
「……じょ、女帝様……目を覚まされたのですか……?」
ーーそう、今の、私のように。
「義正……誰が貴方に発言を許したのかしら? お仕置きはまだ、終わってないわよ」
亀甲縛りのまま放置していた義正の端正な顔が、私の言葉で泣きそうに歪んだ。
その情けない姿が、愛らしくて、ついつい許してあげたくなるけど、我慢だ。甘やかしてはいけない。
「私は怒っているのよ? 義正。……貴方、何で私を解雇させたりしたのよ」
この男は、親会社の社長という地位を悪用して、孫請けの弊社の社長に私を解雇させたのだ。私に何の落ち度もないのにも関わず。
飼い主に断りもなく、そんなことをする駄犬はきちんと躾けなければならないでしょう?
「だって………」
「だって?」
「だって……だってこれ以上、貴女が俺の知らない所で、他の男を惹きつけるのを許せなかったんです……!」
縛られたまま芋虫のように蠢きながら、義正は弁明した。
「……俺の妻となって、家庭に入って欲しいと言っても聞いてくれないし……! せめて俺の専属秘書になって欲しいと言っても聞いてくれないし……! 俺が貴女の会社に行けば、社長が直々に孫会社になんてくるものじゃないと怒るし……もう……もう俺、限界だったんです……!」
……ああ、もう。大の男が情けなく泣きわめいて、恥ずかしくないのかしら。これが、急成長中の大会社の社長で、女子社員の憧れの的だなんて、信じられないわね。
私みたいな平々凡々な女を好きになる物好き、貴方以外そうそういないと言っても聞かないし。
夢の中の私と、違った意味で、調教の仕方間違えたかしら。甘やかし過ぎたわね。ちょっと立場を分からせないと。
「義正? 貴方の飼い主は、誰?」
「………女帝様です」
「貴方と私は、どちらが立場が上なの?」
「………………女帝様です」
「じゃあ、貴方が私の仕事に口出す権利がないことも分かるわね」
「………ですが……」
……ああ、そんなしょぼくれた表情しないの。そうやっていつも泣き落としにかかるんだから。
ありとあらゆるものを兼ね備えている男が、どこにでもいる平々凡々な私に、そんな情けない姿を晒してるだなんて………ぞくぞくしちゃうじゃない。
「……仕方ないわね。来月、貴方の会社の採用試験を受けてあげるわよ」
「っ本当ですか!?」
「だけど、秘書にはならないわよ。受けるなら普通の一般職。それは譲れないわ」
「女帝様が俺の会社にいてくれるだけで十分です! ありがとうございます!」
……結局いつもこうして最後は甘やかしてしまうのよね。
本当困った駄犬だわ。……何をやらかしても可愛いんだから、もう。
ついでに縛った紐を解いてあげると、義正は勢いよく抱きついてきた。
「……いつになったらステイを覚えるのよ。貴方は」
「ああ……女帝様……女帝様、大好きです」
「……その女帝様って呼び方、やめなさいよ」
「なぜ? 貴女には女帝様という呼称こそ、相応しい。女王様なんて、俗っぽい呼び名ではなく。気高く、凛として美しい人。私だけの支配者。俺は未来永劫貴女の僕……貴女の犬です」
……随分と傾倒されたものね。
出会った時の王様然とした姿が、嘘のよう。
それだけ私がうまく調教したと……彼の心の隙間へうまく入り込んだということだけど、それにしても適正あり過ぎよ。
まるで私の為に存在していたみたいじゃないの。
「……本当貴方は駄犬ね」
その広い背中にそっと、手を伸ばす。
私の、犬。
私だけの、可愛い飼い犬。
何があったとしても、手放したりしない。
……例え夢の中の彼のように、解放を願ったとしても。
「ーー名前で呼んで欲しいと言っているのよ……察しなさい」
その温かい胸に顔を埋めたら、夢の記憶はいつの間にか忘却の彼方に消えて行ってしまった。




